浦安市民の皆さまへ

ご挨拶

はじめまして。このたび、地元浦安で政治活動を始めました、折本龍則(おりもとたつのり)と申します。以後、宜しくお願いいたします。

今年三月の浦安市長選挙において、母、折本ひとみが四度目の挑戦をいたしましたが惨敗し、政治活動の一線を退くことになりました。まず最初に、これまで折本ひとみに絶大なるご支援を賜りました皆様に、心より御礼と感謝を申し上げます。まことにありがとうございました。また、落選による傷心ゆえとは申せ、いまだ後援者の方々に十分なご挨拶も出来ていない不義非礼を母に代わってお詫び申し上げます。まことに申し訳ございません。

私、折本龍則は昭和五十九年生まれの三十三歳、堀江出身の日の出育ちであり、生まれも育ちも浦安です。現在は妻子と北栄に在住しております。小さいときから両親が地元浦安で政治活動に奔走する姿を見て育ったということもあり、早くから政治に問題意識を抱き、大学では早大雄弁会に属して議論に明け暮れました。そのせいで卒業に七年もかかり、馬鹿息子の汚名も被りましたが、笑い事ではありません。

冗談はさておき、周知の様に、これまで我がまち浦安は急速な発展を続け、全国屈指の財政力と高齢化率の低さで知られる豊かな自治体にまで成長しました。しかしその一方で、2020年頃を境に生産年齢人口は減少に転じ、人口の急速な高齢化が進むとも言われております。つまり今は良くても明日はなしというのが、今日の繁栄の実態なのです。また、先の東日本大震災では埋め立て地区が甚大な液状化被害に見舞われ、震災から六年経ついまになっても、至る所でその爪痕は深く残っております。一番大きな被害は、液状化の風評が広まり、「新浦安ブランド」に傷がついてしまった事です。かたや東京五輪を控え、豊洲や有明をはじめ、都心近郊の都市開発が急速に進み、都市間競争が熾烈さを増しております。こうした中で、我がまち浦安は、都市として独自の付加価値を打ち出し、長期的な展望を描かねばならない段階に立ち至っているのではないでしょうか。

では浦安の長期的な発展にとって、最も重要な価値とは何か。私は、それは教育にあると考えます。なぜならば街づくりとは人づくりであり、人づくりとは教育に他ならないからです。幕末の藩政改革は全て教育改革から始まりました。教育が盛んになれば、全国から若い子育て世帯が集まり、人口が増え、税収が増えます。また競争が生まれ、学力向上の好循環が生まれます。私は今後の浦安は、「教育都市日本一」を目指すべきであると考えます。ただ学力を伸ばせば良いというものでもありません。日本人であることに誇りを持ち、ご皇室を戴く我が国の歴史をしっかりと理解した上で、実学と道徳を兼ね備えた人材を育成せねばなりません。

残念ながら、戦後我が国の公教育においては、自国の正統な歴史や道徳が否定され、無国籍で価値中立的な教育がまかり通って来ました。ある調査では、国民の8割以上が建国記念日の由来を知らないという衝撃的事実が明らかになりました。こうした事実一つをとってみても、我が国における歴史教育の異常性は明らかです。また学校でのいじめや自殺の問題が後を絶ちませんが、これらも見方によっては、公教育が子供達に道徳的指針を示す責任を放棄し、その責任を罪のない子供達に押し付けたことに大きな原因があります。どういう知識を学びどういう職に就くかという以前に、まず人としてどう生きるべきか、その道を学校は教えてくれない。このことが、学級崩壊や暴力、いじめ、子供達の無気力といった諸問題の根元にあると思います。公教育を再生し、正しい歴史観、国家観、道徳観を取り戻さなければ日本に明日はありません。日本がなくなれば浦安もへったくれもないのです。

こうしたことから、私、折本龍則は地元浦安で歴史教育の適正化を図るべく、「浦安の歴史教育を考える会」を主宰して、柳毅一郎市議等と共に歴史教科書の改善などを市に働きかけて来ましたが、残念ながら前市長や市議の方々は殆どこの問題の重大性に気づかず、いまだ行政を動かすには至っておりません。

もはや今の政治家に任せておくわけにはいかない、外野から吠えるだけでは政治は変わらない、自分が一身を投げ打ってでも政治の当事者となって責任を引き受けねばならない、という想いが日増しに募っておりましたところ、母の引退が一つの契機になってこの度の決断を下すに至った次第です。私は、世間知らずの若輩者ではございますが、これから死力を尽くして故郷浦安、そして我が国日本の為に所信を貫いて参りますので、今後とも皆様におかれましては、何卒ご支援を賜りますよう謹んで宜しくお願い申し上げます。

