大アジア主義とは何か

以下に『大亜細亜』創刊号における拙稿の一部を再掲する。

大アジア主義とは何か。

大アジア主義とは何か。この問いに答えるのはそう簡単ではない。おおよそで云えば、それは西欧列強によるアジア侵略の脅威に対抗するために、我が国を中心としたアジア諸国の連帯を説く思想と運動のことである。周知のように、明治以降の我が国は、富国強兵や殖産興業のスローガンを掲げて国家の近代化路線を邁進し、そのために西欧列強から先進的な技術や制度を輸入した。それは、明治草創期の我が国政府が、西欧列強から不平等条約を課された半独立の国家であり、いちはやく国家の近代化を成し遂げることによって、真に独立した国家としての地位を獲得する必要に迫られていたからに他ならないが、急速な国家の近代化は、一方では近代化の名を借りた西欧化への偏重をきたし、それはなかんずく井上馨外務卿による鹿鳴館外交のように、列強への露骨なすり寄りと追従政策になって表れたのである。こうしたなかで、旧士族を中心とする国民の一部は政府への不満を募らせたが、征韓論争を発端とする明治六年の政変で西郷等が下野すると、反政府運動は燎原の火の如く在野に燃え広がった。これに対して政府は新聞紙条例や讒謗律などを公布して反対党を厳しく弾圧したが、ついに明治十年西南戦争の勃発をもって不平士族による反政府運動は極点に達したのである。

大アジア主義の淵源

西郷は政府の欧化政策に対して、ご皇室を戴く我が国の国粋護持を以ってし、また西欧列強の覇道を戒めてアジアの道義を唱導した。それは『西郷南洲翁遺訓』に「廣く各國の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我國の本體を居ゑ風教を張り、然して後徐かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、國體は衰頽し、風教は萎靡して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。」とあり、また「文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟めて言無かりきとて笑はれける。」あるのでも明らかである。

このように西郷は、欧化に対する国粋、覇道に対する王道の精神を体現する存在であったのである。城山の自決で彼の肉体は滅んだが、その高貴な道義精神は、西郷の精神的子孫によって継承された。その一人である頭山満は、大アジア主義の巨頭として知られるが、彼が率いた福岡の玄洋社は興亜の志望に燃えた多くの人士を朝野に輩出し、なかでも頭山と同志の来島恒喜は、外国人の内地雑居や外国人判事の登用といった屈辱的な条約改正案を進めていた外務卿の大隈重信に爆裂弾を投擲し、文字通り大隈を「失脚」に追いやった。頭山は来島の葬儀で「天下の諤々は君が一撃に如かず」と弔辞を述べ、この事件によって玄洋社の名は天下に轟渡ったのである。また玄洋社における少壮有為の若者たちは、アジア復興を夢見て大陸に雄飛し、ときには乞食同然の姿でつぶさに辛酸を舐めながらも、アジアの各地を踏査して風俗や人情などの情報収集に努めた。こうした大陸浪人と呼ばれる志士たちの領袖となったのが頭山であり、彼は、明治政府による欧化偏重を排して国体の守護者を任じすると共に、金玉均やアギナルド、孫文といったアジア独立の志士たちを献身的に支援することによって、アジアに王道を敷くべしとする南洲翁の精神を継承しようとしたのである。

玄洋社は国権団体か?

戦後、玄洋社は、我が国によるアジア侵略のお先棒を担いだ国権団体の権化とされ、頭山も、大アジア主義者というよりは、「右翼の親玉」や、「政界の黒幕」と云ったダークなイメージが植え付けられたが、明治14年に創立された玄洋社は、そもそも自由民権団体として出発したことが重要である。それが後年、国権団体としてイメージされるまでにはどのような変転があったのだろうか。たしかに、『玄洋社社史』には、日清戦争前夜の明治19年に、丁徐昌提督率いる清国北洋艦隊の水兵が、寄港した長崎で乱暴狼藉を働いたにもかかわらず悠々錨を抜いて立ち去った国辱事件を契機として、玄洋社がそれまでの民権主義を捨てて、国権主義に転向したことが記されている。しかし、玄洋社はそれより以前の明治15年に創立された当初から、憲則の第一条に「皇室を敬戴すべし」、第二条に「本国を愛重すべし」第三条に「人民の権利を固守すべし」とする三則を掲げており、第二条の「本国を愛重すべし」の「本国」はとりもなおさず、我が国の領土や人民、政府からなる主権、つまり国権を意味しているのであるから、国権主義は明治14年に突然出て来た訳ではなく、第三条にある「人民の権利」としての民権と矛盾なく両立並存する主張であった。

