【再掲】本当の「維新」とは何か(H24.10)

本当の「維新」とは何か。

目次

○「維新」と「革命」

○天皇主権の対内性

○天皇主権の対外性

○三種の神器について

○明治維新の理想

○明治維新の現実

○戦後民主主義の正体

○本当の「維新」とは何か

○「維新」と「革命」

最近、橋下徹さんの人気のせいで「維新」という言葉がやたらもてはやされるようになった。しかし当の橋下さん本人を含め、世間で「維新」という言葉の重さが持つ意味を本当に理解している人はあまりいないのではないか。

我が国において「維新」が持つ意味は西欧やシナにおける「革命」と対比してみると分かりやすい。もともとシナ由来の言葉である「革命」は孟子の「易姓革命」思想でも説かれるように、「天の命が革(あらた)まり、王室の姓が易(か)わる」という意味で使用されてきたのであり、その際、そのような「革命」は、「禅譲放伐」、すなわち、平和的な譲位か、流血を伴う弑逆によって遂行されてきた。

また西欧において「革命」は、主として進歩史観の文脈で使用され、封建的な因習や迷信から解放され資本主義の勃興のなかで台頭した市民階級が、専制的王政を打倒して共和制を樹立する大変革のことを意味した。つまりそこでの「革命」とは、無知や偏見、圧政に蔽われた暗黒の過去を克服し、理性の光によって自由で平等な社会を創造するための歴史の断絶に他ならない。

しかし我が国は、上述したシナや西欧における意味での「革命」は歴史上一度も経験したことがない。神武天皇が初代天皇として即位されてからというもの、今日に至るまで125代、皇統は万世一系の内に連綿と継受されている。また、「大化の改新」や「建武の新政」など、時代を画する変革は全て天皇を中心として、しかも過去を克服し歴史を断絶するものではなく、むしろ神武建国の旧に復す、すなわち天皇国である我が国古来の原点に回帰することを目標に掲げるものであった。そして我々の祖先は厳粛な心持で、それらの天皇回帰の変革を「革命」に対置されるものとして「維新」と呼んできたのである。

同じく「維新」の名が冠される「明治維新」も、学校の教科書の筋書き通りに単なる近代改革の意味で捉えるととんだ勘違いを犯すことになる。というのも、「明治維新」は本来、西欧の文明を取り入れて国家を近代化することが目的だったのではなく、徳川幕府にいわば「簒奪」された権力を朝廷の手に取り戻すことで、天皇の御稜威(威信)を回復し、神武建国の本来の姿に回帰することが目的だったからである。これは幕末における尊皇の志士である真木和泉が岩倉具視に建策して、「王政復古の大号令」に「諸事神武創業之始ニ原キ」と闡明されたことなどにもよく現れている。

では、神武建国の古に現れた、天皇国たる我が国本来の姿とは、いったい如何なるものであろうか。実のところその答えは、皇位の御徴(みしるし)である「三種の神器」、すなわち八咫(やた)の鏡と、八坂瓊(やさかに)の勾玉、そして草薙(くさなぎ)の剣によって示唆されている。周知のように、「三種の神器」は、天孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原にまします天照大神の御神勅を奉じて筑紫の日向の高千穂の峰に降臨されたとき、この地上の世界である「葦原中国(あしはらのなかつくに)」にもたらされた。天照大神は御神勅のなかで、御自身の直系の御子孫であらせられる天皇が葦原中国を永遠に統治すべきこと(天壌無窮の神勅)、またそのために天皇は御神鏡の中に大神の御姿を拝し(宝鏡奉斎の神勅)、斎庭(ゆにわ)の稲穂を奉じて民を豊かならしめることを畏くも命じられた(斎庭の稲穂の神勅)。そこで瓊瓊杵尊の御子孫であらせられる神武天皇は、日向から軍を率いて東征され、途中さまざまな抵抗に遭遇しながらも6年の長歳月を閲せられ、じっくりと蛮夷を従えながら、遂にはその大事業を成し遂げて我が国を御建国遊ばされたのである。日向から神武天皇がご即位遊ばされた大和の橿原宮まで到達されるのに6年もかかったのは、その御東征の事業が、冷酷非道な「覇道」ではなく、天皇の御稜威による「王道」によって蛮夷を「言向け和(やわ)」しながら着実に遂行されたことを表わしている。ご東征の途上、神武天皇が長髄彦と相まみえたときに、天皇の弓先にとまって雷光の如く輝いたとされる金鵄は、蛮夷を帰服せしめた天皇の御稜威を象徴するものといえよう。

なお、上述した神武東征のご精神は、金鵄勲章の授章者である児玉源太郎陸軍大将などを通じて我が国の台湾統治においても顕現せられた。

○天皇主権の対内性

ここで重要なのは、我が国を建国遊ばされた神武天皇が、まず天照大神の神勅を実践するために東征されたということである。古来、我が国の天皇は、西欧の専制君主やシナ皇帝のような絶対的権力者、あるいは超越的主権者ではない。天皇の本質は、高天原の光明、すなわち太陽神たる天照大神の御神徳を暗黒の現世にもたらし、万物の生命を撫育する「祭祀王」としてのお役目にあり、したがって御歴代の天皇は、日夜宮中での祭祀を怠ることなく、御神鏡の内に天照大神の御姿を畏み拝して、国家の安泰、蒼生の安寧を祈り続けて来られたのである。このように三種の神器の一つである八咫の鏡は、高天原の精神で厳しく御身を律せられる天皇陛下の国家祭祀と、それを干天慈雨のごとく享受し敬仰し奉る万民の姿を象徴している。

