「天皇陛下のおことばを拝して」(『崎門学報』第八号より転載)

君恩優渥感泣に堪えず

去る平成二十八年八月八日、天皇陛下が国民に対しておことばを発表され、御譲位の意向を示された。陛下は御自らの高齢化によって、「象徴天皇」のとしてのおつとめを、これまでのように全身全霊で果たすことが困難になりかねないことや、先帝の不例や崩御と新帝の即位を同時に行うことが、社会を停滞させ、遺された皇族に負担を強いることなどを御憂慮され、「象徴天皇」としての御立場から皇室制度への言及を避けながらも、婉曲に御譲位の意向をお示しになられたものと思われる。

まずこの陛下の御言葉を拝聴した小生は、そのお言葉の一言一言に込められた、陛下が国民を慈しみ大切に思われる大御心のかたじけなさに、一国民として涙の出る思いであった。また同時に、これまで陛下が「象徴天皇」としての御立場を自覚され、そのあるべき姿に腐心されて来られたご労苦を拝察し、粛然と頭を垂れる思いであった。

いまやご叡慮が示された以上、臣下である我々国民は、安倍首相以下、ただ承詔必謹あるのみであるが、その上で、現行の皇室典範では、御譲位に関する規定がないため、皇室典範の改正に着手する必要がある。

皇室典範は国民の容喙を許さず

しかし、ここで問題となるのは、本来「ご皇室の家法」である皇室典範を、我々国民の代表機関である国会が勝手に議論し、変えてしまっていいのかということである。

周知のように、明治二十二年に制定された旧皇室典範は、明治憲法と同格とみなされていたが、戦後、新たに制定された現行の皇室典範は、一般の法律に格下げされ、国会の議決に従うものとされたのである。これは、国民主権を謳う現行憲法のもとで「象徴天皇」の地位が「国民の総意に基づく」存在とされたことによるものと考えられる。しかし、我が国における皇位の拠り所は、主権者たる「国民の総意」にあるのではなく、本来は、天照大神が皇孫瓊瓊杵尊に授けられた「天壌無窮の神勅」、すなわち「葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。爾皇孫(いましすめみま)、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮り無けむ」とあるのに基づくのであるから、皇位継承について定めた皇室典範の改正は、国会の議決ではなく、内閣が陛下の御叡慮を拝して決すべきものと愚考する。

「象徴天皇」故のご労苦

ところで、今回陛下が御譲位を思召された背景には、多忙を極めるご公務の存在があるが、実のところ、そうした陛下のお務めは、法律の公布や国会の召集、衆議院の解散といったいわゆる「国事行為」の他は、憲法上如何なる規定もない。しかし天皇陛下にとって最も大事なお務めは「宮中祭祀」によって国家の安泰と国民の幸福を祈るということであり、それは上述した「天壌無窮の神勅」と共に、天照大神が瓊瓊杵尊に授けられた「宝鏡奉斎の神勅」、すなわち「吾が児、此の宝鏡(たからのかがみ)を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし。」にも示されている。そしてこのことは、陛下も、「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまづ国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました」と仰せになっていることからも明らかなのである。ところが、この宮中祭祀は、現行憲法における「政教分離」規定との兼ね合いから「皇室の私事」と見なされ、多くの国民がその存在を知らずにいる。

また一方で、陛下は、国事行為の他に、天皇の「象徴的行為」として津々浦々を行幸され国民と親しく接して来られたが、これについても陛下は、「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇といふ象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありやうに深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」と述べられている。つまり今上陛下がこれまで続けてこられた「象徴的行為」としての行幸は、陛下が、「象徴天皇」のありように思いを致し、国民にその立場への理解を求める必要を感じられた結果であると述べられているのである。

これは大変深刻なお言葉ではないか。というのも、現行憲法が、「象徴天皇」の存在を「国民の総意に基づく」と規定したことが、畏れ多くも今上陛下に、天皇という存在に対する国民の理解を得るための多大なご労苦を強いたとも言いうるからである。このことは、我々国民として大変畏れ多く、陛下に対し深く謝し奉らねばならないことである。

