第二回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ

靖献遺言講義表紙尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会

『靖献遺言』は、山崎闇斎先生の高弟である浅見絅斎先生(一六五二年~一七一二年)の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享四(一六八七)年、絅斎先生が三十五歳の時に上梓し、君臣の大義を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の略伝と遺言を編纂しております。絅斎先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣内外の名分を正し、尊皇の大義を説きましたが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われ、尊攘派志士の領袖として討幕の端を開いた梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」とも評されました。かく評した松陰自身も野山獄でこの書を読み感銘を受けています。

これまで『靖献遺言』を読む上で最良のテキストは、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』(国書刊行会)を措いて他にありませんでしたが、同書は絶版の上に高価であり入手が困難でした。しかし、このたび皇學館大学の松本丘先生の再編集によって講談社学術文庫から同書が再刊されたことで、読者の広汎な拡大が期待されます。特に今年は崎門学の学祖、山崎闇斎先生の生誕四百年でもあり、崎門学の必読文献である『靖献遺言』への注目もまた一層高まることでしょう。

そこで弊会では、月例の勉強会として、以下の要領で『靖献遺言』を読む会を開催し、崎門学への理解を深めると共に、絅斎先生が本書に仮託した尊皇斥覇の現代的意味について考えたいと思います。つきましては、多くのご参加をお待ち申し上げております。

なお、今回は第二巻の顔真卿を読む予定ですが、理解を深めるため、現在上野国立博物館で開催中の「顔真卿展」を鑑賞した後、近くの会議室に場所を移して開催致します。勿論読書会のみの参加も結構です。当日の詳細は以下の通りです。多くの御参加をお待ち申し上げております。

日時 平成三十一年二月三日(日曜日)

第一部 顔真卿展(https://ganshinkei.jp/)鑑賞(午前十一時半から午後一時頃まで)

ご参加の方は、午前十一時JR上野駅上野公園口前集合

第二部 『靖献遺言』を読む会(午後二時から午後五時)

会場 東京都台東区上野7-3-9 アルベルゴ上野420(https://www.spacee.jp/pre_bookings/share/2d0e5b72-50fa-4fb8-b7d4-ab5dbc8ef582

テキスト 『靖献遺言』(講談社学術文庫)。各自ご持参下さい。

連絡先 折本龍則(orimoto1@gmail.com、09018471627)

スカイプでの参加も受け付けます。

各位

崎門学研究会

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千葉県政に挑む私の志

我が国は真の独立国ではない!?

戦後七十有余年、いまだ我が国は真の独立国ではありません。昨今の我が国では、少子高齢化、人口減少が急速に進み、社会保障支出が拡大して財政赤字が累積する一方で、日本経済はバブル崩壊以降の長い景気低迷をいまだに抜け出せずにおります。また海外に目を向けると、これまで「世界の警察」を自任していたアメリカでは、自国第一主義を掲げるトランプ大統領が誕生し、同盟国に防衛負担の強化を求め、米軍の世界的なプレゼンスを縮小させる一方で、近年露骨な海洋侵略や軍拡を続けるチャイナへの対決姿勢を鮮明にしています。こうしなかで、我が国はいまこそ国家としての真の独立を取り戻し、自らの力で存続の活路を切り開かねばなりません。

「え?、日本が真の独立国じゃないなんて、何言ってるの?」と思われるかもしれません。たしかに、我が国は1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効によって名目上の独立を回復しましたが、実際には我が国の再軍備を禁じる戦後憲法と日米安保条約によって、アメリカによる軍事的占領状態が継続し、今日に至っております。また、戦後の占領政策に基づく、徹底した自虐史観教育によって、皇室を戴く我が国固有の国柄(国体)への誇りや、自主独立の気概は失われ、道徳は荒廃し、拝金主義が蔓延しています(数年前、ある新聞の調査で、2月11日の「建国記念の日」の由来を知っている国民が二割に満たない事実が明らかになりました。国民の大半が建国の由来を知らないというこの事実は、我が国が真の独立国ではない端的な証左です)。