ところで西欧のいわゆる専制君主は、30年戦争の講和条約であるウェストファリア条約で、ローマ教会の普遍的権威が否定され、いわゆる「主権国家体制」が成立したことによって出現した。ここにいう30年戦争とは、西欧社会を席巻した「宗教改革」の最終局面であり、その結果確立された国家主権は二つの側面において効力を発揮した。

第一は主権の対内的効力である。西欧中世における中世的なキリスト教秩序は、遠く4世紀末葉のニケーア・コンスタンティノープル公会議によって、神とキリストと聖霊の「三位一体」を説く正統派のアタナシウス派が、異端派のアリウス派に勝利し、ローマ教皇が唯一神の福音を地上に伝道するキリストの後継者としての権威を確立したことに淵源する。さて、先にローマ皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教を公認し、後にテオドシウスはこれをローマ帝国の国教にしていたことから、ここにおいて「ローマ教会」と「皇帝権力」は握手し、教皇は神=キリストの名において皇帝に帝冠を授け、皇帝はローマ教会を異教徒の侵略から庇護するという「宗教」と「国家」の結婚が成立した。しかしそれは同時に、もともと神の存在を現世から超越したものとし、皇帝崇拝を否定することで十字架にかけられたキリストの教義からの逸脱という、根本的な矛盾をはらむものであった。

この矛盾を剔抉し、神の超越性を説く本来のキリスト教に回帰する運動として、ルターやカルバンらによって創始されたのが、いわゆる「宗教改革」である。ルターはラテン語ではなく、世俗語で書かれた聖書を読むことによって、信者がローマ教会の媒介を廃して直接神の福音を聴き取ることを説いた。またカルバンは、信仰における「予定説」を主張し、ローマ教会によるいかなる「秘跡」によっても、人間の救済と滅亡は予定されていることを説いたのであった。そこで、新教徒は、神との畏怖に満ちた対面にさらされながら、一方ではいかなるアポステリオリな救済の道も閉ざされているという意味で、厳格な「内面的孤独化」の経験を余儀なくされ、さらにはこの経験を通してはじめて、内面的に超越した規範によって自らを律し(自律)、その行為に対する責任(自己責任)を孤独的に引き受ける「近代的自己」という観念が成立したのである。

したがって、上述した教義を掲げる新教が、宗教戦争ならびにその最終局面である30年戦争で、ローマ教会を中心とした旧教勢力に勝利したことは、それまで神の権威によって基礎づけられていた君主権力の正当性に根本的な変更を迫るところとなり、以後西欧における君主は、もはや神の権威で正当化される存在ではあり得ず、ホッブズが「リバイアサン」として擬人化した主権者のように、むしろ「万人の万人に対する闘争状態」を鎮定して人民の財産権を保障する絶対権力の所有者であることを唯一のレゾンデートルとするようになったのである。

近代国家の基本的性格が、「国家」と「社会」の分離を特徴としているのは上述の西欧的な経緯に由来している。そこでは、信仰は個人の内面的問題とされ、国家はカール・シュミットが「中性国家」と形容したように、専ら人民の世俗的利害の調整に徹して、宗教・道徳的な問題にはコミットしないという原則が一般化した。

次に、聊か趣を異にするが、シナ皇帝による支配もある意味で西欧と共通するところがある。それは皇帝の支配権力を正当化する「天命思想」において見出される。すなわち、シナの皇帝権力は、彼が儒学で理想化された「三綱五常」の道徳を体現することによってのみ正当化され得るため、必然的に皇帝が徳を失うと天命は革まり、つまり革命が生起して王朝の姓が易わる。このようにシナの皇帝は、西欧の君主と同様に、その実質は一世俗的な権力者(=カエサル)に過ぎないのであって、彼とは独立し現世から超越した神(=キリスト)ないしは「天」の権威を拝借せねば、聊かもその権力の正当性を根拠づけることはできない。

この点が我が国との顕著な相違点である。何故ならば、上述したように、我が国の天皇は、高天原にまします天照大神直系の御子孫、つまり天皇ご自身が生きながらにして神にまします。その天皇が自ら大神の御神勅を奉じ我が国の主権者として君臨されるということは、すなわち、国家権力と宗教道徳が西欧やシナにおけるように相対するどころか、むしろ天皇の国家祭祀を通じて完全に融合していることを意味するのである。

したがって、天皇はそれ自体神にましますが故に、仮に天子が「失徳の暗君」であったとしても、絶対に革命は起こらない。天皇是即ち天なのであるから、天の命が革まろう(革命)筈はないのである。この点で、山崎闇齊を学祖とする崎門学で説かれたように、我が国の万古不易の国体は「君は君たらずとも、臣は臣たらざるべからず」とする絶対の君臣の義をその特徴とするのは、宜なるかなである。