上述したように、天皇の御位は、「国民の総意に基づく」ものではなく、天照大神が天孫瓊瓊杵尊に授けられた「天壌無窮の神勅」に基づくものであり、また天皇にとって最も大事なお務めは、国家国民の安寧幸福を祈られる「宮中祭祀」である。しかるに現行憲法は、この「宮中祭祀」を「皇室の私事」とする一方、陛下に「象徴天皇」としての多大なご労苦を強いていることが、今回の重大発表の背景にある根本の問題であり、臣下である我々国民はそのことを深く反省せねばならないと愚考する次第である。

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『崎門学報』第八号発行

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崎門学研究会

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チャンドラ・ボース忌法要に参列

DSC_0008スバス・チャンドラ・ボース(1897~1945)の命日である今日八月十八日、ボースの遺骨がある杉並の蓮光寺で営まれた法要に参加してきました。総勢百人弱の参列者がおり、なかにはインド人やボースと縁のある方々の姿も見られました。

チャンドラ・ボース

チャンドラ・ボース

チャンドラ・ボースは言わずと知れたインド独立の英雄であり、若くして対英独立闘争の指導者として頭角を現すも、英国官憲の迫害を逃れて第二次大戦中のドイツに亡命しました。そして我が国が大東亜戦争の開戦後にマレー作戦を開始して以降は、ドイツのUボートを乗り継いで我が国に亡命し、シンガポールにおいてF機関の藤原岩市大佐等の助力によって創設されたインド国民軍の最高司令官に就任し、さらにはインド自由仮政府を樹立して対英米宣戦を布告しました。ボースは昭和十八年に東京で開かれた大東亜会議にもインド自由仮政府の代表として出席し、歴史的な演説を残しています。その後、インパール作戦ではインド国民軍を率いて我が軍と共に戦いましたが物量に勝る英軍に敗れました。我が国の敗戦後、ボースは対英闘争を続けるため、一か八かソ連への亡命を決意します。しかし台湾から飛び立った飛行機が墜落して非業の死を遂げました。それが終戦からわずか三日後の昭和二十年八月十八日。享年四十八歳でした。

境内に立つボースの胸像と記念碑

境内に立つボースの胸像と記念碑

ボースの死後、その遺骨は我が国に持ち帰られ、この蓮光寺で葬儀が行われたことから現在にいたるまで同寺が遺骨を管理し、毎年追善供養が行われております。今日住職の話にもありましたが、ボースの遺骨を引き受けた先代の住職も、こここまで長くお預かりするとは夢にも思っていなかったそうです。また最近ではベルリンに住むボースのご息女が、日印両政府の間に立って遺骨返還の交渉をしているとのことでした。インド国民軍と藤原岩市大佐のF機関などについては、以前小生が書いた文章(「百術は一誠に如かず-藤原岩市とF機関」平成二十五年五月)があるので是非そちらをご参照ください。

ここでは特に、ボースが大東亜会議の帰路、汪兆銘の招待で立ち寄った南京において、蒋介石率いる重慶政府に向けて日中和平を呼びかけた放送の一部を引用します。この演説は東亜の趨勢を見据え、歴史的な大局に立った日中和平の必要を説いたもので、今日の日中関係にも通用する重要な意味を持つように思われます。この一文を読むだけでもボースがいかに優れた歴史認識を抱き、的確な情勢判断を下しうる卓越した指導者あったかが判ります。

ボースいわく「重慶の諸君は、孫文を近代中国の父と仰ぐが、我々インドにとっても、孫文はそれ以上の存在である。彼がインドの友であることは、彼が終始インド独立の確固たる支持者であったこと、頑強な英帝国主義の反対者であったこと、それに加えて忠実なアジア解放者であったことを見てもわかる。―いままでアジア諸民族の解放と結集の障害になっていたのは、一つは西欧帝国主義列強の存在、その二つは、アジア弱小諸国への援助の手を差し伸べるアジアの勢力の欠如にあった。後者の役割を演ずるのは、ひとり日本のみである。ところが、日本がその役割を果たすためには、西欧帝国主義と決裂しないかぎり不可能だった。その待望の時期はついに一九四一年十二月、日本が完全に英米に対し決裂の運命的宣言をし、生か死かの闘争に突入したときに訪れたのである。わたしは過去において、中国が日本にもった不満はよく知っているし、中国が日本と戦う決意をした経路も知っている。しかし五年前の日本はもはや存在しない。西欧との決裂以来、一大変革が日本全土を風靡した。この大変化は、自身の目で直接目撃したものでなくては信じられないかもしれないが、新しい意識が日本人の魂をつかんでいる。」

