「勤皇志士、有馬新七と崎門学」(『季刊・日本主義』第三十六号)

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『季刊・日本主義』第三十六号(2016年冬)に、小生の寄稿した「勤王志士、有馬新七と崎門学」が掲載されました。有馬新七(1825~62)は、寺田屋事件で殉難した薩摩藩士で幕末の志士ですが、その行動を貫く精神は山崎闇齋の崎門学(きもんがく)によって養われたものでした。本稿は、崎門学研究会代表として執筆したものです。以下に冒頭部分を転載致します。

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父への書簡

「当分此方皆々人々の風節を承り候に、天子様より徳川方に三つの難事お申しつかはしなされ候由、一には御幸のある様に、二には高 天子様には何石とやら御かさみこれある由、三には徳川、京都へ登らるゝ様にとの事候由、承り申候。実にこの様に候はゞ、王道も古へ復せられん乎。未だ是非分明に御座なく候間、此旨御尋申上候。」

これは天保八年(一八三七年)、ある薩摩藩士の子が十三歳の時に父に送った書状である。その薩摩藩士の名は、有馬正直、子の名を有馬新七、後に号して有馬正義という。天保八年といえば、大塩平八郎の乱や生田万の乱が起きた年であり、盤石を誇った徳川幕府の威光にようやく陰りが差し始めた頃ではあるが、いまだ誰しもその終焉など予想しえなかった時代である。その当時の風説に、天皇陛下が徳川に対して三つの難事を仰せ出だされたというのである。その一つは、陛下が自由に行幸あそばされること、第二に、朝廷の石高を増加すること、そして第三に将軍宣下のため、将軍自ら上京して、これを拝受すること、とする御要求である。慶長二十年の禁中並公家諸法度を始めとする徳川幕府の朝廷政策は、主として朝廷を敬して遠ざけるものであった。寛永三年(一六二六年)に三代将軍徳川家光が上京した際、二条城に時の後水尾天皇を御迎えしたのを最後に、文久三年(一八六三年)、孝明天皇が賀茂社に行幸されるまで、実に二百四十年に亘って行幸はなく、その間、天皇はあの狭い御所に押し込められていたのである。また幕府が朝廷に献上した御料は僅々三万石に過ぎず、全国で一千万石、徳川三百万石といわれた石高からすればその経済的衰微は覆うべくもなかった。さらに将軍宣下に関しても、上述した家光以来、徳川将軍による上京は文久三年に将軍家茂が孝明天皇に拝謁するまで絶えてなく、歴代の将軍は江戸に居ながらにして将軍職を拝受してきたのである。この風説は虚説に過ぎなかったが、若き日の有馬新七が、そうした風説を言挙げし、もしそれが真実だとすれば「王道も昔へ復せられん乎」と述べているのは、彼が抱く尊皇心の発露に他ならない。・・・

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崎門学研究会

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