9/24定例演説要旨@新浦安駅前広場

 

本日は西郷南洲翁こと西郷隆盛の命日である。西郷さんは言わずと知れた明治維新の英雄であり、明治10年の西南戦争で敗れて自決した。今年は没後、146年である。私は西郷さんは日本近代史において最も重要な人物だと思っている。しかしその真価は正当に理解されていない。一般に西郷さんというと不平士族の頭領であり、征韓論を唱えて朝鮮を侵略しようとしたという評価がなされているが、実態は全く違う。むしろ逆だ。明治維新の本来の理想は、幕府を倒して天皇陛下を中心とした平等な世の中を作ろうとしたのに、明治政府は富国強兵、殖産興業に励む余りに西欧の猿真似や追従に陥ってしまった。その象徴が、井上毅外相による鹿鳴館外交だ。中世貴族の様に着飾った政府の指導者が欧米各国の大使を招いて夜な夜な踊り狂い接待した。薩長藩閥政府による急速な近代化の陰で貧富の格差は拡大し故郷の山河は破壊された。こうした状況のなかで本来の維新をもう一度やり直そうとして立ち上がったのが西郷さんである。西郷さんは第二維新をやろうとしたのだ。それに西郷さんは、征韓論を唱えたのではなくて、アジア諸国が軒並み西欧の植民地にされるなかで、頑迷な鎖国主義に凝り固まる李氏朝鮮を自ら外交使節として赴いて説得して開国させ、アジアに共存共栄の道義的な秩序を敷こうとしたのだ(遣韓論)。その時西郷さんは、遣欧使節で外遊していた大久保や木戸の留守政府を預かっていたが、彼らが帰国すると遣韓論は覆され西郷さんは下野して鹿児島で晴耕雨読の日を送った。こんな潔い政治家がいまの日本にいるだろうか。西郷さんは偉い。西郷さんは西南戦争で敗れて鹿児島の城山で自決したが、その精神は玄洋社の頭山満や黒龍会の内田良平に受け継がれ、大東亜戦争に至るアジア解放の歴史に繋がった。したがって西郷さんの真価を見失うと、日本近代史のもう一つの重大な側面を見落とす事になり、偏ったアジア侵略史観に陥ってしまう。だからこそ我々は歴史教育において、西郷さんの真価を正しく伝えねばならないのである。

ところで、先週教育問題について演説したが、それと関連して県立中高一貫校の制度について当局から説明を受けた。というのも、浦安には市内に県立高校が2校(浦安高校と県立浦安南高校)あるが、浦安市民の教育意欲が高い一方で、現在の県立高校2校は残念ながら市民が安心して我が子を通わせられる環境が整っているとは言い難い状況にある。それは学力の面でも県内最下位クラスだが、数年前に両校を視察した際には、校舎も老朽化が目立ち、南高校などは東日本大震災時の地盤沈下で剥き出しになった基礎がそのままになっていた。
当局によると、在校生に占める市民の生徒の割合は、浦安高校は276/516→ 53.5%、浦安南は72/196→36.7%に過ぎない。特に浦安南は、日系南米移民の子孫など日本語指導が必要な外国人生徒の受け皿になっている現状がある。そうした受け皿も大切だが、まずはせっかく市内にある県立高校を地元市民の子弟が安心して環境整備が不可欠だ。
その上で、私は中高一貫校に注目してた。しかし中学が別れてしまうと同級生の関係性も絶たれ成人式の同窓会も公立組と中学受験組に別れてしまうなど地元意識の形成の阻害要因になっている。中学受験志向が高い理由は、公立中学に進学する高一貫教育を選ぶからだ。そこで、例えば市内県立高校を中高一貫校に改組し教育環境を整備すれば、市民の子ども達が安心して通えるのではないか。かくして地元への意識や関係性が醸成されれば、流動性の高い人口の定住化を促し、彼らが街づくりの主体的な担い手になって更に地元への帰属意識を高めるという好循環が生まれる。

現在千葉県では、公立の中高一貫校は併設型2校(千葉中学・高校、東葛飾中学・高校)、連携型1校(野田市立木間ヶ瀬中学、二川中学、関宿中学→関宿高校)がある。他にも千葉市立の中等教育学校(一つの学校として、柔軟なカリキュラム編成が可能)として稲毛国際中等教育学校がある。これらの長所としては長期的なスパンでの主体的・探究的な学びが可能になる利点があるとの事だ。浦安南高校を新浦安高校として中高一貫校に改組し、魅力ある教育環境の中で優秀な地元人材の輩出を目指すべきではないか。こうした提案を県当局や県議会の中でもしていきたい。
以上

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