祖国の独立に一命を捧げた偉大な指導者の御霊に心から哀悼の誠を捧げた次第です。

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中臣祓師説(若林強斎講義、澤田重淵筆記)7/7

畜犯罪は、けものととつぐこと。古事紀(記)に馬ととつぎ牛ととつぎ、雞ととつぎ犬ととつぐ類とある。昆蟲は、或は田穀をそこなひ人を螫す蟲。これも田穀を害ひ人を螫す蟲のつくと云、然るゆえんがある。高津神は、雷に擊るヽ、これも罪の所以があり。高津鳥は、今云天狗ぞ。さま〲あやしひわざをするもの。このわざわいをうくるは、皆所以のあること。畜仆は、けものヽたふれ死すること。これもたヾでない。にはかにたふれ死するは、飼ものヽそふある所以あるはず。又吾手にかけてゆへなくころすをも云。蟲物爲罪は、人をのろうふこと。毒舌したり、神木に釘打の、人がたをして祈る類ぞ。云に云はれぬ隱微曲折の罪どもぞ。天津罪かくのごとく、國津罪かくのごとくと、許々太久の罪をあらはし出し、毫末蔽隱すことをせず、とんとかふ顯然明白に自首して出るを、輕重によつて、天津宮事を以て、大中臣それ〲にとりおこなはせ玉ふこと也。天津宮事は、天上の故事、朝廷の法式ぞ。天津はあがまへたつとぶこと。大中臣。大は贊美の詞。中臣は道の名、後世姓となる。初は讀日本紀稱德天皇神護景雲三年六月の詔に、神語に大中臣とある故、中臣朝臣淸磨に大中臣と賜るとある。神語は此祓ぞ。こヽでは姓でない、道の名ぞ。其道にかなふたは兒屋根命・種子命の如きがそれぞ。天津金木は、卽八針にする小木のこと。今世俗の詞にも、小きたきヾを金木と云詞がのこつてある。金木と云は、金氣でなふては祓はれぬゆへぞ。八針も金氣で云。懦弱で祓はるヽものでない。本打伐末打伐は、本と末とを切てすて眞中を用る。惣じて神道は中を尊ぶぞ。神宮の心の御柱を鎭むるも、本末をきり、眞中を用るぞ。千座乃云云。罪にしたがつて讀物をおほせ出さしめて、それをおきならぶるおき處を座と云。千座は、千處にあるから、其おき處に一はいおきみちたるを置足と云。置座の制は、訓解延喜式に出たり。千座・八座・四座・罪の輕重ほどづヽにあることなり。神代卷に、諸神達罪を素尊におほせて、千座置戸を以促徴、家財のこらず出さしめ、つひに髮を祓き爪を祓き贖ふて神遂にやらはれさせられた。かうでなふては、いつまでも罪科のまぬかるヽことはない。天津菅麻を本苅斷、末苅斷て、金木でさしはさむこと。菅麻は、ねらぬあさをも云。すがは、吾心淸々のすがで、潔白淸浄を表する儀とも云、又は菅と麻と二物、ともに八針の用にするとも云。いづれでもよい。これらも中を用る。八針爾取刺弖は、八本の幣串を、八つ足の案上に八本、案下に八本たつる。上は天津社へ上る幣、下は國津社へ上つる幣。天神地祗を勸請して、天津祝詞の太諄辭を以て宣るなり。すつへりほんと身の皮剝て贖物を出し、罪をあらはし、今までの罪咎をゆるさせ玉へと、餘事餘念なふ純一无雜に天神地祗へ申上るが、天津祝詞の太諄辭ぞ。神皇一體ゆへ、皇へさへ自首すればすむでない。君へも神へも申上ること。神代卷に、兒屋根命をして太諄辭を主らしむるとあるがこのこと。廣厚稱辭所ㇾ啓矣、と云も、神祝々ㇾ之、と云も、是なり。皆、神へ申上る詞ぞ。天津祝詞のには祕訣あり。底心つくして安排布置なく、赤子の様な心になつて申さねば、御聞屆はないぞ。こヽがきわめて大事。今迄犯し過つた罪咎はせふことがない。