もっとも、民権と国権という一見矛盾する概念を併せ持つ彼らの主張は、明治初期の我が国にある程度共通した見方であったようだ。頭山統一氏(頭山満の孫)は、『筑前玄洋社』のなかで、幕末・明治を通じて我が国民の共通意識であったのは、「尊王・攘夷・公議公論の三位一体をなす論理であった」と述べている。まず「尊王」については、幕末に佐幕か討幕かの争いがあり、明治になっても政府・吏党と在野・民党の争いがあったが、両者を通じて尊皇という一点にはいささかの相違もなかった。そして「攘夷」は、明治国家における国権の主張となり、「公議公論」は民権の主張を意味する。その上で、この「公議公論」は、君民一体の我が国において、「尊皇」の必然的帰結であり、それは徳川と列強という内外の「夷狄を攘う」、すなわち「攘夷」を断行することによって成し遂げられた。これが維新大業の本質である。『自由党史』にいわく、「維新の改革は実に公義輿論の力を以て皇室の大権を克復し、国民の自由を挽回し、内に在ては以て一君の下、四民平等の義を明らかにし、挙国統一の基礎を定むると倶に、外に向っては波濤開拓の策を決し、万邦対峙の規模を確立したることを。誠に是れ中興国是の帰着する所にして、是に於てか武門特権の階級的天地を破壊せる後ち、直ちに建設の方向に全力を投ずべき時機に達せり。」と。このように、当時の国民精神において、皇権の恢復は民権の伸長と同義であり、国権は、こうした君民の和協を妨げを払い除けるための権力として認識されていた。

玄洋社の民権論もまた、あくまで尊皇を基軸に据えたものであり、現行憲法が依拠する西欧起源のデモクラシーの思想とは全く似て非なるものである。それは玄洋社の前身で、箱田六輔を社長、頭山満を監事に配した向陽社の民権思想に関する以下の記述(上掲した頭山氏の著作)からも明らかである。いわく「向陽社の普選思想は、まったく日本的な君民一体の国体観の常識から出たものだった。無私にして、民の幸福を皇祖に祈られることをみずからの務めと信じられる祭祀権者天皇は、人民を「おおみたから(公民)」として、その権利を保証して、慈しまれる。権利を保証せられた人民(臣民)は、天皇に捧げる忠誠心において万民貴賎のへだてなく平等である。大臣も乞食も、天皇に対して完全に平等に忠誠を尽くそうとする、誇らしき義務意識を有する。この日本的「臣民の権利義務」は、西欧における君主あるいは国家が、人民に対し、その安全を保証するサーヴィスを提供し、人民はそのサーヴィスに相応する代価を、君主、国家に支払うという対立的契約観念が源流となる「権利・義務」概念とまったく異なるものであることは明瞭である」。さらに、こうした彼らの民権思想は、上述した向陽社の主導で設立された福岡全県の民権組織である筑前共愛会が明治13年、元老院に提出した「筑前共愛会憲法私案」において、参政権の資格として「土地保有・財産・納税額による制限を一切うたわず、ただ一家の戸主たることのみを条件としている」ことにも顕著に現れている。

