朝鮮研究会レジュメ

  

Ⅰ:朝鮮通史―高麗建国まで(金両基『物語韓国史』を参照)

○神話時代

檀君紀元 BC2333103日→「開天の日」

李成桂は開城から漢陽(ソウル)遷都の際南山に国師堂建立、本尊檀君

Cf.今西龍「檀君考」→日鮮同祖論に基づき皇紀より古い檀君紀を否定

桓因→桓雄、天符印三個授与し神檀樹(シンダンス)に降臨、熊女との間に檀君王倹出生

 

殷人箕子、燕臣衛満、準王(辰韓創建)

衛満は漢の外臣となり孫の右渠に至り全盛に入るも味方の裏切りと前漢武帝の侵略により滅亡→以後420年に及ぶ漢四群(楽浪郡、真番、臨屯、玄菟)時代

 

○三韓三国時代

辰韓が馬韓(→百済)・辰韓(→新羅)・弁韓(→伽耶)に分極化

北扶余→東扶余→高句麗→百済

朱蒙王(東明聖王)の高句麗建国

温祚王の十済(後の百済)建国→馬韓を併呑

赫居世の斯盧建(後の新羅)建国

⇒何れも卵生型降臨神話

金首露王が「亀旨峰(クジボン)」に降臨し駕洛建国

→『日本書紀』に天孫が降臨したとされる高千穂の「櫛触峯(クシフルタケ)」と同定

 

高句麗の漢四郡討滅(AD315

高句麗に仏教伝来(AD372

広開土王即位(392)→高句麗全盛

隋の煬帝による侵寇は辛くも撃退

668年唐の攻撃により滅亡

 

百済は近肖古王で全盛

384東晋より仏教伝来

397倭国と同盟→腆支を人質

660義慈王が熊津城を出、降伏滅亡

福信が豊璋を頂き抗戦

日本書紀の記述 三韓の朝貢

 

新羅の真徳女王が金春秋(後の武烈王)を唐の太宗に派遣

武烈王・金庾信将軍(伽耶王族出身)が唐と連合し百済滅亡

新羅の朝鮮統一「新羅による統一は、外勢である唐と結託して、同胞の国であり、当時アジアの強国であった高句麗と、世界の最高級の文化と芸術の国であった百済を不意討ちすることによって滅亡させたものだった(百済が六六○年、高句麗が六六八年)。民族反逆の末に、自らを唐の属国にしてしまった。ここに韓国人の意識構造に、異常を招く事態となった。新羅は進んで唐の属国になることによって、卑怯、利己主義、機会主義、事大主義を蔓延らせ、韓民族を転落させたのだった。」・・・「新羅は唐の属国となることによって、唐の元号を用いるかたわら、名前や服装を唐風に改めた。韓人の姓は三国時代までは二字姓だったが、創氏改名が強いられ、一字姓になった。」(崔基鎬『韓国堕落の2000年史』)

 

 

698高句麗遺民である大祚栄が渤海建国

遼の太宗・耶律阿保機により滅亡(926

 

○高麗による統一完成と自主独立の是非

弓裔(新羅の王子)が後高句麗建国(901

→弓裔の部下である王建が反逆し高麗建国(918

→新羅の敬順王が高麗に王権を禅譲(935)するも、王建が敬順の長女楽浪姫を娶ることで新羅の血は高麗に生き残った。

 

甄萱が後百済建国するも息子の神劒に幽閉され、高麗に亡命、後自ら後百済を討滅(父子相殺)

→百済差別(全羅道への地域差別)の発端(cf.王建の「十訓要」*)

⇒高麗による朝鮮統一「高麗朝はナショナリズムを甦らせ、高句麗と百済の精神的再興を企て、再び韓民族の誇りを取り戻させた」(崔)

*王建の「十訓要」第八条・・・「車峴以南と公州江の外は、山形と地勢が共に背逆に趨り、人心もまた然り。その下の州や群の人が朝廷に参与して王候や国戚と結婚して国政を執れば、或いは国家に変乱を起こし、或いは統合された怨みを啣(ふく)んで反逆し、また早くから官寺の奴婢を津駅の雑尺(賤人。賤職に従事する者)に属していた者が、或いは権勢家にくっついて役を免じ、或いは王候・宮院について姦巧な言語をもって権勢を弄し、政事を混乱させ、災変を起こすので、たとえ良民といえども、それに相応する位に登用してはならない。」(金著より孫引)

 

 

926、契丹の侵攻により渤海滅亡

1231、蒙古襲来→江華島に遷都→和睦後元と連合して日本侵攻

 23代高宗治世に第一次蒙古来寇を受けると開京(開城)から江華島に遷都し抗戦するも、後24代元宗治世に和睦し還都、軍船を提供して日本に侵攻。ただし高麗正規軍の「三別抄」は蒙古への降伏を拒み江華島に籠城して徹底抗戦。この結果、蒙古の日本遠征を遷延させる。

 

 