さらに冷戦終結以降は、アメリカの外圧によって、新自由主義的な構造改革が強行され、共同体主義的な日本型経済システムが破壊された結果、貧富の格差は拡大し、婚姻率や出生率は低下し、食料自給率も低下の一途をたどっています(我が国の食料自給率は38%、穀物自給率は28%であり、先進国のなかでも異常な低さです)。西郷隆盛は、『西郷南洲遺訓』のなかで「政の大体は、文を興し、武を振るい、農を励ますの三つにあり。その他百般の事務は、皆この三つの物を助くるの具なり。」と述べておりますが、国家の独立は、自主独立の精神と軍事力、そしてそれを支える経済力、なかんずく国民の生命を維持する食料の三位一体によって成り立つものであり、そのどれか一つでも外国に依存するような国は真の独立国とは言えません。その意味で、現在の我が国は独立国ではないのです。

教育と農業の行政主体は県である。

したがって、我が国が真の独立を取り戻すためには、第一に教育を再生して、国民に日本人としての誇りと自主独立の気概を取り戻し、第二に、自主防衛体制を確立し、第三に、農業を振興して、食料自給体制を構築せねばなりませんが、第二の防衛政策を除いて、第一と第三の教育と農業の主たる行政主体は、国ではなくて県なのです。例えば、教育に関していうと、私はこれまで、浦安市における

歴史教科書の改善運動に取り組んで来ましたが、教科書を採択する市の教育委員の任命権は市長にあるものの、教育委員の代表である教育長の教員としての人事権は県の教育委員会が掌握しています。よっていくら市長が適正な教科書を採択するために自らの意向に沿う教育長を任命しようとしても、教育長は教育委員である前に一教員であり、その教員としての人事権は県の教育委員会にある訳ですから、当然採択もその意向に左右されてしまいます。また浦安市の教科書採択は隣接する市川市との共同採択になっておりますが、そうした採択地区を決定するのも県の教育委員会です。したがって県の教育行政を変えなければ我が国の教育再生は不可能なのです。

同様のことは農業についてもいえます。昨年(平成三十年)四月に、安倍内閣によって我が国の農作物の種を守ってきた「種子法」こと主要農作物種子法が廃止され、モンサントといったグローバル種子企業による遺伝子組み換え種子の流入などが危惧されております。この種子法廃止については、私も安倍首相に意見書(「種子法(主要農作物種子法)の廃止に抗議し、同法復活と併せて必要な施策を求める要望書」)を提出して抗議しましたが、実はこれまで種子法に基づき種子の生産や普及を担ってきたのは国ではなく県なのです。このように、我が国の真の独立を取り戻すためには、県政を改革せねばならないのです。

千葉県から日本の独立を取り戻す

そのうえで、千葉の教育と農政の現状はどうかと言いますと、平成27(2015)年の調査で、千葉県は小中学校におけるいじめ件数が全国ワースト1位、対教師暴力等の暴力行為の件数が全国ワースト3位を記録してしまいました。一時の数字だけで判断は出来ませんが、教育現場の荒廃が推測されます。こうしたいじめや暴力の問題は、戦後民主教育のなかで、学校や教師が威信を失い、偏った権利教育のせいで、規範意識が低下したことの結果ともいえます。また公教育の荒廃は、教育機会の均等という理念を形骸化させ、実質的な教育格差の拡大を招くという意味でも問題です。日本人としての正しい道徳を育み、自分という存在が、無から生まれたものではなく、親や祖先、国家の営みのなかで生かされていることを教えねばなりません。

農業についても、千葉県は米の生産量が全国八位の全国有数の農業県です(農林水産省「平成29年産水陸稲の収穫量」)。しかしながら、種子法廃止を受けて作成された「千葉県主要農作物種子対策要綱」では

、「農業競争力強化支援法の趣旨を踏まえ」とあり、この法律は、我が国が蓄積した種子に関する知見を、外資を含む民間企業に提供することが明記されていることから、県の種子技術の流出が懸念されます。したがって、県として独自の種子条例を制定し、しっかりとした予算的裏付けのもとに主要農作物の在来種を守り、食の安全、安心を保障することが是非とも必要です。そして県として、耕作放棄地の無償提供や所得補償などによって就農支援に本腰を入れ、何としても県内食料自給率の引き上げを図らねばなりません。「浦安は農業がないから関係ない」と思われるかもしれません。しかしそうした考えは間違えです。私たちは浦安市民である前に日本国民です。日本がなくなれば千葉も浦安もありません。浦安から、千葉から、地方政治の改革を通して日本の真の独立を取り戻す、それが私の志です。

折本龍則

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第一回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ

