第三回『保建大記』を読む会のお知らせ

『保建大記』は、崎門の栗山潜鋒(一六七一~一七〇六)が元禄二年(一六八九年)に著した書であり、『打聞』は、同じく崎門の谷秦山が『保建大記』を注釈した講義の筆録です。崎門学では、この『保建大記』を北畠親房の『神皇正統記』と並ぶ必読文献に位置づけております。そこでこの度弊会では本書(『保建大記』)の読書会を開催致します。詳細は次の通りです。

○日時 平成二十九年四月一日(土曜日)午後二時開始
○場所 弊会事務所(〒二七九の〇〇〇一千葉県浦安市当代島一の三の二九アイエムビル五階)
○連絡先 〇九〇(一八四七)一六二七
○使用するテキスト 『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注、平成二一年、勉誠出版)

(崎門学研究会)

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「我が国における承詔必謹と絶対尊皇の精神について」(『伝統と革新』25号、平成二十九年冬号)

伝統と革新表紙小生の論考が、『伝統と革新』25号(平成二十九年冬号)に掲載されました。タイトルは「我が国における承詔必謹と絶対尊皇の精神について」です。昨今の御譲位の問題に関する愚見を認(したた)めました。是非ともご高覧下さい。

 

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『崎門学報』第九号発行

崎門学報第九号表紙-212x300『崎門学報』第九号発行致しました。ご高覧下さい。

崎門学研究会

 

 

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「国体の本義を正し、対米従属からの脱却を!」(愛媛県師友会-ひの会会報『ひ』第502号)

ひの会会報表紙この度、愛媛の俊秀である三浦君が「ひの会」の会報を復刊されることになり、不肖ながら小生にも執筆依頼が来たので、ここに謹んで一筆啓上する。

三浦兄弟との出会い

小生と三浦君との出会いは、昨年(平成二十七年)十月に行った梅田雲浜先生生誕百五十年記念墓参にさかのぼる。梅田雲浜は、幕末勤皇志士の先駆けであり、安政の大獄で井伊直弼によって弾圧され命を落とした人物である。小生は、かねてより山崎闇齋の創始した崎門学を研究していたところ、この梅田雲浜が山崎闇齋の孫弟子である若林強齋の創始した望楠軒で学んだ、いわば崎門学の正統に連なる人物であることを知り、ちょうど昨年度が雲浜の生誕百五十年にあたることから、東京の浅草にある雲浜のお墓参りを有志でやろうという事になり、ネットで参加者を募ったところ、それを知った三浦兄弟が愛媛から夜行バスを乗り継いで参加してくれたのが彼らと知り合ったきっかけである。墓参りの後の一献で国事を談ずるや、たちまち意気投合し、同志の契りを結んだ。

以来兄弟との交流が始まり、彼らが愛媛にいる間は、ひの会のメンバーと一緒にスカイプで勉強会をしたり、また三浦兄が御上京の折には、昨今の情勢や学問の方向性などについてじっくり語り合うことが出来た。なお、勉強会では、これまで浅見絅齋の『靖献遺言』や若林強齋の『中臣祓師説』、また竹内式部による『中臣祓講義』などを読み、主として崎門・垂加の学の研鑽に努めている。兄弟は年齢も若く、学問に開眼して日も浅いとのことであるが、英志高邁にして才気煥発、尊皇愛国の熱情に満ち溢れている。そんな兄弟を小生は心から尊敬し、彼らとの知己を得た神計らいに感謝している。

安倍首相の「愛国詐欺」

さて、今年(平成二十八年)七月の参院選で自民党が大勝し、改憲勢力が憲法改正の発議に必要な衆参両院の三分の二に達した。これにより安倍首相は、かねてよりの政治的悲願である憲法改正に乗り出すと思われる。安倍首相は、かねてから保守主義の再生を掲げ、「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」などといって政権を奪取した人物である。たしかに第一次安倍内閣では戦後における反日左翼教育の根拠となっていた教育基本法をはじめて改正し、防衛庁を防衛省に格上げするなど、称賛に値する治績を残したが、平成二十四年に第二次安倍内閣が発足して以降は、本来の約束に違い、保守層の期待に背くような政治を行っている。

たとえば、昨年末の電撃的な日韓「慰安婦合意」は実にひどいものであった。安倍首相は、元来いわゆる「従軍慰安婦」の存在を否定し、第一次安倍内閣の時も、慰安婦問題に関して「軍による強制連行の証拠はない」とする閣議決定をしている。にもかかわらず、この「合意」では、我が国が韓国に対して、「従軍慰安婦」の存在を認めて謝罪し、十億円もの賠償金を支払うことになった。これはあの売国的な民主党でもなしえなかった歴史的暴挙である。