Ⅱ:李氏朝鮮

総論;高麗の将軍であった李成桂が王位を簒奪することによって(それも満州奪還の王命を放擲して)成立した李朝は、中国への臣従隷属に甘んじ、太祖李成桂の存命中から、王子たちの後継ぎをめぐる兄弟殺しが横行し、その後も両班や宦官、外戚勢道家などの特権階級が朱子学の教理を弄び、奴婢を酷使し民衆から搾取するかたわら、熾烈な「士禍党争」に明け暮れた結果、まさに内憂が外患を誘致するかたちで自滅への道を辿った。

 

親明派の李成桂将軍が朝鮮建国(1392

←元末明初の混乱に乗じた遼東奪回の王命に背き、回軍して王位簒奪、明から「朝鮮」の国号を下賜される。

→農本民生・崇儒排仏(『経国大典』(1485)で朱子学官制化政策

四代世宗が『訓民正音』公布(1446)*←黎民救済を意図

*「わが国の語音は中国とは異なるので、文字((漢字))と相通じず、愚民((民百姓))は、いいたいことがあっても、それを表せないものが多い。それを余は不憫に思い、二十八字を新刷し、人々が習いやすく、日常に用いるのに便利なようにした。」(金著より孫引)

 →現実には、中国への宗属を気遣う崔萬里の反論をはじめ、「諺文(オンムン)」と蔑まれ、日本統治時代まで普及することはなかった。

 

李氏朝鮮の堕落・・・朱子学教理の解釈をめぐる「四色(老少東西)党派」が「士禍党争」の内訌に終始し、厳格な階級差別と苛烈な民衆搾取を恣にした(Cf.『春香伝』*)。

 

*『春香伝』の一節「金の樽の中の美酒は千の民の血にして、玉のようなる盤の上の佳き肴は万の民の膏なり、燭台の蠟が落ちるとき、民の涙落ち、歌声の高き処に、民の怨みの声も亦高まる」

 →ちなみにこれは一進会の会歌にもなった。

 

 

 

 

○李朝の内憂外患年表

1498 「戊午士禍」・・・勲旧派による士林派の大弾圧

1504 「甲子士禍」・・・燕山君による大量粛清

1506 「中宗反正」・・・燕山君の降格

1519 「己卯士禍」・・・領議政・趙光祖が冤罪により賜死

1545 「乙已士禍」・・・小尹派による大尹派の大弾圧

1592 「壬辰倭乱」・・・秀吉による文禄の役

1597 「丁酉再乱」・・・秀吉による慶長の役

1623 「仁祖反正」・・・西人派により光海君追放、16代仁祖即位

1627 「丁卯胡乱」・・・3万の後金軍が朝鮮侵攻

1636 「丙子胡乱」・・・10万の清軍が朝鮮侵攻

1689 「己已士禍」・・・忠臣・宋時烈賜死、南人派による西人派の弾圧

1694 「甲戊獄事」・・・南人派追放、少人派政権掌握

1801 「辛酉邪獄」・・・キリスト(天主)教の大弾圧

 

○壬辰・丁酉倭乱で露顕した李朝の弊害

・豊臣の書状にある「征明仮道」の字句をめぐり通信使の正使で西人の黄允吉は豊臣による兵禍の危険を復命したが、副使であった東人の金誠一はこれを否定した。おりしも東人が強勢だったため、豊臣侵攻に対する防備は捨て置かれた。

 →日本軍は釜山上陸後わずか20日でソウル占領、60日で平壌占領

・壬辰倭乱の英雄である李舜臣は、彼に嫉妬した元均一族の誣告により左遷されたが、「白衣従軍」して戦況の劣勢を挽回した。

○清への臣従

1627、後金太宗ホンタイジによる朝鮮第一次侵攻(「丁卯胡乱」)

   →仁祖一行は江華島へ避難、後金と「兄弟」の盟約を結ぶ

163610万の清軍が朝鮮侵攻(「丙子胡乱」)

1637、仁祖自ら清太宗が設けた受降壇に赴き、胡服を着て九叩頭の拝礼によって服属を誓約した。

 

Ⅱ‐ⅰ:体制教学としての朱子学

儒者の李退渓(→嶺南学派)や李粟谷(→畿湖学派)等が代表格、14代宣祖登用される。

朱子学特有の「理気二元論」・「性即理」説から「華夷思想」・「事大主義」、特有の労働蔑視と階級差別などの観念が派生

朱子学によるウリの理論武装

 

Cf.朝鮮通信使をめぐる新井白石と雨森芳洲の論争

明に対し「日本国王」を自称した足利幕府の臣従的態度を是としない徳川将軍は「日本国大君」と自称したが、白石の見解では「大君」は朝鮮で「世子」以外の王子を指すため、将軍を天皇(皇帝)の任命する「国王」と呼称すべきだと主張、これに対し雨森は対馬外交の要路者として猛然反論、日本国として外交の主体は武将たる将軍よりは「神璽神鏡(仁と明)」を持し「誠信」を体現する天皇であり、同時に「国王」は国家の主権者を意味するが、日本の主権者は天皇であると主張した。同様の論点に関連して、雨森と同時代の李星湖(16831763)の提起した日朝の名分問題は示唆的である。(名越二荒之助編『日韓2000年の真実』参照)。

 

 

Ⅲ:戦後南北朝鮮の意図せざる共通点―「宗族利己主義」「事大主義」からの脱却の試みとその失敗(?)