靖献遺言講義表紙尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会

『靖献遺言』は、山崎闇斎先生の高弟である浅見絅斎先生(一六五二年~一七一二年)の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享四(一六八七)年、絅斎先生が三十五歳の時に上梓し、君臣の大義を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の略伝と遺言を編纂しております。絅斎先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣内外の名分を正し、尊皇の大義を説きましたが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われ、尊攘派志士の領袖として討幕の端を開いた梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」とも評されました。かく評した松陰自身も野山獄でこの書を読み感銘を受けています。

これまで『靖献遺言』を読む上で最良のテキストは、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』(国書刊行会)を措いて他にありませんでしたが、同書は絶版の上に高価であり入手が困難でした。しかし、このたび皇學館大学の松本丘先生の再編集によって講談社学術文庫から同書が再刊されたことで、読者の広汎な拡大が期待されます。特に今年は崎門学の学祖、山崎闇斎先生の生誕四百年でもあり、崎門学の必読文献である『靖献遺言』への注目もまた一層高まることでしょう。

そこで弊会では、月例の勉強会として、以下の要領で『靖献遺言』を読む会を開催し、崎門学への理解を深めると共に、絅斎先生が本書に仮託した尊皇斥覇の現代的意味について考えたいと思います。つきましては、多くのご参加をお待ち申し上げております。

日時 平成三十一年一月二十日(日曜日)午後二時から五時まで

場所 千葉県浦安市当代島1ー3ー26アイエムビル5F

テキスト 『靖献遺言』(講談社学術文庫)。各自ご持参下さい。

連絡先 折本龍則(orimoto1@gmail.com、09018471627)

スカイプでの参加も受け付けます。

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李容九生誕百五十年―日韓合邦に殉じた志士の悲劇(『大亜細亜』第六・七号より転載)

李容九生誕百五十年

今年平成三十(二〇一八)年は、日韓合邦運動の指導者である李容九の生誕百五十年である。日韓合邦は、日韓の対等合邦を理想としながらも、現実には武断的な日韓併合に終わり、その後の日韓関係に禍根を残した。こうしたことから李容九の韓国における評価は日本に韓国を売った「売国奴」というのがもっぱらのようである。しかし、ではなぜ日韓合邦ならぬ日韓併合が必要であったのか、その時代背景や当時の政治情勢をみると、とても彼を一口に売国奴と云って片づけることのできない複雑な事情の存したことがわかるのである。

李容九は、明治二(一八六八)年慶尚道に生れた。両班階級中の最高の門閥に生れたが、幼い頃家産が傾き、各地を転々とするなかで十三歳の時に父を失い、母を助けて農業に従事し、糊口をしのいだが、二十三歳にして東学党に入門し、第二代教主崔時亨の高弟となった。東学党は、万延元(一八六〇)年、初代教主崔済愚によって創始され、封建的身分制度にしばられ、経済的困窮を強いられていた朝鮮下層民衆の間に多くの信者を抱えた。当時の朝鮮は、李氏による虐政が敷かれ、両班を頂点とする過酷な身分制度のもとで国家は腐敗し、民衆は苛斂誅求を強いられていた。その虐政の様は、李朝時代の最も有名な小説とされる『春香伝』に出てくる

金樽の美酒は千人の血

玉盤の佳肴は万姓の膏

燭涙落つる時民涙落つ

歌声高き処怨声高し

(金の樽の中の美酒は千の民の血にして、玉のようなる盤の上の佳き肴は万の民の膏なり、燭台の臘が落ちるとき、民の涙落ち、歌声の高き処に、民の怨みの声も亦高まる)

という有名な詩に示されている。この詩は東学党の党歌でもあり、党員に愛誦された。また両班の専制についても、李氏朝鮮末期の代表的知識人だった李人稙が作った『血の涙』という歌で次の様に歌われている。

