崎門学研究会「崎門学に学ぶ②」一水会『レコンキスタ』平成25年11月号

崎門学派の楠公論について

レコン②国体を守護するという目的において、君主の行う道としての君道と臣下の行う道としての臣道は完全に一致するが、その採るべき手段において、両者は必ずしも一致しない。この問題に最も深刻切実な形で直面し、臣道を純粋に貫いた人物が、大楠公こと楠木正成公である。
周知のように、楠公は建武中興の立役者であり、足利が朝廷に謀反した後も最期まで天子に忠節を貫いた国家の英雄である。しかしその評価はこれまで毀誉褒貶があり、彼を称賛する意見の中にすら楠公の何が偉大かについて位相の隔たりがあった。
ある方面では、彼をもっぱら由井正雪の楠木流兵学によって代表せられる底の卓越した兵法家として特筆し、またある方面では、楠公を利を捨て義を取ることを説いた儒教と武士道の優れた実践者として特筆している。要するに、楠公は知将にして忠臣だから偉いという訳である。それはさながら、軍略の天才でありながら同時に『出師の表』で「成敗利鈍は臣のよく逆堵(予期)するところに非ず」として大義に殉じた諸葛孔明を彷彿させることから、山崎闇斎は「我朝の楠多門兵衛(正成)は、孔明の次なるべし」とまで述べているほどである。
一方、闇斎の弟子である浅見絅斎は、かつて楠公が金剛山に神出鬼没して敵方を翻弄したのとは打って変わり、湊川の戦いで敗れた後はあっさり自害したのを遺憾とした。絅斎としては、どんな手を使ってでもしぶとく生き残り、死力を尽くして天子のために戦うのが真忠の道、それが楠公らしさであるのに、今回の死はなんとも楠公らしくないと思えたからである。
これに対し、絅斎の弟子である若林強斎は、師説を斥け、楠公がその死に臨んで弟の正季(まさすえ)と「七生撃賊」を誓ったところに公の心事を拝察すべきであるとした。つまりいまは生き残るよりも、ただ一死を以って後生に志を留め、「生キカハリ死ニカハリ朝敵高氏ヲ滅ボサント」したというのである。
もとより湊川の戦いに勝機はなかった。楠公はそれを知って朝廷に献策を試みたが容れられなかったとき、すでに死を決意していた。だから戦場に赴くまえに桜井の駅で息子の正行(まさつら)に永訣を告げ、彼に後事を託しているのである。
しかしそれでいて公に天子を恨む気持ちは微塵もない。むしろ天子を愛しく思う忍びない心から、「七生撃賊」を誓って死んでいるのである。これには楠公が言ったとされ若林強斎が自らが主宰する塾である「望楠軒」の名の由来ともした、「仮初にも君を恨み奉るの心起こらば天照大神の名をば唱ふべし」の言葉が深く関係しているように思われる。
すなわち、献策容れられず死を仰せ付けられても、臣が君を衷心より愛おしいと思う感情は、たとい親が子を虐たげたとしても、子が親をどこまでも愛しく思う切ない人情と相通ずるのであり、楠公は皇祖より直系の天子とその派生である国民との間に、単なる君臣の主従を超えた父子の情愛を見ていたに違いない。だからこそ楠公は天照大神の名を唱えたのであり、それはシナ式の「士は己を知る者の為に死す」といった忠誠を遥かに超越した子々孫々に連なる皇統守護の精神なのである。
このように歴史上、われわれ日本国民にとって天皇陛下が、畏くも君にして親であることを想うとき、主権者づらした今日の国民は、さながら「親の心、子しらず」の感あるを拭えざるにや。
(崎門学研究会)

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