宗族(同本同姓血族)‐門中(分派祖血族)‐堂内(四代祖血族)のみが〈ウリ〉(自己)でそれ以外の社会単位は〈ナム〉(他者)

 

韓国;「我々は李朝史を四色党争、事大主義、両班の安逸な無事主義的生活態度によって後代の子孫に悪影響を及ぼした民族的罪悪史であると考える。時に今日のわれわれの生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史の悪遺産そのものである。今日の若い世代は既成世代とともに先祖たちの足跡を怨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである。」(朴正熙)(『朴正熙選集、二-国家・民族・私』)

「彼ら(宗族の者)はにわかに(私が)大統領になるや、はじめの驚きと誇りが時がたち周囲の誘惑がつづいて揺らぎ始め、ついには色々な物議を醸すに至った。幼時に故郷を離れ、なにしろ大家族だったので、名前や顔さえ知らない多くの親戚たちのなかで問題をおこす人たちに「どうか自重してくれ」と何度もねんごろにお願いもし、取り締まりもした。・・・多くの身内の者たちが刑事訴追を受けるほどに不正を犯し、国民の皆様の怒りを買うようになったのは真に面目ないことだ。」(全斗煥)(『韓国日報』、古田上掲書より孫引)

 

北朝鮮;「六六、六七年頃から、金日成こそ人民のオボイ(親という意味の朝鮮語)であるという教化が始まる。」・・・「金日成は、自己の血族をもつ多くの人民にとって、本来ナム(他者)である自分を、果敢にもウリの中心であるオボイ(父母)に据え、1967年以来頑張ってきたのである。なぜか、それは国家と血族の二つの中心点を自分の一点に収斂し、ウリとナムの亀裂を埋め、大衆に国民としての一体感をもたらすためである。」(古田『朝鮮民族を読み解く』)

*ちなみに李氏朝鮮の本貫は「全州李氏」、金日成は「全州金氏」

⇒朴正熙の維新体制と金日成の領導体制(「団欒の大家族」)は共に、「忠孝一致」・「君父一義」の日本国体を模範とするもその企図は挫折の様相あり

 

 

今後に検証されるべき課題・論点

○満州北東部及び沿海州をカバーする高句麗の広汎な旧版図には、現在にいたるも沢山の朝鮮族が分布している。かつて日韓合邦を推進した李容九の一進会は、満州開拓を計画、すでに間島への移民入植に着手し、延いては日韓満蒙にわたるアジア連邦樹立を構想していた。20世紀初頭には、間島地方の朝鮮族は人口の八割を超えていたという。また内田良平の同志の末永節は「大高麗国」構想を掲げ、日韓合邦の現実を改善しようしていた(坪内隆彦『アジア英雄伝』「李容九」の章を参照)。これらの経緯をふまえ、現在の旧高句麗版図に居住する朝鮮人の民族意識や世論の動向を調査する必要がある。

○北朝鮮のルーツは李朝か、それとも高麗か。専制権力や階級差別の面を捉えて李朝になぞらえるか、それとも自主強盛や主体思想の面を捉えて高麗とみるかという問題である。無論簡単に割り切れる問題ではないが、主権の正当性や我が国の外交方針、さらには朝鮮統一の帰趨を左右する重要論点である。(CfY先生いわく、「現在の北朝鮮国民の金正日に対する感情は、畏くも226事件前夜の東北農民が先帝陛下に対して抱いていたそれと同列」か。)

○以上を換言すれば、金一族が支配する北朝鮮は、いわば「疑似天皇制国家」ということができるか。北朝鮮は、日本のような家族国家になることができるか。歴代の中国王朝は、朝鮮征伐が国家衰退の「躓きの石」となってきた。現在も中共は朝鮮開発の過大なリスクを警戒して、開発投資を抑制しているが、例外的に大日本帝国は、朝鮮開発に成功した稀有な事例とはいえないか。日本による朝鮮統治の功罪を検証する必要があるが、何れにしても戦後から現在にいたる南北朝鮮の経済構造が、日本時代の残影を反映していることは間違いない。それがいかに「漢江の奇跡」につながり、アジア通貨危機以来、いかに変容してきたかを検討する必要がある。

 

○朴正熙を調べる必要がある。

アジア冷戦下の東側内部は権力多極構造

朴大統領の維新革命は親日反米

→現実は慶尚道天下

南北朝鮮和戦の公算やいかに

 

 

 

 

参考文献

記紀

金両基『物語韓国史』

名越二荒之助編『日韓2000年の真実』

崔基鎬『韓国堕落の2000年史』

古田博司『朝鮮民族を読み解く』

島田虔次『朱子学と陽明学』

その他

 

 

 

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