ただし「皇統」がシナや西欧の「王統」よりも尊貴なのは、単にそれが神代から連なる「血統」の世襲性を保持しているという形式的理由のみによるのではない。むしろもっと重要なのは、天皇による国家統治がその実際的運用面においても実に賢明で寛大な統治であったという事である。その意味で、我が国の「皇統」は「血統」であると同時に道徳の系統としての「道統」をも兼ね備えている。

天皇統治に大方一貫している特徴は、武断専制的な権力的要素が極めて稀であることである。我が国の天皇ほど、伝統的に国民を「大御宝(おおみたから)」として我が子のように愛撫し慈育し温仁の徳を以て支配してきた君主は世界中のどこを見渡してもおよそ見つかるまい。例えば、かつて仁徳天皇は、民家から炊煙が立っていないのをご覧になって民の窮乏を深く御軫念遊ばし、課役を三年免除して御身も質素倹約に勤められた。その甲斐あってやがて五穀は豊穣に実り、炊煙も繁く見られるようになったが、宮城の垣は破れ、殿屋は雨漏りがして天子の衣を濡らす程であったという。こうしたお労しい有様にもかかわらず、仁徳天皇は「天の君を立つるはこれ百姓のためなり、然らばすなわち君百姓を以て本となす」と詔り給うた。これこそまさに天皇の本然たる御姿である。

以上に見たように、我が国の皇統は「血統」にして「道統」、両者は唇歯輔車、相補うものである。だからこそ天皇は万世一系、宝祚は天壌と共に窮りが無いのである。

○天皇主権の対外性

さて次に、信仰における規範の内面化を促した「宗教改革」が国家権力の発動について帰結した第二の効果は、主権の対外的効力である。それまで西欧の国際関係はローマ教会を通じてキリスト教の普遍道徳に規律されていたが、「宗教改革」の結果成立した「主権国家」は、宗教道徳の羈絆を脱して純然たる世俗国家(secular state)となり、マイネッケが概念化した「国家理性」にしたがって目的合理的に自己の国益を追及する権力機構になった。かくして国際関係を規律する原理は、「法の支配」から価値中立的な「勢力均衡」へとその性格を180度転換したのである。

しかし我が国の事情はまたしてもこれと異なる。というのも、上述した神武東征を皮切りに我が国が有史以来天皇の御名において遂行した全ての戦争は、皇祖天照大神の神勅を葦原中国に恢弘する、換言すれば四海六合に皇道を宣布し八紘を以て一家と為すための「世界維新」に他ならず、西欧近代におけるような単なる価値中立の権力的発動ではあり得ないからである。むしろ天つ日嗣(あまつひつぎ)たる天皇を戴ける我が国は神国であり世界万邦に冠絶せる道義的中心国(=中国)であるが故に、国体なき覇道の国家と民族を善導し、世界万民を遍く皇恩の恵沢に浴せしめるという「世界皇化」の民族的な天命を担い立てるのである。

では我が国の戦争目的が「世界皇化」であることは間違いないとして、その手段たる戦略戦術の局面で我が国はいかに夷狄を従えたか。これはすでに前段で触れた神武東征の精神で明らかにしたが、同様の事実は日本武尊が東夷征伐に赴く際、景行天皇が「荒ぶる神と服わぬ人どもを言向け和せ」と詔り給いた思し召しにも表れている。「言向け和す」という言葉に、天皇の御稜威による夷狄討伐という理念が示されているのである。

山鹿素行の『中朝事実』武徳章にいわく、「謹んで按ずるに、大八洲(おおやしま)の成るや、天瓊矛(あまのぬぼこ)に出づ、其の形乃ち瓊矛に似たり、故に細戈千足国(くわしほこちだるくに)と号づく、宜なるかな」と。しかしここに出てきた天瓊矛について、素行は次のようにも言っている。いわく「謹んで按ずるに、神代の靈器一ならず、而して天祖二神(伊弉諾尊と伊弉冉の二神)に授くるに瓊矛を以てし、任ずるに開基を以てす、瓊は玉也、矛は兵器也、矛玉を以てするは、聖武にして殺さざる也、蓋し草昧の時、暴邪を払い平らげ残賊を駆去するは、武威に非ざれば得べからざる也、故に天孫の降臨も亦矛玉自ら従ふと是れ也、凡そ中国の威武、外朝及び諸夷竟に之を企望すべからず、尤も由ある哉」(神器章)と。何が言いたいのかというと、天地開闢の始め、伊弉諾と伊弉冉の二神が天の浮橋に立ち、天の瓊矛で大海原を掻き混ぜた。そのとき瓊矛から滴り落ちた滴が積もってできた磤馭慮島(おのころ)に二神は降り立ち、大八洲たる日本を生んだということが一つ。そしてその大八洲たる我が国の形がよくよく見ると瓊矛に似ており細戈千足国と尊称されているのは、如上の由来に基づくというのが一つ。さらには、我が国誕生の元となる天の瓊矛は矛と勾玉から成り、矛が純粋な武力を現わすのに対して勾玉は敵を従える神聖な権威を現わすということが一つである。いわば恩威並び行うやり方で夷狄を従えるという点に、天皇を戴く「王道国家」たる我が国の真面目があるといい得るのであり、これが「覇道国家」たるシナやその朝貢国たる朝鮮との顕著な相違点である。