玄洋社が民権団体の看板を捨てて国権主義に転向した契機としてよく指摘されるのが、明治24年の第二回総選挙に際して、頭山がときの松方正義内閣、なかでも内相の品川弥二郎と結託し、政府による選挙干渉、民権派の弾圧に加担した一件である。この一件を以って民権派たる頭山の変節と見なす意見もあるが、事の事情をよくよく調べてみると、主義を転向し節を変じたのは玄洋社や頭山ではなく、むしろ彼や彼らを取り巻く、政府であり民党の方であることが判る。というのも、政府の方では、「万機公論に決すべし」とする五箇条誓文を奉じながら、もっぱらの現実は薩長藩閥が大政を壟断し、明治15年の集会条例改正、明治16年の新聞紙条例改正、出版条例改正と続く一連の言論弾圧政策によって民党を圧迫する一方で、不平等条約の改正交渉に於いては西欧列強に対して屈辱的な譲歩を繰り返し、国民の怒りを買っていた。しかし一方の民党の方はどうかというと、それまで条約改正(国権)と国会開設(民権)を不可分のテーマとしてきた板垣退助率いる愛国社の運動が、政府の懐柔によって条約改正の要求を引っ込め、国会開設期成同盟への改組の後は、その運動目標を国会開設に限定したように、国権の主張を放棄して民権の主張に偏向し出したのである。愛国社は板垣退助率いる土佐の立志社が中心になって結成された民権派の全国組織であり、大久保暗殺後の明治11年に開かれた愛国者再興集会には、福岡を代表して後に玄洋社社長を務める進藤喜平太と頭山満が参加している。その後、福岡と愛国社の繋ぎ役は、共愛会を代表して箱田六輔が担い、彼は板垣をして「箱田あれば西南方面は安心なり」とまで評さしめたが、頭山は、次第に上述した民党の変節と堕落に幻滅し、むしろ一部では「国権党」と揶揄されていた熊本紫溟会の佐々友房等に接近した。この結果、頭山は箱田一派と疎隔を来たし、玄洋社内での孤立を深めていった。「一人でいても寂しくない男になれ」とは、そのときの彼が発した言葉とされている。このように、民権と国権を国家の発展にとって不即不離のものと考えていた頭山にとって、政府の国権に揺れ動き、また民党が民権に揺れ動きするのは、ともに容認しがたい変節であり、だからこそ頭山は「舟が右に傾けば自分は左に寄り、左に傾けば、自分は右による」というのを生涯のスタンスとし、ときには孤立をも顧みず、日本という船が覆らぬようにバランスを取るのを自己の使命と任じていた。このバランス感覚が判らなければ、晩年の頭山が大東亜戦争には諸手を挙げて賛成しつつも、東條の翼賛体制には反対し、中野正剛をして『戦時宰相論』を書かしめた所以も判らない。

しかし頭山の乗る舟の船首は常に「尊皇」という不動の方向を向いていたのであり、それだけは絶対の信念として生涯微動だにしなかった。頭山は、高場乱の下で浅見絅齋(山崎闇齋の高弟)の『靖献遺言』を愛読して忠勇義胆を錬り、また同郷の平野國臣に洗礼を受けた筋金入りの尊皇家だ。それは次のような頭山の発言からも覗える。「我が日本の天子様は宇宙第一の尊い生神であらせられる。そして一切の万物悉く天子様の御物でないものはない。わけても、その最も大切な御宝は、吾々一億の日本臣民である。この天子様の大みたからである吾々臣民の生命は、自分の生命であって而も自分のものではない。天子様の御為に死すること、それは臣民として大慶此上もないことである。」(藤本尚則編『頭山精神』)

皇道の恢弘

かように尊皇絶対の頭山にとって、彼の抱いた興亜思想は、内に対する民権の伸長の時と同じく、アジアに対する皇道の恢弘に他ならなかった。それは、同じアジア主義者で頭山と交流のあった宮崎滔天が夢想した天賦人権のユートピアとは明瞭に一線を画する理想であった。民権一家の宮崎家のなかで、滔天が最も感化を受けた六男の弥蔵は、『三十三年の夢』のなかで次のように、アジア復興の志望を述べている。

「おもえらく、世界の現状は弱肉強食の一修羅場、強者暴威を逞しゅうすることいよいよ甚だしくして、弱者の権利自由、日に月に蹂躙窘蹙せらる。これ豈軽々看過すべきの現象ならんや。いやしくも人権を重んじ自由を尊ぶものは、すべからくこれが回復の策なかるべからず。今にして防拒するところなくんば、恐らくは黄人まさに長く白人の圧抑するところとならんとす。しかしてこれが運命の岐路は、かかって支那の興亡盛衰いかんにあり。支那や衰えたりといえども、地広く人多し。能く弊政を一掃し統一駕御してこれを善用すれば、以って黄人の権利を回復するを得るのみならず、また以って宇内に号令して道を万邦に布くに足る。要は、この大任に堪ゆる英雄の士の蹶起して立つ有るに在るのみ。われ是を以ってみずから支那に入るの意を決し、あまねく英雄を物色してこれを説き、もしその人を得ば犬馬の労を執ってこれを助け、得ざればみずから立ってこれに任ぜんと欲す。」ここにあるのは、いかにも純朴で牧歌的な人種的勧善懲悪のロマンチシズムであって、それ以上の思想的根底はない。