「両班たちが国を潰した。

賤民は両班に鞭打たれて、殺される。

殺されても、殴られても、不平をいえない。

少しでも値打ちがある物を持っていれば、両班が奪ってゆく。

妻が美しくて両班に奪われても、文句を言うのは禁物だ。

両班の前では、まったく無力な賤民は、自分の財産、妻だけではなく、

生命すらその気ままに委ねられている。

口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか、遠い島へ流される。

両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない」

李容九

こうした李朝の虐政に対して、明治二十七(一八九四)年、全琫準を指導者として東学党の乱が起ると、李容九は幹部として参画した。この変乱に際して、玄洋社の内田良平は渡鮮して鈴木天眼、武田範之、吉倉汪聖、大崎正吉、大原義剛等と共に「天祐侠」を組織し、全 琫準と会見、東学軍に参加したともいわれる。周知の様に、東学党の乱は日清戦争の引き金となり、我が軍は東学党を鎮圧、日本の勝利によって朝鮮に於ける清国の宗主権は排除された。李容九は捕らえられたものの死刑を免れて出獄し、彼と同じく崔時亨の高弟である孫秉煕と共に日本に渡った。その後、崔時亨の後を継いだ孫秉煕が東学党を天道教に改め、反日色を強めたのに対して、李容九は親日的立場をとり、進歩会を組織した。また金玉均と共に我が国に亡命していた宋秉畯は京城に戻り、親日路線の維新会を率いていたので、かくして進歩会と維新会が合流して一進会が設立され、李容九が会長に就いた。

当時の朝鮮は、日清戦争の講和条約である下関条約によって、清国から独立国として認められ、明治三十(一八九七)年には大韓帝国と称して、表向きは清国による冊封体制から離脱したことになっていたが、今度はロシアへの事大主義に傾斜し、三国干渉以後は、閔妃一派を始め一層我が国を軽侮してロシアに従属し、かくして朝鮮問題をめぐる日露間の緊張が高まっていた。同じ頃、かつて天祐侠を率いた内田良平は、黒龍会を組織して対露開戦を主張している。こうしたなかで、李容九は、日韓の軍事同盟を以てロシアの南下を防ぎ、ひいてはアジアを復興させることが、朝鮮が生き残る道である考えており、その根底には、日韓支の三国が対等合邦し、西力東漸の勢いに対抗すべきであるとする樽井藤吉の『大東合邦論』の影響があった。

明治三十七(一九〇四)年、日露戦争が勃発すると、彼は百万人と称された一進会の会員を動員して、日本軍の作戦に協力し、我が国の勝利に貢献した。それはどういうものかというと、「開戦のはじめに、両軍とも鴨緑江(満鮮国境地帯を流れる)への迅速な集結が重要な作戦であった。その当時の朝鮮の鉄道は釜山から京城までで、一番必要とする京城から新義州までの線がなく、この間の鉄道敷設が焦眉の急であった。

韓国政府は非協力の態度であったし、多数の現地人の動員も不可能で日本軍は全く困ってしまった、このとき一進会が鉄道敷設に立ち上がったのである。また北方の輸送(武器、弾薬)も悪路と荒地のため難渋した。一進会は北進隊を組織して日本軍に協力したのである。これらのことは、なまやさしいものではなく大へんな犠牲を払った。」(大東国男『李容九の生涯』)この動員は鉄道工事で合計十四万九千人、軍需物資の運搬でも十一万四千人に及んだとする記録がある。排日気運が充満する同地での対日援助は激しい迫害を伴うものであった。