周知のように、シナは往古より道を説くこと盛んであり、世界の「中華」を自任して憚らないが、歴史の実際面では禅譲放伐による易姓革命で王統が断絶交代を繰り返し、それは「小中華」を自任する朝鮮においてもまた然りであった。シナや朝鮮の王統を遡ると、その元祖は全て前王の「簒臣」ないしは「乱臣賊子」に過ぎないことが判る。よって、そんな国家がいくら天下を上手くまるめても所詮は君臣の大義、統治の正当性を欠くから、支配が一定しない。あるいは別の言い方をすれば、彼らには国体がないのである。国体がないから、その内政は専制酷薄を極め、外交は事大主義を専らとし、内憂外患交々至って民衆は塗炭の苦痛を余儀なくせられたのである。

したがって、神武回帰としての明治維新が、その道義的射程を我が国のみならず、国体の喪失に喘ぐシナや朝鮮などの周辺国に敷衍拡張させ、ついには西欧帝国主義の軍靴に蹂躙されたアジアを復興する「世界維新」としての大東亜戦争にまで発展したことは、「八紘為宇」に現れた神武創業の御聖旨に適う偉大なる歴史の必然的進捗であった。

ところで、我が国の朝鮮統治に関し、かつて檀君廟があったソウル南山に総督府が朝鮮神宮を建立した際、そこに檀君を差し措いて天照大神と明治大帝を奉斎したことに、朝鮮サイドのみならず、我が国の朝野からも批判の声が上がったことがある(「御祭神論争」)。しかし残念ながら、朝鮮の檀君神話は高句麗(現在の北朝鮮)の一地方神話に過ぎず、百済や新羅にはそれぞれ別の卵生神話がある。したがって当時から檀君を朝鮮全体の国祖神と措定することには疑義が存していた。否、あるいは朝鮮にはそうした民族共通の国祖神が存在しない、つまり我が国と比肩しうるような国体が存在しないが故に、彼らは宿疴ともいえる地域葛藤と宗族利己主義、「以夷制夷(夷を以て夷を制す)」式の事大主義外交で自滅し、我が国の保護主義的な干渉を招いたのである。況や同様の顛末は、満州族の征服王朝である清朝のシナにおいてをやである。

○三種の神器について

だいぶ冗長になってしまったが、これまでシナや西欧の革命思想に対比する形で、天皇を戴ける我が国の維新について考えてきた。それを要約すること以下の通りである。

第一に、維新は歴史の断絶を意味する革命とは反対に、神武創業に発端する我が国史への回帰運動である。神武天皇は天照大神の御神勅を葦原中国に顕現するため東征の事業を完成して我が国を建国された。第二に、シナや西欧の君主は現世を超越した神や天の任命を待たねば国家統治の正当性がないため、一たび君主が天から見放されると革命が勃発して王統が断絶する。第三に、西欧中世に巻き起こった宗教改革は、君主を神の頸木から解放した一方で、国家は宗教と分離して世俗化した。第四に、宗教改革によって成立した主権国家は、国家の外交面でも価値中立の権力政治を展開するようになった。第五に、最早神の権威の後ろ盾を喪った西欧君主は、天に見放されたシナ皇帝と同じく、君臣の義を喪失し、国体の喪失に直面した。国体の不在は内憂外患を誘致し永久革命の連鎖が止まらなくなった。第六に、上述の一方で我が国の天皇は天照大神がまします高天原と地上の葦原中国を媒介する「祭祀王」であり、天皇それ自体が神であることを特徴とするので革命が絶対に起こらない。また天皇の政治はとにかく温かい。第七に、天皇の御名において行われる全ての戦争は天業恢弘による世界皇化が目的であり、その手段も覇道ではなく天皇の御稜威による王道に依るものである。第八に、明治維新は西欧革命と対蹠的に神武創業への原点回帰である。よってその明治国家が、神武天皇の御聖旨である八紘為宇の大精神を奉じ、シナや朝鮮を含む東亜民族の解放のために大東亜戦争を戦ったことは、歴史の必然的進捗であった。

先に、「維新とは何か」という問いに対する答えは、三種の神器に全て示唆されていると述べた。三種の神器の八咫の鏡は、天皇の国家祭祀を意味する。しかし天皇がいくら天神地祇をお祭りになられても、それが葦原中国に恢弘されねば高天原の光明は地上に届かない。万物の生命は枯渇してしまう。そこで皇威に服さぬ化外の夷狄を討伐し支配する強制力としての国家権力が必要になる。この国家権力たる天皇の大権を象徴するのが草薙の剣である。しかし、日嗣の神子(高天原の使者)である天皇を戴く我が国の国権発動は、その内政においても外交に於いてもシナや西欧におけるような価値中立の暴力行使にはなりえない。上述したように、神武東征にしてもその大業を受け継ぐ日本武尊の東征にしても、夷狄征伐のやり方は「言向け和す」の王道精神に貫かれており、また一たび矛を捨て御稜威に従った臣民に対しては、民の竈を気遣われる仁徳天皇や先の東日本大震災で被災地を親しく巡幸された今上陛下のように、御身を削ってまで、民を大御宝として御慈愛下さる。この天皇政治に特有なる温仁の徳を表象するのが八坂瓊の勾玉である。