これに対して、頭山が「大西郷以後の人傑」、「五百年に一度の英雄」と讃えた大アジア主義者の荒尾精は、『宇内統一論』のなかで、アジアに対する我が国の天命が「六合四海を一統して、普天率土の生民をして、洽く我皇の仁風を仰がしむること」、つまりはアジアに皇道を恢弘することであると説いた上で、「苟も我が国をして綱紀内に張り威信外に加わり、宇内万邦をして永く皇祖皇宗の愨徳を瞻仰せしめんと欲せば、まずこの貧弱なるものを救い、この老朽なるものを扶け、三国鼎峙し、輔車相倚り、進んで東亜の衰運を挽回して、その声勢を恢弘し、西欧の虎狼を膺懲して、その覬覦を杜絶するより急なるはなし」と述べ、日清韓三国の提携を説いている。荒尾は明治18年、陸軍参謀本部付の将校としてシナに渡り、その後、岸田吟香が上海で売薬業を営んでいた楽善堂の支店を漢口に開くことで、商家に扮して諜報活動に従事した。この漢口樂善堂は、玄洋社員を始めとする興亜志士たちの梁山泊となり、シナ浪人の宗方小太郎や石川伍一など多くの人士が出入りした。また荒尾はシナ各地の実情を調査した結果、日支提携の必要性を痛感し、両国の貿易振興を目的とした日清貿易研究所、後の東亜同文書院を創立した。この研究所からは、清国改造を志し、明治初期の我が国民としていち早く新疆の偵察に赴いた浦敬一(詳細は拙稿、「清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一」参照)や、日清開戦に際し軍命を帯び遼東半島の敵情視察に赴いた結果、刑場の露と消えた「三崎」こと殉節三烈士(詳細は拙稿、「生を捨てて義を取る―「三崎」こと「殉節三烈士のこと」参照)など、シナ大陸の言語や情勢に精通し戦時は通訳官や情報将校として活躍した多くの志士たちを輩出している。荒尾は早くも陸軍士官学校の時代から、頭山と同じく『靖献遺言』を愛読して忠義を養い、学内では「靖献派」の領袖として畏敬されていた。しかも彼は上述したように、皇道恢弘としての大アジア主義を抱きながら、同時にその理想を具体化する事業家としての経綸も兼ね備えていたのであり、彼が説いた日清韓三国の提携は、「祖国を熱愛するが故に支那朝鮮を誘導扶助して、東洋を護る障壁たらしめんと」(『東亜先覚志士記伝』)する冷徹な戦略に裏付けられていた。このように、大アジア主義の戦略的な実践家である荒尾と、アジア復興のロマンチシズムに耽る滔天には同じアジア主義者でも聊かの懸隔があるのであって、それは滔天が前出した『三十三年の夢』のなかで、荒尾一派を目して「支那占領主義者の一団なりとなし、異主義の集団なり」として毛嫌いしていた事実とも無縁ではない。