自首して蔽隱さず、贖物を出し、つんと吾が誠の至り、底心から神皇へ御斷申上げ、御聞屆けあらふあるまいはあなた次第、そこは此方の思慮にないこと。唯一心不亂になげき切て申し上より外はないぞ。一旦祓て再犯するやうなことでは、却て神を瀆し慢ると云もの。頓と祓淸めて、各別な人間に生れかわるが祓の德ぞ。政の上でもこれなり。下面々の上でもこれぞ。如ㇾ此宣波云云。右の通、一心不亂になげき切て申上ると。天津神は天上の尊神、國津神は天下の諸神ぞ。天神地祗はらひ案に天降せらるれば。祓案は、諸神來格の場ぞ。高山云云。惣じて社は卑濕の地にはたてず、大山小山の上にすることぞ。末は山の頂なり。伊惠利はいほり、則御社ぞ。ながききつて申上る處をきこしめさるヽ、それが天津祝詞の太諄辭でなふてはきこしめさず、きこしめさるヽなり、天神地祗の御心もにこやかにならせらるヽぞ。神皇の上に照臨なさるヽも、益人を不便におぼしめし、潔き心になれかしとおぼしめさるヽより外ないからは、一心不亂に罪咎を悔み申上るをあはれませられ、御納受ましまさふことぞ。御蔭の露でたつ萬民ゆへ、罪咎を犯せば、自から悔みなげきて、自首して政法を恐れ神慮をいのれば、感應まします筈ぞ。如ㇾ此聞食弖者。拂申は風で云、淸申すは水で云。天神地祗御納受があれば罪はあらじものぞと、一點毛頭殘のない氣象模様が科戸乃風云云ぞ。科戸乃風は、神代卷に、風神を級長津と云から云ぞ。神宮で乾風云は、雨雲を吹拂ひ晴天にする功用あるゆへぞ。大津乃邊は、舩のあつまる處を大津と云。順風で大海原の原に押放つ如く。繁木加本は、しげりた草木ぞ。をちかたの野原のしげりたを。燒鎌は、やへばのするどな鎌。それを以てはらり〱と打拂如く、一點毛頭、遺乃罪者云云ぞ。まへには罪止云罪とばかり云、こヽに至り、遺乃罪云云と、まへのけぶらいはない。かふ拂はねば、祓徐でない。科戸風朝夕霧を吹拂は風で云。大津の邊は水で云。燒鎌は金氣のみぢんけぶらいなく、決然とたちきるを云。祓に金氣をたつとぶがこれぞ。佐久奈太理は、山のいたヾきから、眞一文字に白瀧の裂てなだれ落ること。佐久良谷に作るもある。所の名でない、太理・太仁、通ずるぞ。淡海栗太郡櫻谷の社、瀨織津姫をまつるゆへ、處名を櫻谷とす。櫻谷と云場が初からあるでない。所謂獅子飛と云處、湖水のおちぐち、佐久奈太理落瀧津の氣象のある處ぞ。惣じて祓徐は水邊により、面々出した讀物を、ふとのとごとをのつて水へながすこと。瀨織津姫は、速川の瀨まくら打處にまします。あと三神とこれを祓所の四神と申し奉る。祓戸に鎭座まし〱て、なげきヽつて祓徐をつとめ、太諄辭を以てのると、何とぞきたなき心を改め、いさぎよくなれとて、速川の瀨に屹度しずまらせらるヽ瀨織津姫ゆへ、あがものを川へ打込むと、大海へといれ持出し、おしながさせらるれば、あがものとともに罪咎はゆとりもなにもあることでないぞ。たヾ祓いは、佐久那太理に落瀧津速川のと云氣象でなふてはならぬ。祓ふ場所も、祓ふ氣象も、この意を得るやうにせよ。うじついたことでは拂はれぬ。急湍飛流白瀧のやうに氣象で打拂ふて、瀨織津姫ノ感應ましまして、罪咎を流して下さるヽぞ。諾尊の檍原の祓徐も、无念无想に水へ飛こませられ、堅横十文字、身心一致に祓清めさせられた處で、八十曲津日神直日大直日心化し玉ひ、天日と一致にならせられたるぞ。惣じて祓は日を目當にして、天日の如き心になるでヾなふては、祓にならぬ。それまで祓ふ。氣象がぬらりとしたことでは、祓でもなんでもないぞ。白瀧のやうな氣象で、天日と一致の心になるに至るも庶幾せられたものぞ。