さらに鏡と勾玉は天皇の御神徳と臣民の敬仰崇拝、すなわち君臣不動の大義(天皇を主君とし国民を臣下とする絶対の忠義)としての「国体」を表わし、矛は内政外交の両面に亘り天皇が一手に掌握される国家権力としての「政体」を表わしている。そこで三種の神器が三位一体であるのは、天皇の権威と権力としての「国体」と「政体」が一体不可分(=祭政一致)で唇歯輔車相補うものであることを意味する。よってその「国体」と「政体」の一体性(祭政一致)が損なわれた暁には、君臣の大義はすたれ、いかなる権力もその正当性を阻喪するに至る。このように、皇位の御徴である三種の神器は三位一体、国体と政体は不即不離で祭政一致、これが天皇国たる我が国の本然たる姿形であることを断言する。

○明治維新の理想

神武創業の精神は、皇位の御徴である三種の神器に象徴される、天皇の国家祭祀と国家の内外に対する大権の総攬、さらにはその大権を燦然と照らし出す御稜威の三位一体から成り立っており、かくして我が国の国体と政体は祭政一致を以て旨とする。その意味で、壇ノ浦の合戦で安徳天皇が入水遊ばれ草薙の剣が海底に沈んでしまったことは、朝廷による兵馬の権の喪失と、その後の長きにわたる武家の大政壟断を暗示する不吉な出来事であった。

王政復古の大号令に示されたように、明治維新は神武創業への先祖帰りであり、武家によって簒奪された矛と勾玉を奪還して祭政一致の真姿を顕現することが第一の目的であった。したがって明治元年、明治大帝が五箇条の御誓文を天神地祇に奉告遊ばされ、次いでその御誓文を受けて神祇官が太政官に対置されたことは、明治国家の真面目が祭政一致にあることを明確に示すものであった。周知のように、明治2年には版籍奉還、続く明治4年には廃藩置県が断行され、徳川幕藩体制で封建諸侯に分断占有されていた国家の統治権は名実ともに朝廷に奉還されている。

では矛、すなわち兵馬の権は何処にあるか。これは明治十五年に渙発された軍人勅諭に闡明されている。曰く、「それ兵馬の大権は朕が統ぶる所なればその司々をこそ臣下に任すなれその大綱は朕親ら之を攬り肯て臣下に委ぬべきものにあらず。子々孫々に至るまで篤くこの旨を伝え天子は文武の大権を掌握するの義を存して再び中世以降の如き失体なからんことを望むなり。朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」。

このように、神武創業の再現である明治維新は三種の神器の三位一体を回復し、祭政一致の国体を顕現することを企図していたが、なかでもそうした一連の改革の極北ともいえる所産が、明治21年の大日本帝国憲法である。いうまでもなく帝国憲法は、天皇主権を根幹とし、天皇が国権の総攬者にして軍の統帥権者であることを規定しているが、前述したように、その統治権は「天壌無窮の神勅」を始めとする「皇祖皇宗の遺訓」に由来するものであった。事実、帝国憲法の前文に相当する『告文』は「祖宗の神霊」に向けられたものであり、そこでは天皇が「天壤無窮ノ宏謨に循ひ惟神(かむながら)の宝祚を承繼し旧図を保持して敢て失墜すること無」きことを皇祖皇宗に誓約しているのである。かくして三種の神器の鏡と矛は回復されたのであるが、残る勾玉はどうであろうか。

この点について、伊藤博文の側近として帝国憲法の起草に携わった井上毅の功績は広く知られている。井上は古今東西の国典を渉猟し、我が国固有の統治理念を、天皇よる「シラス」という言葉に見出した。この「シラス」は、「ウシハク」いう言葉と対照され、古事記の「出雲の国譲り」の段で天照大御神が建御雷神(たけみかずちのかみ)をして大国主神に「汝がうしはける葦原中国はわがみ子の知らさむ国と言よさし給えり」と問わしめたのが元になっている。井上は、「ウシハク」が欧州やシナの君主国にありがちな「家産国家(Patrimonialstate)」の覇道理念であるのに対し、「シラス」は、天皇が上、高天原に対しては天照大神の御神勅をご神鏡に拝し、下、臣民に対しては公明正大で寛大温仁な統治を行うという意味での王道理念を意味すると説いた。他でもなく、この「シラス」こそ勾玉である。

○明治維新の現実

我々にとって幸運だったのは、明治国家の指導者はみな、我が国史と世界に比類なき国体に対する深い見識を有していたという事である。当然に三種の神器が意味する我が国の真姿を念頭に置いていたであろう。しかし彼らが維新政府に託した肇国の理想は、時の政治力学のなかで次第に換骨奪胎され形骸化していく。

まず祭政一致の体現である神祇官は、その後神祇省に降格され、さらにはその神祇省も廃止されて教部省が設置された。その間、平田鉄胤や玉松操をはじめとする平田派の正統は職を追われ、福羽美静を始めとする開明派の津和野派が主導権を掌握している。なぜこうなったか。その背景について、神道家の葦津珍彦氏は第一に、不平等条約改正問題を抱えていた当時の政府は近代的な立憲君主制を西欧列強にアピールする必要があり、その上で祭政一致による神祇官制は障碍と見なされた、第二に、明治政府を牛耳った長州閥は、毛利家の菩提寺が浄土真宗であり、禁門の変で敗走した長州軍を匿ったのが新宗本山の西本願寺であったことなどから、浄土真宗には頭が上がらず、当初すすめられた神仏分離や廃仏毀釈などの改革を徹底できなかったことなどを理由に挙げている。