怜悧な情勢認識

こうした荒尾と滔天の懸隔は、後に犬養毅や頭山等の民間志士が、アギナルド率いるフィリピンの独立党に武器を援助しようとして失敗した、いわゆる「布引丸事件」の際にも現れた。当初、滔天が香港で出会ったアギナルド側近のポンセを犬養に紹介したのは、フィリピン独立を想う一片の義侠心によるものであったが、かたや犬養の依頼を受けた玄洋社の頭山満や平岡浩太郎、その甥の内田良平などが、この独立運動を援助した背景には「それより前に内田良平氏がシベリア鉄道のエキの状況を視察かたがたシベリアの冒険旅行を企て、遂に露都に入った際、セントペテロブルクの日本公使館には八代六郎、廣瀨武夫などという海軍将校中の錚々たる逸材が駐在武官として滞在していて、共に国事を談じ合った末、日本は一面に露国の東方経略の鋭鋒を挫き、朝鮮、満州、蒙古、東部シベリアに強固なる地歩を占めると共に、一面にはマレー半島からフィリピン群島に我が海軍根拠地を得、これを国防の第一線としなければ、太平洋の制海権を握り、帝国永久の安危は期せられぬというに一致し、内田氏の帰朝後、福岡玄洋社の頭山、平岡等も此の説には非常に共鳴していた」(『犬養木堂伝』、原書房)というような深謀遠慮があったという。また他にも、尊皇家の頭山が、同じ日本への亡命客でも、保皇派の康有為ではなくて共和派の孫文を支援した背景には、孫文が満州の我が国への割譲を頭山に約したことが一因を成したともいわれている。このように、大アジア主義の思想と運動は、単にアジアの独立を夢見る豪傑たちの武勇伝に止まるものではなく、冷厳な国際情勢の認識に裏付けられた経略の実践であった点が重要である。

以上、大アジア主義の概要について述べてきたが、その要点を摘出すること以下の通りである。

第一に、大アジア主義は明治政府の欧化路線ないしは西欧列強に追従したアジアへの覇道外交に対抗し、西郷南洲を精神的淵源として、天皇を戴く国体の護持、王道外交を唱導するものである。

第二に、西郷精神の継承者である頭山満や彼が率いた玄洋社にとって、尊皇、民権と国権は、三位一体の概念である。しかるに政府は国権に偏して恩賜の民権を弾圧し、一方の民党は浮薄な民権論に堕して国家の根基を危うからしめた。そこで頭山は、舟のたとえにあるごとく、時に応じて立ち位置を右に変え左に変えしたが、尊皇という一点に於いて不変であった。

第三に、我が国の対アジア王道外交は、皇道の恢弘に他ならならず、普遍的な人権や万国平等の原則に立つものではない。しかし、荒尾精や頭山、平岡、内田といった玄洋社の抱いた興亜思想は、ただ皇道の恢弘を鼓吹するだけではなく、我が国に関する冷厳な情勢認識に基づいた現実的利害とも合致していた。

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奉納詩吟、梅田雲浜作『訣別』

墓前奉納詩吟

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『訣別』

妻は病床に臥し子は飢えに泣く

身を挺して直ちに戎夷に当たらんと欲す

今朝死別と生別と

唯皇天后土の知る有り

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第七回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」のお知らせ

尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会

靖献遺言講義表紙『靖献遺言』は、山崎闇斎先生の高弟である浅見絅斎先生(一六五二年~一七一二年)の主著ともいうべき作品であり、崎門学の必読書です。本書は、貞享四(一六八七)年、絅斎先生が三十五歳の時に上梓し、君臣の大義を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の略伝と遺言を編纂しております。絅斎先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣内外の名分を正し、尊皇の大義を説きましたが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われ、尊攘派志士の領袖として討幕の端を開いた梅田雲浜は、交際のあった吉田松陰から「『靖献遺言』で固めた男」とも評されました。かく評した松陰自身も野山獄でこの書を読み感銘を受けています。

これまで『靖献遺言』を読む上で最良のテキストは、近藤啓吾先生の『靖献遺言講義』(国書刊行会)を措いて他にありませんでしたが、同書は絶版の上に高価であり入手が困難でした。しかし、このたび皇學館大学の松本丘先生の再編集によって講談社学術文庫から同書が再刊されたことで、読者の広汎な拡大が期待されます。特に今年は崎門学の学祖、山崎闇斎先生の生誕四百年でもあり、崎門学の必読文献である『靖献遺言』への注目もまた一層高まることでしょう。

そこで弊会では、月例の勉強会として、以下の要領で『靖献遺言』を読む会を開催し、崎門学への理解を深めると共に、絅斎先生が本書に仮託した尊皇斥覇の現代的意味について考えたいと思います。つきましては、多くのご参加をお待ち申し上げております。