瀨織津姫感應あつて、海へぼしながさせらるヽと、あとは、ずう〱とこの氣象で祓ひぬかぬことはないぞ。如ㇾ此持出給天者云云。川より海ぞ。荒鹽之云云。くりかへし〱至極とほくふかいこと。これに速秋津姫のござりて、ぐつと呑でのけさせらるヽ。文義はきこへて、たヾ佐久奈太理から段々よむ語意氣象をみよ。詞をきくやいなや、身心いざぎよくなるぞ。速秋津姫は、神代卷に、水門神等號速秋津日命、とある。水門にまします神ぞ。惣じて門と云は、うしほの勢つよい處を云。鳴門・速吸名門・橘の小門、皆うしほのさしひきが、門戸を出入りする様なから、水門と云て、秋は水門の縁語なり。潮勢すみやかにはげしいから、速秋津姫と申し奉る。早秋津彦・秋津姫、海河を主らせらるヽ神ぞ。可々呑は、がじ〱とかみのんで、みぢんちりもはいものこりがない。如ㇾ此可々呑弖者云云。伊吹は、いき吹の合點。海水の氣通ずる處を云。上の荒鹽乃云云より、外海のとほいもふかいもない、至極のぎり〱の處から氣を發するぞ。それにまします神ゆへ、伊吹放給弖者云云。速佐須比咩は、さすらふは左遷のことを云。ながしものになつて、たよろふやうもなく、さすらいさまよふこと。日本紀に、流離伶俜の字を塡む。根の根、底の底にまします。御鎭坐傅記に、諾尊鼻を洗はせられて生る神、速佐須良比賣と號づく、土藏靈貴也、素尊と力を合せ在ますとあれば、素尊と一體。しかれば千座置戸の祓をなされ、神遂にやらはれさせられ、根の根、底の(底の)國へゆけとあつて、たよらせられうやうなくさまよはさせられたから、速佐須良と云て、あの荒金のあじきないしわざの、垢がくつとぬけにぬけたからでなければ、いさぎよき心身にはならせられぬぞ。天神地祓ににくまれ、上の法令にもそむくからは、身をかばわずのるかふぞる。かの祓をせねば、垢のぬけふやうがない。吾心清々しの心を得させられ、今の天下の尊神とあがまへ奉るも、根國底國にさすらはせられた艱難から、あヽみがけさせられた。これが祓の至極ぞ。それで神號をすぐにさすらひめと申し奉て、祓戸の至極に鎭坐まし〱て、天下蒼生の眞實に非を悔み過を改めて、祓を修めなげくものをあはれみ玉ふ守り神と立せられて、もちさすらひ失給ぞ。失は、根からなにもないこと。初に大海原に持出し、次に可々呑、次に伊吹放とあつて、こヽで失とあれば、まへの氣はない。こヽで格別の心身になるぞ。素尊の別號に比咩とあるは、祓戸の四神の傳をきかねばすまぬこと。瀨織津姫・速秋津姫は水、伊吹戸主は風、速佐須良比咩は金。風水金で始終貫くことぞ。如ㇾ此佐須良比云云。拂申、清申とくりかへし〱祓ひ清るが、もうよいと云はぬ合點。かう拂ふたからは、もふ罪咎はないと安んじては再犯になる。不有者曾止。いよ〱其上、祓申、清申に間斷はない。祓所乃八百萬乃神。天津神・國津神ぞ。八百萬乃神等諸共仁云云は、卜部家の本。高天乃原仁云云は、延喜式の祝詞にある。二つながら傳ゆへ附しておかれたぞ。まづ一通り文義如ㇾ此。神代卷と共、反復熟玩して、正旨を得るやうにすべし。面々御蔭の露にうるほふて、日月を戴き五穀を食て居るからは、心に覺へあるきたない處をさしをいては、須臾も身のおき處はない。身心潔白清淨に祓ひ清め、四神感應まします様にあれば、各別此身を生み直したやうなもの。これでこそ本法の吾國の人間で、かうなれとの冥慮なり、御しおきなりゆへ、めん〱かへりみるべき處、力を用べき處ぞ。いつまで学んでも此合點ないは、却て神明を瀆慢と云もの。冥罰可ㇾ恐こと也。

