『保建大記』の著者である栗山潜峰は元の名を長沢成信という。長沢氏の先祖は上野に発し、その後丹波に移ったとされるが、父の良節は淀の城主石川氏に仕えて儒を講じていた。潜峰14歳のとき京都に上って桑名松雲に弟子入りし、以後十年に亘って師事した。その際、潜峰と松雲を引き合わせたのは父良節と親しかった鵜飼錬斎とされる。錬斎は松雲とともに山崎闇斎の弟子であったから良節は錬斎の勧めによってその子を松雲に従学せしめたのである。かくして潜峰は松雲を通じて山崎闇斎に始まる崎門・垂加の学を修めることになった。
そんな折、京都には御西天皇の第八皇子である八條宮尚仁親王ましまし、幼くして学を好み英物を予感させた。当時14歳でこの尚仁親王と同年齢であった潜峰は、錬斎の推薦によって親王に近侍することになった。恐らくはご学友の意味を以っての近侍であったとされる。またこのとき、師の桑名松雲も親王の顧問に備わり、潜峰や雲松の存在を通じて闇斎門下の俊秀が親王の下に参集した。
かくして潜峰が18歳のときに、著述して尚仁親王に献じ奉った書が『保建大記』である。ときに元禄元年(1688年)のことであった。この『保建大記』は後年の改定による書名であり、元は『保平綱史』と題した。題名の「保建」は保元と建久であり、本書の内容は潜峰の厳格な史的考証と簡潔な筆致によって、大体保元から建久に至る三十八年の間における朝廷の衰微と武家の台頭の次第が記されている。大体といったのは、厳密には本書の記述が保元元年の前年である久寿二年に始まっているからである。この久寿二年は後白河天皇が御践祚遊ばされた年であり、本書の記述は建久三年、天皇の崩御を以って終わっているのである。
表題としては通常「保平」でも良さそうなものであるが、敢えて「保建」に改題したのは、潜峰が歴史の根本に道徳を仰ぎ見ており、当時に至る武家の専横が朝廷内部における道徳的堕落、なかんづく後白河天皇の失徳に多く起因することを重く見ているからであろう。かくの如くであるから、本書の内容は朝廷衰微の道徳的動因の解明に主眼が置かれ、国家禍乱の俑を作った暗君乱臣賊子には仮借ない筆誅が加えられている。よってこの直言不諱 の態度について、不遜不穏として憚る向きもありそうであるが、平泉澄先生は「第一に事実を直視して真相を把握しようとする学者の良心から出た事である上に、第二には諷諌をたてまつって帝徳を輔翼し奉らうとする忠誠の至情より発する所である事を知らなければならぬ」と述べておられる(「保建大記と神皇正統記」)。
崎門学によって君徳を涵養せられ前途を嘱望せられた尚仁親王であったが、潜峰が『保建大記』を捧呈した翌年の元禄二年、俄に薨去し給うた。御歳僅かに十九の若さであった。潜峰は京都柳馬場に隠遁して学問を続けたが、やがて元禄六年、二十三歳のときに、またしても前述した鵜飼錬斎の推薦によって水戸光圀に禄仕することを得た。元禄の十年には若干二十七歳にして水戸彰考館の総裁に就任している。かくして彼の余生は大日本史の編纂に捧げられたが、病を得て寛永三年四月七日長逝し、駒込の龍光寺に葬られた。享年三十六歳。
(崎門学研究会)