また、第一次安倍内閣は、小泉政権下における行き過ぎた「構造改革」を修正し、郵政造反議員の復党を認めるなどしたが、第二次内閣以降は、次第に構造改革路線に回帰し、竹中平蔵等、構造改革を主導した新自由主義者を産業競争力会議や規制改革会議のメンバーにして、TPPや外国人移民の受け入れといった諸々の市場自由化政策を推し進めている。こうした一連の自由化政策は、かつて安倍首相が謳った「瑞穂の国の資本主義」と明らかに矛盾する。

安倍首相は憲法改正によって集団的自衛権の行使を可能にし、それによって「日米同盟」を強化する必要があると主張しているが、その際のその主張の根拠として挙げているのが、昨今における中国の海洋進出や北朝鮮の核開発の脅威である。しかし中国の海洋進出が脅威ならば、なぜ政府はいちはやく自衛隊を尖閣諸島に送って実効支配を固めようとしないのか。(事実、安倍首相は、かつて平成二十四年に起きた中国の活動家による魚釣島への不法上陸に対して、当時の民主党政権が船長以下の不法行為者を送還して世論を激昂させた際、政府に抗議声明を出し、そのなかで「政府は尖閣諸島に必要な人員を配置し、灯台や避難港を整備するなど、管理の強化に取り組む」ことを強く要請していたのである。)また、北朝鮮の核開発についてもこれに対抗する手段は、我が国の核武装による相互核抑止しかない。これらの対策は個別的自衛権の問題であり、憲法改正を必要としない。つまり安倍首相の政治決断の問題なのである。

対米従属の実態

それでも、安倍首相が集団的自衛権に固執しているのは、日本のためというよりもアメリカのためである。アメリカの対日要求は冷戦以後エスカレートし、「日米構造協議」や「年次改革要望書」などによって露骨な市場自由化圧力が加えられた。また歴史問題に関しても、アメリカは対中抑止の戦略上、日韓の対立を嫌い、我が国の韓国に対する譲歩を求めて続けてきた。それでいて、尖閣有事に際しては我が国を守ると約束しながら、我が国による尖閣諸島の実効支配については、日中間の対立を煽るとして反対してきたのである。このように我が国の政治決断にとって最大の障害となっているのは、他ならぬアメリカの存在なのであり、安倍首相はその外圧に屈したのである。

もっとも、安倍首相としては、「自由や民主主義」という価値を共有するアメリカとの同盟関係を維持することが、上述したように中国や北朝鮮の脅威を封じ込める唯一の戦略と考えているのであろう。しかし、ここで見落としてはならないのは、そうした「自由や民主主義」への信奉が、我が国体の尊厳を傷つけ、国家における自主独立の気概を喪失させてきたということだ。この自主独立の気概の喪失こそが、我が国が外敵から侮りを受ける根本の原因であることをいい加減理解すべきだ。

我が国体の尊厳なる所以

いうまでもなく、我が国は万世一系の天皇陛下を主君に戴く天皇国である。天皇陛下は天照大神の御子孫として我が国に君臨され、祭政一致の統治を通じて国民と利害苦楽を共にして来られた。また国民も陛下の臣民として忠節を尽くし、一度の革命を経ることなく皇統を守護し奉って来たのである。この君臣の関係を貫く大義こそ、我が国体の尊厳なる所以なのであって、それはアメリカ由来の「自由や民主主義」という価値とは本来相いれないのである。

周知の様に、先の敗戦以来、我が国はアメリカによって「個人主義」や「国民主権」、「政教分離」といった諸原則を掲げる憲法を押し付けられ、現在も日米安保条約や地位協定の下で五万人近い米兵や軍関係者が我が国の領土に存在している。しかしこの「個人主義」や「国民主権」、「政教分離」という原則は、「君民一体」、「天皇主権」、「祭政一致」を旨とする我が国体の本義と真っ向から対立するものであり、米軍の正体は、中朝を封じ込めるための抑止力ではなく、天皇を戴く我が国体を封じ込めるための権力装置に他ならない。

まさにこうしたアメリカ支配の現実こそ、安倍首相が脱却をめざす「戦後レジーム」であるはずであるが、上述したように、安倍首相は憲法改正によって「日米同盟」ならぬ「対米従属」を強め、「構造改革」路線への回帰による一連の市場自由化政策によって、我が国の経済構造をより対米依存的なものに作り替えようとしている。ただ一方で、現在のアメリカは、慢性的な財政赤字を抱える中で、孤立主義的な傾向を強めており、対日政策にコミットする意思も能力も薄れてしまっているとも言われている。

よって、このようななかで、我が国が真の独立を取り戻し、光輝ある国家として生き残る唯一の道は、何よりも我が国体の尊厳なる所以である君臣の大義を振り起こし、アメリカの支配下から脱して、本来の「瑞穂の国の資本主義」に相応しい、自立した経済システムを確立する他ないと確信する。その上で、小生が崎門学を学ぶのも、この学問がまさに我が国体の尊厳なる所以を明らかにし、君臣・内外の分別を正すことを要諦とするからである。今後とも三浦兄弟を始め、ひの会の方々と切磋琢磨し、道の究明に努めて参る所存である。

