浅見絅斎先生と『靖献遺言』

○浅見絅斎先生について

浅見絅斎先生は、承應元年(西暦1652)、京都で医業を営む父、道斎の次男として生まれました。かねてより軍学や儒学の研鑽を積んでおりましたが、延寶四、五年、先生二十五、二十六歳の時に崎門学の開祖として高名であった山崎闇斎先生の門に入り、主として儒学、ことに朱子学の厳格な教理に開眼して自己を鍛錬いたしました。その結果、佐藤直方と三宅尚斎を併せた「崎門の三傑」の一人として闇斎先生の儒学における学派、すなわち崎門学派を継承するに至ります。

○『靖献遺言』

なかでも、その功績の最たるものは、『靖献遺言』の編纂です。本書は楚の屈平、漢の諸葛亮、晋の陶潜、唐の顔真卿、宋の文天祥および謝枋得、處士劉因、明の方孝孺の八人を取り上げ、国難に臨んで節義に殉じた忠臣たちの生涯を活き活きと描き出しております。またそうした忠臣たちの生涯を通じて絅斎先生が追及したテーマは「正統」と「中国」をめぐる問題、すなわち「君臣の分」と「内外の別」の大義を闡明して実践することであり、これによって先生は、道理に背き君父に謀反を働く乱臣賊子、中国を侵略する夷狄に対して敢然と抗し主君への臣節を貫いた彼ら忠臣たちの言行を永く後世の模範として高く評価したのでありました。なお、この『靖献遺言』について先生が詳細に解説した講義の筆記録は『靖献遺言講義』として今日に伝わっております。また現代の我々が『靖献遺言』を読むうえで最良の底本としては、近藤啓吾先生が書かれた『靖献遺言講義』(国書刊行会)の右に出るものはないでしょう。

○闇斎先生との関係

さて上述の通り、崎門学によって闇斎先生から朱子学を学んだ絅斎先生でしたが、やがて闇斎先生は神道に沈潜して垂加神道を唱えるようになり、これとあくまでも朱子学に重きを置く絅斎先生との間で師弟の葛藤が生まれます。そして両者の関係は次第に疎遠となり、ついには病床の闇斎先生を絅斎先生が見舞うことすら厭うほど悪化してしまいます。しかし、近藤啓吾先生が指摘されるように『靖献遺言』の着想と編纂は、師である闇斎先生の影響を強く受けたものであり、「絅斎は同書の編纂という実践を通じ、いまさらの如く師闇斎の学問の偉大さを知り、その精神に驚き、始めてその継承発揮をもってみずからの責務とする」に至ったのでありました(近藤啓吾著『靖献遺言講義』付載「浅見絅斎小伝」)

○著作と学統

また『靖献遺言』の他にも絅斎先生には、『忠孝類説』や『拘幽操附録』、『喪葬小記』など沢山の著作がありますが、ある時を境に執筆の手を緩め、先生を慕って参集した弟子の指導育成に力を入れるようになりました。その舞台になった「錦陌講堂」は絅斎先生が京都に開いた私塾であり、峻厳な学風で知られましたが、若林強斎を始めとする多くの優秀な門人を輩出しました。その後、絅斎先生は正徳元年(西暦1712)60歳にして亡くなりましたが、子息がなかったため血統は断絶、「錦陌講堂」は廃止されました。しかしそれによって一旦離散した門人たちの期待が集まった若林強斎は先生と同じ京都に敬慕する楠公(楠正成)の名に由来した私塾、「望楠軒」を開講し、闇斎、絅斎の両先生に連なる崎門の正統を継承いたします。余談ながら、絅斎先生には実子が無かったにもかかわらず養子を取らず、それは師の闇斎先生も同じでした。この背景には養子を不可とする崎門の家族的道義観がありました。けだし、「純理論より立脚すれば、子に二父あるべからざるは、臣に二君あるべからずと同一である。我が肉体の親を捨て、他人を親として之を敬愛するは、我の生まれたる本国を去って他国を崇拝すると同一である」(平泉澄先生編『闇斎先生と日本精神』所収、内田周平先生「崎門尊王論の発達」)という訳です。血統は絶えましたが、学統は続きました。

○後世への影響

上述したように、「君臣の分」と「内外の別」を重んじる崎門学の教義を我が国において純粋に実践した場合、当然に帰結されるのは皇室中心主義であります。したがって、崎門学はその成立の当初から、表では皇室を奉じながら裏ではこれを蔑ろにする幕府政治への根源的な批判を内在させておりました。絅斎先生が、「誓って関東の土を踏まず」といって終生御所のある京都を離れず、諸侯にも仕えずして清貧に甘んじたという逸話は先生の思想的面目を良く表わしております。とはいえ、楠公や新田義貞など我が国の忠臣をそのまま顕彰したのでは、幕府に弾圧されるのは目に見えています。そこでそうしたことも一因となって、先生は『靖献遺言』のなかで敢えてシナの忠臣八人の言行に仮託することによって、暗に簒臣である徳川の非道とそれに代わる尊皇の大義を読者に訴えたのでした。

こうした編纂の経緯に立つ『靖献遺言』は、その後、尊皇討幕の志士のバイブルとなり、崎門学は明治維新による王政復古の主要な思想的原動力になります。特に『靖献遺言』には、読む者をして感奮興起せしめる不思議な力があり、同じく崎門学徒の稲葉黙斎は「靖献遺言は士気の興奮剤である」とまで言っております。そこでこの『靖献遺言』に触発された志士の名を挙げれば枚挙に暇がありませんが、幕末に関して言えば、薩摩の有馬新七、長州の吉田松陰、若狭の梅田雲浜、越前の橋本佐内などを筆頭として無数におります。その我が国史上、影響の深甚なるを知るべしです。

 

 

 

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