崎門学研究会

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大アジア研究会発行『大亜細亜』創刊

『大亜細亜』創刊号表紙この度、小生等が主宰する大アジア研究会の機関紙として『大亜細亜』を創刊する運びとなった。大アジア研究会は、戦前における大アジア主義の思想と運動の研究とその現代における実践を目的とした有志の勉強会である。本紙『大亜細亜』は、季刊での発行を目指し、日ごろの研究と実践の成果、今後の方針などを発表して参りたい。(←ダウンロードは画像をクリック)

以下に、『大亜細亜』冒頭に掲げた「創刊の辞」を転載するので読者のご高覧を乞う。

『大亜細亜』創刊の辞

欧米型の政治経済システムの弊害が世界を覆うようになって久しい。それはデモクラシーとキャピタリズムの限界として露呈してきた。しかも、問題は政治経済に止まらず、人類の生命・生態系を脅かす様々な領域にまで及んでいる。

人間生活を支える相互扶助・共同体機能の喪失、精神疾患の拡大に象徴される精神的充足の疎外、地球環境問題の深刻化などは、そのほんの一例に過ぎない。これらの問題の背景にある根源的問題を我らは問う。それは、行き過ぎた個人主義、物質至上主義、金銭至上主義、効率万能主義、人間中心主義といった西洋近代の価値観ではなかろうか。

これらの価値観は限界に達しつつあるにもかかわらず、今なお、大亜細亜へ浸透しようとしている。新自由主義の大亜細亜への侵食こそ、その具体的表れである。亜細亜人が、時代を超えて普遍性を持ちうる、伝統文化・思想の粋を自ら取り戻し、反転攻勢に出る秋である。今こそ我らの生命と生態系を守るとともに、文明の流れ自体を変えなければならない。

かつて大亜細亜の英雄たちは、列強による邪悪な植民地主義に立ち向かい、西洋近代文明と正面から対峙した。頭山満を中心とする玄洋社が亡命亜細亜人に協力したことに示される通り、境遇と志を共にする亜細亜人が民族を超えて連帯した。それは大亜細亜主義、興亜論として大きな思想潮流をなしていた。しかも、皇道政治、皇道経済の提唱に見られるように、先覚者たちは國體に則った政治経済の在り方を模索し、欧米型政治経済システムの超克を目指した。

メッカ巡礼を二度敢行した興亜論者田中逸平は、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道(伝統的思想)の覚醒にあると喝破した。大道への自覚と研鑽、伝統の回復こそが大亜細亜の志なのである。

國體の理想に基づき国内維新を達成し、亜細亜と道義を共有していくことが、我らが目指す道なのではなかろうか。それが「八紘為宇の使命」にほかならない。

興亜の先覚荒尾精は「天成自然の皇道を以て虎呑狼食の蛮風を攘ひ、仁義忠孝の倫理を以て射利貪欲の邪念を正し、苟くも天日の照らす所、復た寸土一民の 皇沢に浴せざる者なきに至らしむるは、豈に我皇国の天職に非ずや。豈に我君我民の 祖宗列聖に対する本務に非ずや」(『対清弁妄』と説いた。

残念ながら、わが国は大東亜戦争に敗れ、占領期の言論統制を経て、大亜細亜の理想は封印された。崇高なる民族的使命を忘却し、政治家たちは目先の政局の動向や経済成長率、株価の動向に一喜一憂し、真摯に向き合うべき理想を忘れている。

今こそ日本人は、「天孫降臨以来の我が国の天職」たる大亜細亜の理想を回復し、文明転換の流れを率先して牽引すべきである。大亜細亜の理想の封印を解くため、今本紙を創刊する。

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