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「崎門学と大アジア主義の関係について」(『大亜細亜』第二号より転載)

先日、弊会顧問の坪内隆彦氏が新著『GHQが恐れた崎門学』(展転社)を上梓された。本書は、江戸時代前期の儒者・神道家である山崎闇齋が創始した崎門学を基調に、幕末志士に影響を与えた五冊として浅見絅齋の『靖献遺言』、栗林潜鋒の『保建大記』、山県大弐の『柳子新論』、蒲生君平の『山陵志』、頼山陽の『日本外史』を取り上げ、それぞれの史的背景や根底思想について論じている。

荒尾精

荒尾精

実はこの崎門学と大アジア主義は、浅からぬ因縁を有している。若き日の頭山満等、玄洋社の志士たちが、興志塾の高場乱から『靖献遺言』の熱血講義を受け、忠孝義胆を養ったことは知られているが、頭山が「五百年に一度の傑物」と称した荒尾精もまた陸軍士官学校時代に根津一(東亜同文書院初代院長)や花田仲之助(満州義軍を組織)等の同志と『靖献遺言』を愛読し、その節義の純正なことから「靖献派」の領袖として畏敬された。荒尾は最初陸軍参謀のシナ部付として大陸に雄飛し、岸田吟香の開いた売薬店である樂善堂の支店を漢口に開いて諜報偵察に当たった。その結果、西欧の東亜侵略に対抗する為に日清が提携する必要性を痛感し、上海に後の東亜同文書院の前身となる日清貿易研究所を設立した。

浦敬一

浦敬一

漢口樂善堂の出身で、日露開戦に先立ちいち早く新疆イリ方面の探査に赴いた浦敬一は、平戸崎門派の重鎮である楠本碩水の門人である(浦に関する詳細は別稿「清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一」参照)。この平戸崎門派については、上述した坪内氏の新著でも触れられており、なかでも碩水に師事した岡彪邨(通称、次郎)は、上述した荒尾精の日清貿易研究所に入り、日清戦争に際しては陸軍通訳官として従軍した。また宮崎滔天の兄である宮崎八郎もまた、慶応三年、碩水の下を訪れ、僅か二か月の短期間ではあったがその薫陶に浴している。大アジア主義者、宮崎滔天を見出した犬養毅の五世祖は、若林強齋の学塾である望楠軒の門人に名を連ねた犬養訥齋であり、代々崎門学は犬養家の家学として継承された。訥齋という号は、その師強齋が、彼の多弁を戒めて命名したものとも言われる。犬養の没後、その筐底から発見された詩稿には、次のような五絶一首がある。

補世新無効。傳家有舊書。

不如田二頃。耕讀臥吾廬。

吾五世祖訥齋先生。以闇齋派經學垂帷。

爾來繼家學四世。至予斯學荒矣。

すなわち、犬養は家学の荒廃を憂い、その復興を念じているのである。彼が、明治四十三年に生起した南北朝正閏問題において、崎門派の内田周平と協力し、議論を南朝正統論に導いたのは、その思想的面目を明白に示す事績といえよう。

このように、崎門学と大アジア主義を結び付ける証拠は多いが、なかでも上述した平戸崎門派の出で大アジア主義と関係を持った人物は上述した以外にも何人か見出される。そこで以下では黒龍会編の『東亜先覚志士記伝』をもとに、それらの関係人物を列挙し、それぞれの略歴を摘記する。

岡幸七郎

明治元年七月二十一日平戸生まれ。岡彪邨(通称次郎)の弟。家は代々松浦藩士。少壮期に兄次郎と共に楠本碩水の門に学ぶ。明治二十九年大陸経綸の志を抱きシナに渡航し、上海に留まってシナ語を修め、次いでシナ中部の各省を旅行踏査し、同地の地理人情風俗に精通する。後に漢口に居を構え、日露戦争に際しては陸軍通訳官として従軍した。戦後、漢口で『漢口日報』を発刊し、社長として健筆を振るう。漢口在留すること三十年、その間、日本居留民会長を十数年務めた。昭和二年、健康を害して一時帰国の際、郷里の平戸で長逝した。

