「私は何故ガンディーを殺したのか」4

三十二年間蓄積された挑発の結果、ガンジーは先におけるムスリムに同情的な断食に至ったが、それは私に彼という存在に対して速やかに終止符を打たねばならないという最終的結論を抱かせた。ガンディーは南アフリカのインド人コミュニティーのなかで彼らの権利と福利を向上させたという点ではとてもよい働きをした。しかし最終的にかれがインドに帰国すると、何が正しくて何が間違っているかについて最終的な審判を下すのは彼だけであるかのような主観的考えを抱くようになった。もしもインドが彼の指導を仰ぐなら、インド人はガンディーの無謬性を受け入れねばならなかった。しかしもしそうでないならば、彼は国民会議と一線を画し、独自の道を歩んでいただろう。

どちらの道を採るにせよ、両者の折衷的な道はありえない。つまり、国民会議が自らの意思をガンジーに屈服させ、彼の情緒や気紛れ、哲学や世界観に対して常に後塵を拝さねばならないのか、それとも彼なしでやっていくかである。

彼のみが人々や物事の審判者であり、不服従の市民運動を指導する首脳であったのであり、他の誰もそうした運動の方法を知る者はなかった。彼だけがいつその運動を始め、また手を引くか知っていた。運動が成功するか失敗するかは不明で、仮に失敗すれば思わぬ災難や政治的反動をもたらす可能性もあったが、それもガンディーの無謬性も前にはどうでもいいことだった。「サティヤーグラハは絶対に失敗しない」というのは、彼が自らの無謬性を宣言した公式であり、彼以外の誰もサティヤーグラハが何なのか分かっていなかった。こうした幼稚な狂気や頑迷固陋と組み合わさったガンディーの極めて質素な生活、たゆみない労働と爛漫な人格が、彼をして凄みのある抗いがたい人物にならしめたのである。

 

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