なお、今回は通常と異なり平日開催ですのでご注意ください。

日時 令和元年十月十五日(火曜日)午後六時四十分開始、八時半終了

会場 コモンズ飯田橋神楽坂会議室2

https://www.spacee.jp/pre_bookings/share/a0e07a0a4be14ed79031ee0b39dda091

テキスト 『靖献遺言』(講談社学術文庫)。各自ご持参下さい。

連絡先 折本龍則(orimoto1@gmail.com、09018471627)

各位

崎門学研究会

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韓国訪問記(平成二十三年、呉竹会『青年運動』)

去る5月7日~10日の日程で、韓国を訪問して参りました。このたびの訪問の主たる目的は、今年で19回を数える故李方子妃殿下の慰霊祭に参列することにありましたが、これは長年教育界を通じた日韓交流に尽力されてこられた草開省三先生(現・東方国際学院学院長)が主宰する「日韓相互理解教育セミナー」に、日本側代表団の一員として参加することによって実現致したものです。呉竹会青年部からは、私のほかに、元海自三佐で朝鮮語に堪能な高城通教氏が参加致しました。以下にそのご報告を申し上げます。

5月7日早朝、我々代表団一行は、空路羽田を発ってソウル金浦空港に到着すると、以後全ての日程で韓国側のホスト役を務めてくださいました安長江先生(元大韓教育連合会副会長)の出迎えを受け、用意されたマイクロバスに乗り換えて一路ソウル郊外にある国立墓地(顕忠苑)に直行致しました。この顕忠苑は、いわば韓国の靖国神社ともいうべき韓国国民の聖地であり、旧李朝末期の義兵をはじめ、祖国独立の闘争で殉難した愛国志士の英霊が祀られています。なかには、昨年の北朝鮮による魚雷攻撃で沈没した韓国哨戒艦「天安」の乗組員の御霊も祀られてあるそうで、その方々のものかはわかりませんが、最近撮られたと思しき将校の遺影が散見されました。我々一行は到着して、顕忠搭に献花を捧げた後、故朴正熙大統領夫妻の墓所を参拝して御苑を後に致しました。

午後にソウル市内で開催された日韓教育セミナーでは、日韓双方の学者・教育者が、それぞれ「古代における日韓交流」と「児童の躾教育」をテーマに研究成果を発表し、活発な意見交換が行われました。なかでもとりわけ興味深かった「古代における日韓交流」のセクションでは、我々の側から、東京教師会会長の佐藤健二先生が発表を行い、まず「日本書紀」には、素戔男尊(スサノオノミコト)が出雲に向かう前に新羅に降臨したと記されていること、また天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降臨した筑紫の日向の高千穂の「槵触之峯(クシフルノミネ)」が、伽耶国の初代金首露王が降臨した「亀旨峰」と同義であるとされていることなど、神代に遡る両国の深遠な縁故に触れられました。

歴史時代では、神功皇后の三韓征伐を皮切りに、我が国が百済を助けて新羅を下し、さらには有名な「広開土王(好太王)碑」にも明らかなように、現在の中国東北部に及ぶ高句麗の版図にまで歩武を進め、ついには天智天皇の御代に、「白村江の戦い」で百済の再興を支援して唐と新羅の連合軍に敗れるまでの間、我が国が朝鮮に広汎な勢力を扶植していた事実を指摘されました。これに対して、韓国側の柳栽澤先生は、古代における地名の言語学的類似性を根拠に、高句麗と同じ扶余族の国家で、いわゆる百済の兄弟国である「沸流百済」が、日本建国に何らかの形で関与していたという趣旨の発表をされました。こうして両者の発表は、異なる視点によりながら、日韓の同祖同根を示唆する結論で概ね一致したのでした。