沖禎介

沖禎介

沖禎介

明治六年、平戸の出身。十三の時、長崎中学校に入り、次いで熊本濟々黌に転校し、さらに熊本第五高等学校に入学したが、中退して明治二十六年上京し、病を得て帰郷、静養の傍ら楠本碩水の門に入る。その後二十六年再び上京して当時の東京専門学校(早稲田大学)に入学するも神経痛を患い退学、病癒えて後は、内田良平と親近して黒龍会に出入りした。三十三年、慨然としてシナ渡航の志を起こし、三十四年には北京に赴いて東文学社(日本語学校)の教師となった。折しも日露の風雲急を告げ、北京公使館付武官が対露特別任務班組織のため決死の志士を募るとこれに応じ、三十七年二月に戦端が開かれて間もなく横川省三等と北満に潜入したが、ロシア兵に捕らえられてハルピン郊外で銃殺刑に処された。享年三十一。

楠本正徹

明治八年平戸出身。楠本端山・碩水兄弟の甥に当たり、幼少にして端山・碩水に学んだ。軍人を志し、十四の時上京、杉浦重剛の門に入る。しかし近眼の為軍人の道を諦めてからは報国の志を抱いてロシア語とシナ語を学び、日清戦争の際には軍属として威海衛の攻略に武勇を発揮した。三国干渉以降。ロシアへの痛憤止まず、二十九年内田良平と共にウラジオストクに渡航して極東情勢の調査に努めた。さらに、露清韓三国国境地帯の実情を調査するため、二十九年十月単身ウラジオストクを発し、厳寒を犯して間島地方の地理情勢を調査した後ウラジオストクに帰還するも、凍傷が悪化し、内田等の懇篤な看病にもかかわらず客死した。享年二十三。

菅沼貞風

菅沼貞風

菅沼貞風

慶応元年、平戸の出身。十五歳で楠本端山に入門して学に励み、藩主松浦侯の世子の侍伴となる。さらに十八の時に碩水の門に学び、東京に遊学して東京帝国大学古典科講習科漢書部に入学、主として内藤湖南の教えを受ける傍ら『大日本商業史』を編述した。これが評価されて二十一年古典科を卒業後東京高等商業学校の教師に就任した。さらに大学卒業に先立って『新日本図南の夢』と題する冊子を著し我が国による北守南進の東亜経綸策を説いた。『東亜先覚志志士記伝』いわくその精神は「スペインと戦いルソン(フィリピン)を独立せしめ東洋の元気を振作し、南洋諸島を連ねて一団となし、攻守の同盟を締結し、シナがルソンに寇せば我が国はその首を制し、シナが我が国に寇せばルソンがその尾を撃つの計を決し、以てシナをして我国の侮るべからざるを知らしめなば、東亜連合の策は茲に成り、東洋の元気を振作し得るであろう」というものであった。この図南の策を実行せんと試みた彼は、教職を辞し、福本日南と謀って二十二年四月、横浜を発して南洋の実情調査に赴いた。そして同月にはマニラに到着し鋭意実地調査に努めたが七月に至ってコレラを発病し容態急変して不帰の客となった。享年二十五。

杉田定一

杉田定一

大体以上であるが、ではなぜ崎門派はアジアを目指したのかという点が問題になる。前述した荒尾精は、『宇内統一論』を著し、「天成自然の真君」たる天皇を戴く我が国の世界的な天命を説き、いわば皇道恢弘としての興亜思想を唱えた(詳細は別稿「興亜の先達、荒尾精の『宇内統一論』を読む」参照)。この他に、特筆すべきもう一人の人物は明治の民権家である杉田定一である。彼は嘉永四年越前福井藩の出身であり、新聞記者から民権家に転じて板垣退助と共に「愛国社」を再興した。さらに明治十七年、清仏戦争が起こると東亜前途を憂い、単身上海に渡航して、同志の中江兆民や植木枝盛等と共に「東洋学館」を設立した。杉田は頭山や寺尾亨に次ぐシナ革命の同情者とされる。そんな杉田が思想的影響を最も受けたのは、勤王僧の道雅上人と福井の藩儒である吉田東篁であり、なかでも吉田は橋本左内の師として崎門学を伝授した人物として知られる。杉田は両師を回顧して次のように述べている。「吉田東篁先生は、道雅上人の慷慨気節を尊ばれたのと違い、至極温厚篤実の人であった。それで道雅上人からは尊皇攘夷の思想を学び、東篁先生からは忠君愛国の大義を学んだ。この二者の教訓は自分の一生を支配するものとなって、後年板垣伯と共に、大いに民権の拡張を謀ったのも、皇権を尊ぶと共に民権を重んずる、明治大帝の五事の御誓文に基づいて、自由民権論を高唱したのであった。抑々君主の大御心は、常に『民安かれ』と願わせらるる御心であると信ずるので、内においては、藩閥政治に反対し、外においては、東洋の自由を主張したのである。欧米に向って反抗したのも、彼が東方に向って圧制を試むるからであって、我れより欧米を圧制するようであってはいかぬ。そこで日本は終始一貫して王道の大精神に則らねばならぬと、深く確信した次第である」(『杉田鶉山翁』)。

大アジア研究会

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