さらにことほど左様であったから、鏡と矛に現れた天皇親政は次第にあくまで建前上の理念として、実際には西欧近代的な「立憲君主制」が慣例化されていく。つまり、理想は天皇親政だが、現実の行政権と統帥権は内閣と軍部の輔弼に委ねられたのである。そこでパリ・コミューンの洗礼を受けた元老の西園寺公望などは、天皇による親裁を諫め、普通選挙で勝利した議会政党の首班に総理大臣の勅命を降下するルールを「憲政の常道」と称して慣例化するなどした。西園寺がそうした表向きの理由は、天皇主権を定める帝国憲法で政治責任が天皇に及ぶことを回避するというものであったが、いま振り返ってみるとそうした「立憲主義」の表看板は、むしろ薩長藩閥による大政壟断を糊塗し隠ぺいする大義名分として利用された感が否めない。つまり、天皇は神聖だから超然たるべし、俗事たる政治は人臣の代表たる我々が代行すべしという口上で、薩長の専制が正当化された節があるのである。

そもそも「立憲主義」の由来は、王権と民権が不断に対立抗争を返した西欧君主国のなかに出来上がった慣習であって、君民一如、和気藹々と利害休戚を同じくしてきた我が国とは本来何の関わりもない考え方である。前述したように、西欧では中世の王権神授説が宗教改革で破綻し、君主は市民社会の利益に奉仕する「リバイアサン」であることを唯一の存立根拠とするようになった。かくして「国家」と「社会」は分離し、それはその後、19世紀的な「夜警国家」の思想的根拠にもなるのであるが、ローマ教会の権威から自由になった専制君主が、市民社会の自然法を履行しようはずはなく、案の上、権力を恣意的に乱用して貴族や市民階級との対立を深めていく。そこで出てきたのが、君権を憲法の枠内に制限する「立憲主義」であり、これすらも守られないときには、ジョン・ロックによって市民による革命権が容認されるまでに至った。余談だが、確か中江兆民の『三酔人経綸問答』では、民権に関する議論で、洋学紳士君が君主との闘争による「回復の民権」を擁護したのに対して、東洋豪傑君は我が国の民権は天皇陛下から下賜された「恩賜の民権」だと言っていた。

西欧のように、君主主権が専制になったのは王権神授だからである。対して我が国の天皇は現御神である。よって我が国の専制は、天皇主権よりも却って天皇非主権の時に引き起こされている。藤原摂関家や平家、北条足利徳川の三幕府と、時の政権が権力を恣にしたのは、大権が朝廷の手を離れたからである。所詮は人臣に過ぎない連中が、天下を切り盛りしたからである。薩長もその轍を踏んだ。

「光輝ある明治と暗黒の昭和」といったように、歴史を単純に図式化するのは間違いである。しかしあの活気に満ちた明治の御代と比べて、昭和の世相が聊か官僚制的に硬直化し、自由闊達の気風が失われつつあったのは事実ではなかろうか。中野正剛が『戦時宰相論』でいみじくも述べたように、明治の御代には、桂太郎に睨みをきかす伊藤や山縣の存在があったし、さらにはその伊藤や山縣を叱り飛ばす頭山満やその頭山に秘かな信頼を寄せる中江兆民の存在があった。彼らが朝野の隔てなく、自由に物を言えたのは、所詮は自分たちが陛下の人臣に過ぎぬという謹慎と天下の大政は畢竟、上御一人に帰するのだという敬神の念を持していたからである。しかし時が下り、薩長が不動の体制派になると、彼らは自分本位の政治をやり始める。その結果、聖明は薩長という曇天に遮られ、高天原の光明は葦原中国に届かなくなる。特に、明治の開国以来、我が国に着々浸透しつつあった資本主義経済は失業と貧困という物質的窮乏を民衆に強い、そのなかでも薩長藩閥は政商から成りあがった財閥と結託して国家の富力を独占して下を顧みなかったのである。かくして我が国社会は、貧富貴賤の断層で分裂し、維新の精神払底したかに思われた。

これに対して起こった運動が5・15事件、神兵隊事件、2・26事件と続く、「昭和維新」運動である。「昭和維新」運動は、上述したように、聖明を蔽い奉る薩長藩閥の政治家・官僚、元老、財閥といった「君側の奸」を駆除し、一君万民の国体を回復することで、明治維新、さらには神武創業の本旨に立ち返ることが目的であった。しかし2・26事件における「反乱軍」の鎮圧を最後に、昭和維新運動は挫折する。臣民の赤心、天聴に達するを得なかった。その後、皇道派を斥け国政の主導権を握った統制派の東条と対決した中野の『戦時宰相論』は、勾玉を没却した天皇政治への警鐘と見ることもできる。