なお、今回の教育セミナーには、韓国側の一員として、故朴正熙(パク・チョンヒ)大統領のご息女であられる朴槿姈(クンニョン)女史も出席され、大会の趣旨をより一層有意義たらしめました。ちなみに朴女史の姉君は、元ハンナラ党首で、現在も次期大統領の有力候補と目される朴槿惠(クネ)氏に他なりません。やはり韓国にとって、朴正熙という人間は特別な存在なようです。セミナーが成功裡に閉幕した後、近くの料理屋で懇親会が開かれました。そこでは一同、鶏肉を使った韓国の代表的なスープ料理である蔘鷄湯(サムゲタン)を振る舞われ、マッコリに酔いながら尽きぬ議論に花を咲かせたのでありましたが、なかでも私の隣にいた、日本統治時代に幼小期を過ごしたという韓国人の老紳士が目を細め、参席された朴女史の方を感慨深そうに見つめながら「朴大統領は、韓国にとっては日本の明治天皇のような存在だ」と仰った言葉が耳朶に響きました。

翌二日目、我々一行は、朝一番にバスでソウルを発ち、百済の古都が置かれた公州(熊津)を訪れました。公州では、百済中興の祖とされ、我が国でも今上陛下の「おことば」(平成13年)で有名になった武寧王(461~523)の陵墓古墳を観光し、続いてそこからバスで30キロ程離れた扶余に移動しました。ここ扶余は百済王朝終焉の地として知られ、王宮があったとされる扶蘇山城の楼閣からは、白村江の古戦場である現在の白馬江が一望できます。江沿いに切り立った断崖絶壁は「落花岩」と呼ばれ、百済滅亡に際して三千人の宮女がそこから身投げした姿が舞い落ちる花に似ていたことからその名がつきました。

教育セミナーの条でも触れました通り、この白村江の戦いは我が国にとっていわば国運を賭けた戦いであり、当時国家体制も未発達であった我が国が、百済救援のために総勢四万もの軍勢を差し向けたにもかかわらず、唐・新羅連合軍の前に大敗を喫しました。その後新羅は高句麗をも攻め滅ぼし、朝鮮統一を成し遂げましたが、皮肉なことに、この統一が外勢である唐と結託し、血を分けた同胞国を不意打ちする形で実現したために、却って中国への「慕華思想」や「事大主義」、「宗族利己主義」の原型を作り、例えば唐の元号を採用するかたわら、それまで二字姓だった名前を中国式に一字姓に「創氏改名」し(ただしここでの氏とは本貫の意味)、高句麗の領土であった満州を放棄するなど、中国への属国化を強める結果に陥りました。それと比べると、高句麗やその流れを汲む高麗国は立派な独立国です。高句麗はかなりの強国で、仁徳天皇の御代、我が国に鉄製の武器をもたらし、隋帝国とは大小33回も干戈を交えました。また高麗も、蒙古来寇に対し、江華島に遷都して徹底抗戦で応じました。遊覧船で白馬江を下りながら、そんな韓民族の治乱興亡に想いを馳せるうち、骨肉の内紛で身を滅ぼした朝鮮民族の悲哀に同情する気持ちと、一方で我が民族は、万世一系のご皇室のおかげで、今日にいたるまで同様の悲劇を免れたのだということに対する驚嘆と感謝の念が同時に沸き起こりました。

翌日、すなわち韓国滞在三日目の我々の予定は、李王朝の故宮である景福宮参観から始まりました。この景福宮は、李朝の歴史に暗い影を落とす沢山の陰謀策略の舞台であり、日本統治時代は朝鮮総督府の庁舎があった場所でもあります。まず、南門の光化門をくぐると、突き当り正面に巨大な勤政殿(正殿)が現れます。この建物を中心に、国王が外国の使臣を饗応したという慶会樓や美しい庭園が広がる香遠亭などを見て回りましたが、なかでも閔妃(明成皇后)が暗殺された乾清宮を見学したときは、当時の生々しい光景を想像して身震いがしました。

景福宮の広大な敷地を練り歩くうちに、あっという間に時間は過ぎ、我々一行は訪問初日の教育セミナーでお目にかかった朴槿姈女史のお招きを受けて、懇親会が催される会場に向かったのですが、奇しくもそこは朝鮮総督府の官舎の跡地に建てられたオフィスビルの一室であり、何か不思議な因縁のようなものを感じました。オフィスにつながるオープンテラスから見渡せる巍然たる南山は霊験あらたかな場所だそうで、かつては檀君を本尊とする国師堂がありましたが、朝鮮総督府はこれを破壊し、あろうことかその跡地に天照大神と明治大帝を御祭神とする朝鮮神宮を建立しました。このことについて、草開先生は「朝鮮への配慮を欠く、大変遺憾なことであった」と、痛嘆しておられました。