平成二十九年十一月

折本龍則

<折本龍則プロフィール>

昭和59年(1984年)浦安市堀江出身

富岡保育園

今川学園

吹上幼稚園出身

日の出小学校・中学校卒業

早稲田大学高等学院卒業

早稲田大学政治経済学部卒業

早稲田大学雄弁会幹事長

インドで三年間、日本語教育に従事

株式会社トリプルA代表取締役社長

浦安の歴史教育を考える会代表

現在、北栄一丁目在住(妻と一女)

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第八回『保建大記』を読む会のお知らせ

『保建大記』は、崎門の栗山潜鋒(一六七一~一七〇六)が元禄二年(一六八九年)に著した書であり、『打聞』は、同じく崎門の谷秦山が『保建大記』を注釈した講義の筆録です。崎門学では、この『保建大記』を北畠親房の『神皇正統記』と並ぶ必読文献に位置づけております。そこでこの度弊会では本書(『保建大記』)の読書会を開催致します。詳細は次の通りです。

○日時 平成二十九年八月二十八日(月曜日)午後六時半開始
○場所 RAKUNA新橋Ⅱ B号室(東京都港区新橋1丁目17ー1 YUKEN新橋ビル3階B号室)

○連絡先 〇九〇(一八四七)一六二七
○使用するテキスト 『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注、平成二一年、勉誠出版)

(崎門学研究会)

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第七回『保建大記』を読む会のお知らせ

『保建大記』は、崎門の栗山潜鋒(一六七一~一七〇六)が元禄二年(一六八九年)に著した書であり、『打聞』は、同じく崎門の谷秦山が『保建大記』を注釈した講義の筆録です。崎門学では、この『保建大記』を北畠親房の『神皇正統記』と並ぶ必読文献に位置づけております。そこでこの度弊会では本書(『保建大記』)の読書会を開催致します。詳細は次の通りです。

○日時 平成二十九年八月六日(日曜日)午後二時開始
○場所 弊会事務所(〒二七九の〇〇〇一千葉県浦安市当代島一の三の二九アイエムビル五階)
○連絡先 〇九〇(一八四七)一六二七
○使用するテキスト 『保建大記打聞編注』(杉崎仁編注、平成二一年、勉誠出版)

(崎門学研究会)

 

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『崎門学報』第十号発行

崎門学報第十号『崎門学報』第十号発行致しました。どうぞご高覧下さい。

(崎門学研究会)

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【史料】有馬新七先生楠公社願文(文久元年九月)