内田良平との盟約

左から内田良平、武田範之、李容九

明治三十八(一九〇五)年のポーツマス講和からまもなくして日韓保護条約が締結され、京城に統監府がおかれると、初代統監となった伊藤博文は、内田良平を嘱託に任じ、内田は伊藤に同行して渡韓した。ちなみに内田を伊藤に推薦したのは、杉山茂丸である。杉山は伊藤に、日本に無双の名馬がいるが、相当の悍馬である。この悍馬を御し得るのは伊藤公を措いて他にいないと言って内田を伊藤に勧めたといわれる。かくして渡韓した内田は、明治三十九(一九〇六)年十月、京城で李容九と初めて対面した。両者はたちまち意気投合し、『大東合邦論』に倣って日韓合邦の盟約を交わした。内田は李の動員力を高く評価し、李や宋秉畯等一進会と統監府の伊藤をつなぐパイプ役を担い、また天祐侠の同志である武田範之を招致して、李や宋との交渉に当てた。一進会は内田を顧問、武田を師賓に迎えた。この伊藤-内田—武田―李―宋のラインで日韓合邦運動が強力に推進されたのである。黒龍会編纂の『東亜先覚志士記伝』によると、日韓合邦の暁には「内田より統監に対し、一進会へ四十万円内外の授産資金を与えられるように建言し、統監も之に賛成して五十万円程の金を調達することを約束していた。この五十万円の授産金に就いては、内田及び宋秉畯、李容九の三人間に予て遠大な計画が凝らされていたのであって、彼等は日韓合邦の目的を達した暁には、一進会百万の会員を率いて満州に移住させ、何れ早晩起るであろう所の支那革命の機に乗じ、満蒙独立の旗を翻えし、日韓連邦に做って満蒙をも連邦の一つに加え、東亜連邦の実現に資そうという考えであった。その為めには既に間島に多数の一進会員を移住せしめつつあったのであるから、授産金の交付を受けたら之を以て右の計画に資すべく基礎的事業を満州に起し、満州に於ける朝鮮人移民の母体とすることに定めていたのである。」と述べている。内田は日清戦後、日本に亡命してきた黄興の「華興会」、孫文の「興中会」、章炳麟の「光復会」等滅満興漢派のメンバーと交流し、彼らの大同団結ともいうべき「中国革命同盟会」の結成にも立ち合い、シナ革命を支援しており、孫文は革命成就の暁には満蒙の我が国への割譲を約していたから、一進会員による満州移住などは決して空想的な計画ではなかった。むしろ同盟会側の章炳麟などにとっては、日露戦の結果生じた巨大な空白地満州を無為無策のままロシアの南下に任せてしまうより、そこに一進会の韓人を移住させロシアに対する一大緩衝地帯をつくったほうが有利と考えたのである。

さらにこの一進会による満州移植計画の根底には、当時黒龍会のブレーンであった権藤成卿の社稷自治思想があるとも言われている。「一進会財団は、発足当初間島を中心として満州の一部に移住し、漸次その地域を拡大して、終局的には大高麗国の版図―鳳の国―復活を目的としていた。李容九の号、鳳庵はかれの大高麗国建国の理想を表明したものである。・・・一進会財団の計画は、すくなくとも明治三十年代末期の満州問題にたいする黒竜会を中心とした大陸派のひとびとによる根本的解決策であり、当時の政治的状況のなかでは、じゅうぶんに実現可能な計画であり、権藤の社稷中心の農本国家論は、鳳の国建設にかんして、決定的な影響をあたえうる新鮮な理論であった。・・・鳳の国建設の理想は日韓合邦運動が挫折したのちも、大正、昭和と、かれらおよび、かれらの遺志をつぐ人びとのあいだに連綿と受け継がれ、昭和七年の満州国建国によって、その一部が実現する。」(滝沢誠『権藤成卿』)

日韓合邦の理想と現実

明治四十二(一九〇九)年六月、初代統監の伊藤は辞職し、曽根荒助が第二代統監に就任した。同年十月、伊藤がハルピン駅頭で遭難すると李容九は天命を悟り、同年十二月四日一進会会長李容九以下百万会員の名を以て、韓国皇帝、曽根統監、李完用総理大臣に対して日韓合邦に関する上奏文及び請願書を提出し、同時に合邦声明書を作製して国民に頒布した。これらの文章は、武田範之が起草したとも言われる。曽根統監は併合に反対だったが、内田等は、杉山茂丸や明石元二郎を通じて併合派の山縣有朋、桂太郎、寺内正毅等に働きかけ、直後に寺内が第三代統監に就任すると、併合の動きは一気に加速した。そして遂に明治四十三(一九一〇)年八月、日韓併合条約によって、朝鮮は我が国に併合された。これより先、李容九は日韓合邦の功により、特に勲一等に叙し瑞宝章を賜った。また合邦の直後受爵の御内意に接したが「今や合邦なると雖も将来における韓国皇室の安泰並に二千万同胞の幸福如何を見定めることが、後の自分に課せられたる一大責任である。新政の敷かれたる暁不幸にして自分の期待に反する場合があったら、自分は国家国民に対して全く申し訳のない地位にたたねばならぬこゝとなる。然るに今之を後にして直に栄爵を受けては栄爵を獲んが為めに其国を売ったと評せられても弁解すべき言葉がない。殊に合邦の目的を達することが出来たのは幾多の会員の惨憺たる犠牲と粉骨砕身せる苦闘の結果に由るのである。それを思へばそれらの士をさしおいて自分独り栄爵を受けるといふようなことは情宜上からも到底忍びない」とて固辞して遂に受けなかった。(『東亜先覚志士記伝』)

