『靖献遺言』を読む11方孝孺

 方孝孺、字は希直は浙江省の出身。幼少より聡明で読書に励み、文才に優れたことから「小韓子(韓退之)」と呼ばれた。明の太祖洪武帝に召されて南京に赴き、洪武25年には地方学校である漢中府の教授に任命された。その後、洪武帝が崩じ、早逝した太子標、すなわち懿文帝の子、允炆が即位して建文帝となると、孝孺は太祖の遺命により皇帝の侍講、さらには直文淵閣(宮中書庫の儒官)に任じられた。懿文帝の弟で太祖の第四子である(てい)は、燕王として北平(北京)におり、兼ねてより天下纂奪の野心を抱いていたところ、建文帝が諸王の勢力を削減しようとしていることを口実として反旗を翻し、兵を率いて南京に迫った。そこで孝孺は遺言として『絶命の詞』を賦し、建文帝にあくまで徹底抗戦を主張したが、ついに南京は陥落、棣は入城して帝位に就いた。これが太宗永楽帝である。棣は孝孺の声望を惜しみ、皇帝即位の詔書を彼に書かせようとしたが、むしろ孝孺は帝の不義理を難詰し、筆を投げてこの要請を拒否した。これに激怒した棣は、孝孺の一族はおろか朋友門人まで悉く皆殺しにした上、城外で磔にした孝孺の口の両側を七日間切り裂いて殺した。享年46歳であった。

 絅斎が方孝孺の遺言とした『絶命の詞』を掲げる。

 

天、乱離を降し、孰かその由を知らん。姦臣計を得、国を謀り猶を用ふ。忠臣憤を発し、血涙こもごも流る。死を以て君に殉ふ、そもそも又何をか求めん。ああ哀しいかな、庶はくは我を尤(とが)めざらん。

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