○戦後民主主義の正体

戦後我が国に降り立ったマッカーサーの対日占領における権限は、本国や連合国との関係で脆弱であり、連合国によって設置されることが決まった極東委員会は彼の権限を凌ぐものであった。しかしこの極東委員会の構成国には、ソ連をはじめ、オーストラリアやニュージーランドなど「天皇制」の存続に関して否定的な国が含まれており、国体護持を条件に降伏した我が国の朝野を戦々兢々たらしめた。そこでマッカーサーは、「天皇制」の存続を保障するのと引き換えに、対日占領における先帝の協力を取り付け、神道指令や人間宣言、現行憲法の制定など、一連の民主化改革の機先を制することによって、対日占領における主導的地位を確立することに成功した。その際、マッカーサーが「天皇制」を擁護するために持ち出した理論的根拠は、戦前における天皇の権能が「立憲君主」としての形式的役割に限定されており、国家統治の実権は東条を始めとする軍部に掌握されていたというものであった。これは上述した西園寺公望の諌奏による「憲政の常道」の経緯や、『昭和天皇独白録』にも記されたように、先帝が張作霖爆殺事件で田中義一を叱責されて以降は、極力政治的発言をお控えになられて内閣の決定を裁可遊ばすようになったというご発言とも符合する。つまり天皇を軍国主義や全体国家の権化と看做す極東委員会の天皇訴追論に対して、マッカーサーやその後継者たちは、天皇があくまで英国流の立憲君主であり、それと近代的な議会制民主主義は矛盾しないことを主張することによって、むしろ天皇の権威を利用し、一連の民主改革の後見人としての新たな天皇像を打ち立てたのである。

現行憲法は形式上、帝国憲法73条の改正規定を踏んでおり、先帝陛下もこの憲法をご裁可遊ばしている。これは大日本帝国が議会政治と親和的な立憲君主国であったことにし、主権在民を定める新憲法との法的な連続性を強調する演出であった。しかし上述の通り、我が国の国情は、立憲君主制が成立した英国のそれと全然異なり、天皇は市民社会の守護者たるリバイアサンではなく、皇祖の神勅を受けた我が国の唯一正当な主権者に他ならない。よって、皇祖皇宗より継受された天皇大権の帝国憲法と主権在民を謳い、天皇を「国民の総意に基づく」象徴と規定している現行憲法は水炭相容れず、前者から後者への移行は凡そ木に竹を接ぐ如く、憲法改正の限界を超えた「革命」、共和制の樹立を意味する。そこで憲法学者の宮沢俊義などは、昭和20年8月のポツダム宣言受諾を以て我が国に法的意味での「革命」が生起したとする「八月革命説」を提唱し、いまや憲法学説上の通説となっている。つまり、戦後占領国たるアメリカが我が国に押し付けた現行憲法は、立憲君主制の外套をまとった共和革命憲法に他ならないのである。

ところで、憲法が「政体」の根本を成すものであるとするならば、天皇主権の帝国憲法から国民主権の現行憲法への移行は、「政体」の革命的断絶を意味するものと見なければならず、上述の通りこの「政体」と君臣の義に立つ「国体」は唇歯輔車相補うものであるからして、「政体」の改変は畢竟、「国体」の衰微を招来せざるを得ない。現実に、人間宣言で天皇の神格が否定されたのみならず、現行憲法下の象徴天皇は一切の大権を剥奪され、国家の儀礼形式的な「国事行為」のみを行う存在とされている。そのため天業恢弘の現れたる「国家祭祀」は、「宮中祭祀」と名を変え、飽くまで「皇室の私事」とされて国民の視界から隔離されてきた。公教育で教育勅語が廃止されたのは無論、御真影も撤去され、天地開闢に淵源する我が民族の天孫神話は国民の脳裏から消え失せている。そしてその甚だしきは、文民統制の名のもとに、統帥権を干犯し軍の指揮権を内閣総理大臣に直属させた自衛隊である。我が国の軍隊は神武東征の古から、天皇を大元帥に仰ぐ光輝ある「皇軍」である。それがどこの馬の骨とも知れぬ一介の人臣を最高指揮官とする軽薄な「国民軍」に取って代わられ、軍人勅諭に闡明された建軍の本義は失われた。これでは朝廷から兵馬の権を盗み取り、覇道専制を働いた幕府政治と何ら変わるところがない。現行憲法は昭和の『禁中公家諸法度』だ。

○本当の「維新」とは何か

かくして時を追うごとに、国民の天皇信仰は薄れ、君臣の忠義は没却の一途を辿っている。これらは全て、我が国が戦争に負け、占領国たるアメリカと、天皇への忠節を捨てアメリカに内応した売国・傀儡勢力が、国民主権の名のもとに天皇固有の大権を剽窃し、自らの政治的保身を全くしたことによる。遺憾にも、戦後我が国を長きに亘って支配した自民党政権は、CIAの資金援助を受けたその汚れた出自に象徴されるように、口舌の上では尊皇愛国を唱えながら、その実は袞竜の袖に隠れ、聖明を蔽い奉り、反共の優等生、米国の忠良なる僕(しもべ)になり下がったアメリカの傀儡勢力であった。その証拠に、自民党政権は、戦後我が国がサンフランシスコ講和条約によって独立を回復した後も、日米安保条約でアメリカ占領軍が我が国に駐留し続けることを許容したばかりか、米兵に治外法権を与え、米軍に在日基地の半永久的な使用を認める日米地位協定(旧日米行政協定)を戦後半世紀上もの間放置してきた。この日米地位協定は、安政の日米修好通商条約にも勝る屈辱的な不平等条約である。その結果、現在も我が国の領土には、五万人もの米兵が存在し、年間で4000億、通算にして三兆円超もの国家予算が米軍の駐留を維持するための経費としてアメリカに上納されてきたのである。