南山を背にして

ところで今回親しく我々に接してくださいました朴女史は、お世辞抜きで本当に気品横溢したお方で、母の温もりに似た慈愛すら感じました。心底日本が好きだということが肌身で伝わってきて、このたびの東北大震災の二日後には早速我が国を訪れ救援活動を開始されたというお話を伺ったときには、頭の下がる思いが致しました。また平成7年の阪神淡路大震災のときにも、我が国のことを本当に心配して下さったようでして、そのときのことを草開先生は、朴女史の手を取り涙ながらに我々に語られるのでした。やはり国家・民族を信義と友情で結び付けるのはこのようなお方なのだなと思った時、畏れながら李方子様もこのようなお方だったのだろうかなどと、ご生前の面影を知らぬ分際ゆえに要らぬ想像をめぐらしておりました。

墓前参拝

そして最終日、ついに李方子妃殿下の慰霊祭に参列する日がやってきました。我々はいつものように早めに朝食を済ませると、ソウル近郊の南揚州市にある金谷陵に向けホテルを出発しました。金谷陵は、風光明美な自然に囲まれた丘陵のなかに位置し、李方子妃殿下並びに英親王(李垠)殿下ご夫妻の陵(英園)の他、近しい王族縁類の方々の陵がひっそりと鎮座しています。我々はバスで会場に到着すると、慰霊祭が始まる前に陵墓参拝を済ませておくため、丘に沿った坂道を徒歩でゆっくり登って行きました。最初に英親王の異母兄である義親王殿下、次に同じく親王の義妹である徳恵翁主(対馬の宗家に嫁がれました)、そして英親王・方子妃殿下夫妻、最後に英親王のご令息である李玖殿下の順に回り、それぞれの墓前では、献花に続いて一同拝礼黙祷の後、草開先生が謡曲「絵馬」と「隅田川」を奉納されました。小雨がしとしとと降るなか、先生が静かにたたずんで歌を吟唱される様子は、いささか哀愁を誘うものがありました。

さて、続く英親王(李垠)殿下の慰霊祭は、李朝の伝統に基づき、厳格な儒式に則ったやりかたで執り行われました。豪華な王服を身にまとった王嗣孫(李王家当主)の李源氏が二十人いる祭官の筆頭である初献官を務め、我々の側からも大谷誠之先生(先生は草開先生のご従兄様だそうです)が亜献官として儀式に加わりました。生憎の天気にもかかわらず、李宗家の親戚だけでも50人近くが参集し、さすがは本貫を重視する韓国だけのことはあるなと思いました。式典の最後には、李源氏が日本から参列した我々のことを他の来場者に紹介して下さったようです。言葉も風俗も違う韓国の、それも複雑な因習や利害、思惑が錯綜する王宮に、日韓融和の国家的使命を秘めて単身嫁ぐということがどれほど大変なことかを想い、李方子妃殿下のご鴻業に粛然と襟を正す心持が致しました。こうして全ての日程は終了し、滞在中に目まぐるしく過ぎた出来事を振り返りながら日本への帰途に就いたのでした。

これまで拙い旅行記を縷々申し上げましたが、無論それは旅程の全てに言及したものではなく、内容もすべて私の個人的感想に過ぎないことをお断りいたします。末筆ながら、このたびこのような得難い貴重な機会をお与え下さいました草開省三先生に衷心より御礼を申し上げ、また日韓永遠の友好親善を切に祈念致し、皆様へのご報告とさせていただきます。

 

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『崎門学報』第十五号を発行

『崎門学報』第十五号を発行致しました。ご高覧下さい。

今号のラインナップは以下の通りです。

一面 拙著刊行と本誌休刊の辞(折本龍則)

二面 「王命に依って催されること」ー尾張藩の尊皇思想・下(坪内隆彦)

四面 活動報告

八面 顔真卿と日本の書道史(山本直人)

九面 楠木正成と観心寺(山本直人)

十面 社倉論①(小野耕資)

十一面 『若林強斎先生大学講義』を拝読して⑥(三浦夏南)

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