かくして日韓合邦は成就したかに思われたが、その現実は、内田等の構想とかけ離れたものだった。満州移植の為の授産金の約束は反故にされたばかりか、ただちに一進会は解散を命じられ、その費用として十五万円が支出されたのみであったのである。『日韓合邦秘史』は、「間島移住策の約束の如きは、全然棄てゝ顧みざるのみならず、冷酷無情なる解散により、一百万子来の会員をして其の堵に惑わしめたるが如き、或はその統治に於て全然韓人の民情風俗を無視し、圧迫睥睨唯だその主権を頑守するの外、何等の能事を示さゞりしが如き、何れも皆な将来の禍根ならざるもの是れなりとす」と記している。内田や李容九の念頭にあったのは、オーストリア・ハンガリー二重帝国のような合邦国家であり、韓国皇室を存続させ、独自の内政を維持しようという構想であった。しかし現実には、李皇帝は退位し、韓人の自治権は認められず、総督府による武断統治が敷かれたのである。

もはや、理想の頓挫したことを知った李容九は、傷心の内に結核を患い、兵庫須磨で静養をした。また日韓併合後、帰国していた武田範之も癌を発して余命宣告を受け病臥に伏していた。李は武田に、「狡兎死して走狗烹らる」(すばしっこい兎が獲られ、不用になった猟犬が煮て食われること)かと自嘲したのに対し、武田は「大象は兎径に遊ばず」(大人は小人を相手にしないの意)と言って心友を慰めたという。明治四十四(一九一一)年六月二十三日、武田範之は入寂し、その十一か月後の大正元(一九一二)年五月二十二日、李容九は数奇な生涯に幕を閉じた。李の死を知った内田良平は、直ちに須磨に駆け付け、「弔平民李容九」と大書したむしろ旗を作り、これを李の仮住居の門前に立て、盟友の死を悼んだ。六月五日に行われた葬儀は会葬者五千名以上という空前の規模だったという。

日韓合邦以後

日韓合邦の挫折と李の悲劇的な最期は、合邦を促進した日本側の志士をして良心の呵責に苛ましめた。「大正三(一九一四)年四月、内田良平は「朝鮮の統治制度に関する意見書」を大隈重信らに提出、十五年以内に朝鮮に立法議院を設立することなどの改革を唱えている」。また旧一進会側は、大正九(一九二〇)年、日韓併合の責任をとって杉山茂丸に自決を迫っている。「内田は、翌一九二一年には、日韓融和を目指した同光会を結成するなどして、合邦の理想に少しでも近づこうと努力を続けた。また、内田の同志の末永節は肇国会を結成、「大高麗国」構想を掲げて、日韓合邦の夢に再度挑戦しようとしている。

日韓合邦記念塔全景

大東神社に残る日韓合邦記念塔石柱

同時に、内田は李容九の遺児李碩奎のことを気に掛けるようになっていた。・・・やがて李碩奎は大東合邦に因んで、大東国男と名乗るようになる。樽井藤吉は、日韓合邦後の政体については、一種の連邦制を取り、日本と朝鮮との対等性が維持できるように、「大東」という新国名をつけようとしていたのである。」(坪内隆彦『アジア英雄伝』)昭和九年(一九三四年)には、内田良平は頭山満、杉山茂丸等とはかり、明治神宮表参道神宮橋畔に高さ九・七メートルの巨大な「日韓合邦記念塔」を建立した。正面の題字は頭山満が揮毫し、塔内には御神鏡、内田撰の日韓合邦記念塔記、李容九を筆頭とする合邦功労者並びに賛助者の芳名録を刻した銅板が奉納された。戦後、この記念塔は撤去されたが、頭山の題字を刻した石柱は東京都青梅の大東神社に移設され、いまもその痕跡を留めている。

本当に売国奴か

以上、李容九の生涯を見て来た。彼が目指した日韓合邦の理想は、日韓併合の現実に堕した。しかし、その日韓併合についても、我が国が朝鮮の近代化に多大の功績を残したことは、紛れもない事実である。崔基鎬氏は、その功績として

