『保建大記』における神器論の問題

栗山潜鋒の『保建大記』を読了した。潜鋒は山崎闇斎の高弟である鵜飼錬斎と桑名松雲に師事し、第111代後西天皇の皇子である八條宮尚仁親王の学友として近侍した。潜鋒が親王に近侍したのは14歳の時であり、両者は同年齢であった。以来、潜鋒は、親王に錬斎、松雲から受け継いだ闇斎の学を伝え、彼が元禄元年、18歳のときに親王に献上した書が『保平反正録』である。その後、この書名に含まれる「反正」は反正天皇の諡号であるため、書名を『保平綱史』と改めた。何れにしても「保平」とあるのは保元平治の両兵乱のことである。

ところが、本書を献上した翌年、親王は俄かに早世し給い、潜鋒は悲歎に暮れたが、彼の卓越した学識を認めた水戸光圀は、『大日本史』編纂の史局である彰考館に彼を登用し、かくして潜鋒は光圀に仕えることになった。この水戸出仕中に、彼が先輩同僚との議論を経る中で前出の『保平綱史』に大幅な改訂を加えたのが『保建大記』である。今度の書名が「保平」ではなく「保建」となったのは、潜鋒が朝威失墜の根本原因を、保元平治の兵乱による武家の簒奪ではなく、むしろそれを出来した朝廷内部、なかんづく後白河天皇の失徳に求め、平治とこの天皇が崩御し給うた建久の年号を以って書名に冠したからである。

近藤先生によると、潜鋒が光圀に仕えた意義は重大である。というのも、『大日本史』は、光圀の意向によって、以下の三大特筆を有するとされる。すなわち第一に、神功皇后を帝紀より除いて后妃伝に入れること。第二に、大友皇子を帝紀に入れること、そして第三に南朝を正統とすることである。しかしその内第三の点は、今上天皇が北朝の御血筋であることから彰考館の内部でも反対意見が強かった。その際、潜鋒が水戸での出仕中に到達した独自の神器論は、『保建大記』のなかに盛り込まれ、光圀の素志を道義と史実の両面において論証したのである。

ここでいう潜鋒の神器論は「躬に三器を擁するを以て正と為すべし」というをその眼目としていた。これに対して、彼の同僚である三宅観瀾は『保建大記』に寄せた序文において「神器の存否を以てして、人臣の後背を卜する者とは、議竟に合はず」と記し、皇位にとって重要なのは神器ではなくて天皇の君徳であると反論したが、この考えは、同書の跋文を書いた安積澹泊といった彰考館の他の同僚についても同様であった。

近藤先生のいわく、「思うに土地といひ家屋といひ、その所有を主張するものが複数であって互ひに所有の権利を争ふ時には、その土地や家屋の権利書を所持してゐるものを正しい所有者と判断せざるを得ない。されば人はみな権利書を大事にして失はぬやう盗まれぬやう、だまし取られぬやう、その保管に心を用ひるのである。神器もその性格、ある意味では権利書に似てをり、皇統分立していづれが正しい天子であるか知りがたく、人々帰趨に苦しむ時は、神器を有してをられる御方を真天子としてこの御方に忠節を尽くさねばならない。いはんや神器は権利書と異なり、その由緒からいへば大神が天孫に皇位の御印として賜与せられし神宝であり、大神の神霊の宿らるるところとして歴代天皇が奉守継承して来られた宝器であり、極言すれば、天祖・神器・今上の三者は一体にして、神器を奉持せられるところ、そこに天祖がましますのである。」(近藤啓吾先生『続々山崎闇斎の研究』所収「三種神器説の展開―後継者栗山潜鋒」)

これは闇斎以来の正統な神器観であり、潜鋒はそれを忠実に継承していたに過ぎないが、こういうと反対論者は決まって、では神器を奪ったり盗んだりした者もまた天皇になるのかと疑義を呈する。例えば頼山陽は「読保建大記」と題する一文において「其の言に曰く、神璽・宝剣・内侍鏡の在る所を以て正統と為す、と。若し然らば、則ち仮に盗賊をして神璽・宝剣・内侍鏡を持たしめんか、盗賊もまた皇統と為すなり。是れ神璽・宝剣・内侍鏡は盗賊に資して我が皇の国を奪はしむる者、何ぞ貴重するに足らんやと。之れを棄つと雖も可なり。」とまで述べている(松本丘氏『尚仁親王と栗山潜鋒』勉誠」出版より孫引)。

また、これについて吉田松陰は、『講孟箚記』の巻末に付した「読保建大記」なる一文において「神器の在る所は必ず正統にして、正統の在る所は必ず神器あるなり。神器と正統と別に見るべからず」と述べ、上述した三宅氏他の異論を斥けつつも、崇徳が後白河から御璽を奪い取り、後鳥羽が安徳から御璽を奪い取り、光厳が後醍醐から御璽を奪い取ったならば、神器に付くべきか正統に付くべきかとの問いに対して、前に神器と正統が一体なのは、受禅、すなわち践祚の手続きが正当であることを言ったのであるから、奪い取ったのであれば、神器よりも正統に付くべきであると述べているのは、いかにも微温的だ。

しかし「もし夫れ我国の道義よりして考えるならば、臣子に不是底の君父なし。始めより力をもって神器を奪って天子となってもといふ仮定さへも考へるはずはなく、また史実に徴してもかくのごとき事実曽てなかったのである」と言うのは近藤先生の結論である。ここでいう「不是底の君父なし」とは山崎闇斎が韓退之の『拘幽操』に寄せた跋文に見える言葉であり、湯武放伐を絶対に否定する崎門学の根本思想である。

このように、皇位の正統性の根拠として三種の神器を重んじる潜鋒の考えは、神器を奉持した南朝を正統と断ずる光圀の素志を協力に支持し、その後の水戸学の方向性を決定付ける上で重要な意味を持った。

崎門学研究会

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