可掛(かけま)くも綾(あや)に可畏(かこ)き楠神乃大廣前(くすのきのかみのおほひろまへ)に恐(かしこ)み恐美(かしこみ)も申須(もをす)。神(かみ)の大御稜威(おほみいづ)は天地(あめつち)に光輝(かがや)き御德者(みめぐみ)は萬世(よろづよ)に周(あまね)く充滿(たらは)し、御忠誠者宇宙に照徹坐(ましま)し、永(なが)く我(わ)が天皇命(すめらみこと)の御影(みかげ)の御守(みまもり)と成賜(なりたま)ひ、大御代(おおみよ)は朝日(あさひ)の豊栄登(とよさかのぼり)に榮坐(さかいまし)て、外國乃夷狄等(とつくにのえみしら)も畏(かしこ)み服(まつろ)ひ奉(まつ)りしを近年(このとしごろ)に至(いた)りて外國(とつくに)の夷狄等參來(えみしらまゐき)て畏(かしこ)くも大御國奉汚(おほみくにけがしまつ)らむとすらくを、征夷府(せいいふ)の執事等(しつじたち)忠勤(まめまめ)しき雄心(をこころ)を忘(わす)れ、所々(ところどころ)の海邊(うみべ)に商館を造り邪敎寺を建て、彌荒(いやあら)びに荒(あら)びなすを、今(いま)、現御神(あきつみかみ)と天下所治食(あまのしたしろしめ)す天皇命(すめらみこと)は英明(さかし)く、武(たけ)く坐(ましまし)て、彼(か)の執事等(たち)が曲事(まがごと)を深(ふか)く憂(うれ)い賜(たま)ひ、度々(たびたび)大勅命(おほみごとのり)下(くだ)し賜(たま)ひ、内地(うちつくに)を整(ととの)え夷狄(えみし)を攘除(はらいのけ)賜(たま)える雄々(おお)しき宸襟(みこころ)坐(ましま)しけれど可畏(かしこ)くも勅命(みことのり)を畏美(かしこみ)奉(まつ)らず、朝廷(みかどべ)を輕蔑(あなどり)奉(まつ)り彌(いや)に曲事(まがごと)巧(たく)み、天皇命(すめらみこと)は彌(いや)に宸襟(みこころ)惱(なやまし)賜(たま)ひき。かく宸襟(みこころ)惱(なやまし)賜(たま)えるを諸國(くにぐに)の國守城主等(くにのかみきのぬしたち)一人(ひとり)も勤王(きんわう)の兵(いくさ)を起(おこ)し大御國(おおみくに)鎮奉(しづめまつ)り淸米(きよめ)奉(まつ)れる武臣(もののふ)もなく、一日一日(ひとひひとひ)に大御國(おおみくに)は彌(いや)に疲(つか)れ、天下(あめのした)、萬姓(おほみたから)は彌(いや)に苦(くる)しみ、憤摡(うれた)く遺憾(くちお)しき形勢(ありさま)になむ。かく災難(わざわい)の形勢(ありさま)を神乃大御稜威(かみのおほみいづ)以(も)て荒(あら)ぶる醜臣等(しこおみたち)を誅(つみな)ひ、夷狄(えみし)を攘除(はらひのけ)て、大御國(おおみくに)淸米(きよめ)鎮米(しづめ)て、皇命(すめらみこと)の宸襟(みこころ)靖奉賜(やすめまつりたま)へと奉祈(いのりたてまつる)。正義(まさよし)賤(いや)しき避遠(ひな)の微臣(やつがれ)なれど、安政五年(あんせいいつとせ)、戌午(つちのえうま)の年(とし)秋長月(あきながつき)に内勅命(うちうちのみことのり)を奉護(まもりまつり)て關東(あづま)に下(くだ)り其(そ)が後(のち)にも種々(くさぐさ)謀(はか)りて醜臣等(しこおみたち)を誅(つみな)ひ、夷狄(えみし)を攘除(はらひのけ)の策(はかりごと)に心力を盡(つく)し侍(はべ)りしかど其事(そのこと)空敷(むなしく)成(な)らず如此(かく)宸襟(みこころ)苦(く)しく思食(おもをす)こと如何(いか)で何(いつ)までも望(よそに)觀奉(みまつ)るべき。速(すみやか)に京(みやこ)に參上(まゐのぼ)り荒(あら)びなす醜臣(しこおみ)を討(うち)て朝廷邊(みかどべ)に死(し)なまく欲(ほり)し侍(はべ)れど、京遠(みやことほ)き避遠(ひな)の微臣(やつがれ)の身(み)にして、然(し)かも所々(ところどころ)に關守(せきもり)も嚴重(おごそか)なれば、可爲便(せんすべ)なく今度(このたび)京(みやこ)の有志等(こころあるともがら)に謀(はか)り陽明殿より召上(めしのぼ)せ賜(たま)はむことを申奉(もうしまつ)りき。此事(このこと)成就(なら)ば諸藩有志の國々(くにぐに)を語らひ、勤王(きんわう)の兵(いくさ)を起(おこし)て、宸襟(みこころ)靖奉(やすめまつ)らむ物(もの)ぞと思起(おもひおこ)し侍(はべ)りき。朝(あさ)な夕(ゆふ)なに彌(いや)歎息(なげ)き彌(いや)憤(いきぼほ)り天地(あめつち)に充滿(たらはし)て一向(ひたぶる)に朝廷邊(みかどべ)思奉(おもひまつ)れる眞心(まごころ)を神(かみ)も阿(あ)はれと聞食(きこしめ)し、過(あやまち)けむ罪咎(つみとが)は見直(みなほ)し聞直(ききなほ)し賜(たま)ひて、武事(いくさのわざ)に功業(いさを)ありて、武士(もののふ)の本意(ほい)を遂(と)げ、朝廷邊(みかどべ)を令奉靖(やすめまつらしめ)賜(たま)へと祈禱(いのり)申須(まをす)事乃(ことの)漏落(もれおち)むを幸(さいわ)ひ賜(たま)えと恐美恐美申須(かしこみかしこみもうす)。

辭別(ことわけ)て祈申須(のみまをす)朝廷邊(みかどべ)に忠勤(いそしみ)奉(まつ)り、志(こころざし)を遂(とぐ)る幸(さち)なくば、かくて世(よ)に存命(ながらへ)て空(むな)しく月日(つきひ)を送(おく)りなむは本意(ほい)なき事(こと)にし侍(はべ)れば、速(すみやか)に身死(みまかり)なむ。阿(あ)はれ、神乃御恩賴(かみのみたまのふゆ)に依(より)て、死(みまかり)て後(のち)に荒魂(あらみたま)振起(ふりおこ)し國賊を滅(ほろぼ)しなむと恐美恐美申(かしこみかしこみまを)す。

文久元年辛酉秋九月四日 有馬新七平正義

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