アルカイダのアメリカに対する宣戦理由は、第一にイスラムの聖地であるメッカを擁するサウジアラビアに異教徒であるアメリカの軍隊が存在していることであった。しかしサウジアラビアのメッカから米軍基地があるとされるキング・ハリド(King Khalid)軍事都市まで直線距離にして930キロである。これがイスラムの冒涜であるというならば、畏くも聖天子がおわします皇居から米国第七艦隊の根城である横須賀海軍基地まで45キロ、第五空軍基地がある横田飛行場まで僅か36キロに過ぎない我が国は一体どうなってしまうのか。

戦後の冷戦時代はソ連の脅威を、そして現在はシナの脅威を喧伝鼓吹する一方で、我が国政府は、夷狄であるアメリカの軍隊が宮城を威圧するかのように我が神聖なる大八洲に盤踞する現実を国体の冒涜とは思わなかった。それは所詮、彼らの正体がアメリカの傀儡に過ぎないことを雄弁に物語っている。それだけではない。在日米軍基地は、「自由と民主主義」という聖戦の美名に隠れて世界侵略を企てるアメリカの前方拠点なのであるから、我が国は期せずして彼らの十字軍的遠征の片棒を担いでいるのである。

だから日本人よ、我々はいい加減目を覚まさなければならない。アメリカは我が国の守護者でもなければ、同盟国でもない。天皇陛下が唯一正当に統治し給う葦原中国を軍靴で蹂躙する夷狄なのだ。奴らが我々に与え、そして内部の裏切り者が唯々諾々として受け入れた戦後の「政体」、なかんずくその中心を成す現行憲法は、「個人的権利」の制度的保障として「政教分離」を規定している。しかし、そもそもこの「個人的権利」の基礎にある「個人=自己」という観念や「政教分離」という原則は、神とカエサルを分離する原始キリスト教、さらにはそれへの原理主義的な回帰運動としての「宗教改革」がもたらした西欧新教国特有の歴史的所産に他ならない。上述したように、「自己」という観念は、新教がローマ教会の権威を否定し「聖書中心主義」を唱えた結果、信徒が神との内面的に孤独な対面を果たしたことによって成立し、かくして生起した個人という主体が、近代市民社会における最も基礎的な構成単位と看做されるようになった。そして同様に、「政教分離」も、新教が神の内面的な信仰を説いた結果に生まれた西欧社会特有の国家原則なのである。その証拠に、「政教分離(the separation of church and state)」は飽くまで「教会(church)=ローマ教会」と「国家(state)」の分離を説くのであって、「宗教(religion)」と「国家(state)」の分離を意味するのではない。むしろ「政教分離」の看板を掲げる米国は、トクヴィルが目撃した昔からネオ・コンが台頭した昨今に至るまで、熱狂的な新教徒の支配する宗教国家である。つまり詰まる所、現行憲法の根幹を成す「個人主義」や「政教分離」は米国が言うように万国普遍の原則ではなく、その実は異教徒たるキリスト教徒の信条に過ぎない。しかし我が国は、天地開闢このかた、三種の神器に象徴される祭政一致国家なのであるから、これらの原理原則を我が国に無批判に移植した場合、国民における信仰の喪失、国家の無宗教化、個人主義の名を借りた利己主義、唯物的な拝金・権力思想や刹那快楽主義の蔓延、区区たる党派対立の先鋭化といった全く皮相な社会的混乱を惹起せざるを得ない。

以上の予測を裏付けように、現在の我が国では天皇信仰を没却した国民の間で区区たる唯物利己主義が蔓延し、社会は貴賤貧富の格差で断絶している。これは一重に高天原と葦原中国の間が、「個人主義」や「政教分離」という「政体」の曇天によって遮られ、皇祖天照の光沢が万物に届かないからである。これは素戔嗚命(すさのおのみこと)が乱暴狼藉を働いた結果、天照大神が天の岩屋戸にお籠りになられたことによる常闇(とこやみ)の世界の再現である。神代において、この岩屋戸を開く方法について思い兼ねた八百万の神々は、榊の枝に八咫鏡と八尺瓊勾玉をかけて捧げ持ち、手力男命(たぢからおのみこと)が大神の御手を強く引くことで世界は光を取り戻した。あるいは皇祖の再臨を仰ぐこの手力男命の雄々しい力は、草薙の剣と相通ずるのかもしれない。とすれば、常闇の現在を生きる我々がこの葦原中国に高天原の光を取り戻すためにまず第一にせねばならぬことは、ご神鏡と勾玉を奉斎し、手力男命のごとき草薙の剣の力で国家を神武創業の原点に立ち返らせる、つまりはこの平成の大御世において、三種の神器を回復する本当の「維新」を断行することなのである。(終)

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