真木和泉守略年表

真木和泉守は文化十年(1813)、久留米水天宮神主真木施臣通称左門の長男として生まれた。幼名を湊と称した。

・文政六年(1823)、十一歳の時に父施臣が病没し家督を継いでからは名を保臣と改め紫灘と号した。

・天保三年(1832)、京都において神祇官領吉田氏より大宮司の状を受け、従五位下和泉守に叙任された。真木和泉守と称するのはこのためである。

・弘化元年(1844)、三十二歳の時水戸に遊学して会沢正志斉と会見し水戸学の影響を受ける。久留米に戻ると、久留米水戸学派である天保学派の領袖となる。

・弘化三年(1846)、藩主有馬頼長に『敢言草稿』等を上書して藩政改革意見を述べた。

・弘化四年(1847)、在京の友船曳巌の手引きで孝明天皇の即位式を拝観し、野宮定功等堂上公家の知遇を得る。この年から楠公祭の記録が見える。

・嘉永五年(1852)、久留米天保学派の同志が藩要路の人事刷新と藩政改革を図るも失敗し、「嘉永の獄」に連座する形で水田天満宮祀官であった弟大鳥居啓太の家に蟄居を命じられる。後に草庵「山梔窩」に移り文久二年二月まで十一カ年に亘って幽居する。その間、子弟に会沢正志斉の『新論』などを講義する傍ら、淵上郁太郎等の弟子を張耳飛目させて内外の情報収集に努める。『異聞漫録』はその記録である。

・安政五年(1858)には王政復古の経綸である『経緯愚説』を草して野宮定功への上書を試みると共に、倒幕挙兵の具体的計画である『大夢記』を草す。

万延元年(1860)三月、桜田門外の変が起こる。これを受けて討幕策である『密書草案』を草す。同年九月には初めて平野國臣が松村大成と共に山梔窩を訪れ形勢について和泉守と密談する。

・文久元年(1861)九月、尊皇攘夷論の根本を叙した『道辨』、子孫への教戒を記した遺書ともいうべき『何傷録』を草す。平野、清河八郎等の志士陸続来訪す。

同年十二月『義挙三策』を草し、討幕の具体策を述ぶ。

・文久二年(1862)二月、薩藩柴山愛次郎、橋口壮介来訪す。入薩を決意し水田を脱出する。鹿児島に着し有馬正義、田中謙介と会見する。慇懃に抑留される。

四月、大阪に着いたが同月二十三日の「伏見寺田屋の変」が起こり有馬等は殉死、和泉守は京都の薩藩邸に拘置される。後、大阪、久留米に護送されたが朝廷の沙汰により赦免される。

・文久三年(1863)、『上孝明天皇封事(孝明天皇に上る封事)』、『勢、断、労三条』を草す。反対党の力で死地に立ったが学習院における堂上や長藩、津和野藩主の働きかけにより囚を解かれる。六月、長州の桂小五郎と会見し『五事建策』を説明し、討幕親征の方針が決まる。大和行幸が決まるも「八月十八日の変」が起こり七卿に従って長州に下る。『興国新策』を毛利侯に呈す。

・元治元年(1864)三月、和泉守及び久坂玄瑞が総管する清側義軍の総員三田尻を発船する。七月、禁門の変に敗れ天王山に退く。久坂等戦死す。同月二十一日、和泉守以下十七士天王山頂にて自刃す。

・明治二十一(1888)年、靖国神社に合祀さる。

※小川常人『真木和泉守の研究』をもとに作成

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