一、両班・常民・賤民などの階級制で、少数の支配者が住民の大部分を服従させる悪弊が払拭された。

二、法治制度の下に公正な裁判が行われるようになり、賄賂の慣習が一掃された。

三、私有財産制度の確立・処分・移動・職業選択と居住の自由と経済秩序の確立。

四、鉄道・道路・橋梁などの交通機関の整備により、経済が活性化し、李朝での飢餓問題も解決された。

五、教育が普及し、医療制度も近代化して予防制度が確立した。

の諸点を挙げている。(『日韓併合』)

しかしこんなことを言っても、いまの反日に凝り固まる朝鮮人が我が国に感謝することなどあり得ないだろうし、結果的に日韓併合を招いた李容九に対する「売国奴」との評価が変わることもないだろう。しかし、李容九を売国奴と断じる者は、以下の歴史的事実を直視せねばならない。第一に、李が朝鮮を日本に売る以前に、朝鮮では李王独裁、両班専制の凄まじい虐政が敷かれ、民衆は粛清と搾取、貧困飢餓によって塗炭の苦しみを舐めていたということだ。政府は腐敗堕落を極め、統治能力を喪失していた。東学党の蜂起もこの虐政ゆえに起ったのであるが、このことは本稿の冒頭で述べた通りだ。第二に、李が朝鮮を日本に売る以前に、朝鮮は清国の属国であり、既に独立国ではなかった。寛永十三(一六三七)年、清軍の朝鮮侵攻によって、李朝仁祖王は、それまで軽蔑していた胡服(北方の蛮夷の服)を着て、松坡の三田渡に設けられた「受降壇」において、屈辱的な降服を行ったが、このとき李朝が清と結んだ和約は次のようなものであた。

一、朝鮮は清に対し、臣としての礼を尽くすこと。

一、朝鮮は明の元号を廃し、明との交通を禁じ、明から送られた誥命(勅命と冊印)と、明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと。

一、王の長子と次男、及び大臣の子女を人質として送ること。

一、清が明を征伐する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。

一、内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。

一、城郭の増築や、修理については、清に事前に許諾を受けること。

一、清に対して黄金百両、白銀千両と二十余種の物品を歳幣(毎年納める金と品物)として上納すること。

一、皇帝の誕生日である聖節、正朔である正月一日、冬至と、慶弔の使臣は、明との旧例に従って送ること。

一、清が鴨緑江の河口にある椵島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。

一、清からの逃亡者をかくしてはいけない。

一、日本との交流を許すこと。

大清皇帝頌徳碑

清国皇帝に拝跪する朝鮮王

この屈辱的降服の模様は、今も三田渡に立つ「大清皇帝頌徳碑」に記され、仁祖王が受降壇に於いて清国皇帝ホンタイジに三跪九叩頭の拝礼をする姿がレリーフに描かれている。また現在のソウル西大門の近くにある「独立門」は、かつて同じ場所にあった「迎恩門」を破壊した後に建てられた。この迎恩門においては、李朝を通じて、明あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、九叩頭の拝礼をしていた。このシナに対する屈辱的な臣従から朝鮮を解放し、一個の独立国にしたのが我が国であるということを忘れてはならない。そして第三に、李容九は、あくまで朝鮮の独立を悲願し、その唯一の方策として日韓の対等合邦に活路を見出したということである。既に李朝の下で、独立の意思も能力もなくなっていたが、それでも敢て独立を得ようとすれば、日本の懐中に飛び込み、その公正と信義に自らの命運を委ねる他に方法がなかった。このシビアな現実を踏まえた上での議論でなければ、李容九の苦衷を理解することは不可能だし、彼が歴史の上で正当に評価されることは永遠にないであろう。

迎恩門

独立門

 

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第二十一回『保建大記』を読む会のお知らせ

『保建大記』は、崎門の栗山潜鋒(一六七一~一七〇六)が元禄二年(一六八九年)に著した書であり、『打聞』は、同じく崎門の谷秦山が『保建大記』を注釈した講義の筆録です。崎門学では、この『保建大記』を北畠親房の『神皇正統記』と並ぶ必読文献に位置づけております。そこでこの度弊会では本書(『保建大記』)の読書会を開催致します。詳細は次の通りです。
○日時 平成三十年十二月二日(日曜日)午後二時開始
○場所 弊会事務所(〒二七九の〇〇〇一千葉県浦安市当代島一の三の二九アイエムビル五階)
○連絡先 〇四七(三五二)一〇〇七
○使用するテキスト 『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注、平成二一年、勉誠出版)

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