山崎闇齊先生について

崎門学の開祖である山崎闇齊先生は、元和四年(西暦1619)京都に生まれました。はじめ臨済宗本山妙心寺に入って僧となり禅学を究明しましたが、その後土佐の汲江(ぎゅうこう)寺に移った際に偶然学んだ朱子学に開眼して還俗し儒者に転じました。しかしその後会津藩主の保科正之に賓師として招聘された際に、同じく正之より召された神道家の吉川惟足の吉田神道に邂逅して今度は神道家に転じました。こうした先生の外面的思想遍歴の内面について近藤啓吾先生は「先生の生涯は一の孝子であり、その孝の思ひの故に仏教の出家入道に疑問を抱き、その故に朱子の五常、中でも父子の親を重しとする教えに接して仏徒たるの非を悟り、そして朱子の教えに沈潜してその学の骨髄に触れるや、朱子は畢竟漢土の哲人、我は日本に生を稟けた人たることを知りて我国古来の思想を求め、遂に神道に入ったことであって、先生その人に於いては、仏儒神と遍歴したるは、その自身の真実を求めての必然」と述べられています(『崎門三先生の学問』)。闇齊先生が仏教に抱いた疑問は、黄檗希運の次のような行動に対する批判に現れています。けだし高僧希運は母に内緒で帰省した折、我が子であることを知って追ってきた母を大義渡頭において拒絶し溺死せしめたのです。これを黄檗禅は、母子の恩愛を捨てて道心を貫いた行動として称賛しました。

もともと先生の家系は敬神の風がありましたが、後年神道に転出した契機としては寛文九年、先生五十二歳のとき伊勢神宮に参宮して大宮司大中臣精長(きよなが)より『中臣祓(なかとみのはらい)』の伝を受け、翌々十一年吉川惟足より垂加霊社の神道号を与えられたことによります。もっとも、先生は精長や惟足に会うよりも早く、すでに伊勢神道の神道五部書や吉田家の古い注釈書に目を通しており、大中臣精長より与えられた垂加霊社の神号は『倭姫命世記』にある「神は垂るるに祈祷を以て先と為()、冥は加ふるに正直を以て本と為()り」の語を尊んだ先生が請うて附せられたものとされます。かくして先生の神道はその神号に因んで垂加神道と呼ばれております。

さて朱子学で人倫の規範とされる「三綱五常」は形而上学的な原理とされ、人代を超越したものでありますが、万世一系のご皇室を戴く我が国の場合、高天原にまします皇祖の神勅は天皇を通じて祖孫一貫、人代において顕現せられており、悠久の神代は現在の人代に内在しております。上述した『倭姫命世記』には「心神は則ち天地の本基、身体は五行の化生なり」とあり、また同じく『宝基本記』にも「人は乃ち天下の神物なり、須らく静謐を掌るべし。心は乃ち神明の主なり。心神を傷くるなかれ」とあります。このように伊勢神道の説く「心神」は「私どもが神より賜った神の分霊であるとの信念」であり「この「心神」をその儘に生きゐる姿が「正直」であり、神が宿られるものは清浄でなければならぬことから、「祓」の思想が生まれ」ました。垂加神道の成立において『中臣祓』が重要な意味を持つのはその為です(近藤啓吾先生「日本の神」)

さらに先生のこの「心神」への沈潜は、ついに自らの霊を神として祭るまでに至りましたが、門下の多くは先生の真意を理解する事が出来ず、この結果、闇齊先生は厳格な朱子学の論理に重きを置く浅見絅齊先生との間で師弟の葛藤を来たすようになりました。先生の死後、浅見先生は生前の行いを深く懺悔されましたが、結局最後まで垂加神道の奥義を理解されませんでした。それでもその教義は山本主馬を通じて浅見門下の若林強齊先生によって再興されました。

先生は『日本書紀神代巻』を註解した『風葉集』、『中臣祓』を註解した『風水草』などの他には生涯を通じてあまり多くの著作を残されませんでしたが、これは先生がその研究の大半を資料の博捜蒐集し、その厳格な校訂注釈によって正確な定本を作成することに費やされたことによります。よってその崎門・垂加の学は主として先生の弟子たちによって飛躍発展を遂げることになりました。

 

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