チベットの歴史3

 上述した民俗学的チベットと政治的チベットの違いはチベット問題において代表権をめぐる争いの一因となっている。例えば、チベット政府はその主要な政治的目標の一つとして、現在シナに支配された全てのチベット地域を一つの「大チベット」として再統合することを掲げているため、彼らがいう「チベット」とは通常、民俗学的チベットと政治的チベットの両方で起こる出来事を代表する言葉として用いられ、そこではあたかも「大チベット」が最近まで実在していたかのような外観が呈されている。そのため、政治的チベットが侵略されたのは195010月であるが、チベット亡命政府はチベットが侵略されたのは1949年、すなわちシナ軍が青海、四川、甘粛の諸省における民俗学的チベットを強制的に「解放」した年であると主張しているのである。同様の問題はシナ側にも言える。というのもシナ政府は、1930年代と40年代にチベットがシナの一部であったという印象を醸し出すために、シナ政府の会合に参加したチベット代表団が実際には民俗学的チベットからの使節であったにもかかわらず、あたかもそれがラサから送られたかのように仄めかしているのである。こうした混同を避けるため、本論では「チベット」の語を別段の断りがない限り「政治的チベット」を指して使うこととする。

 近代チベットのような論争的なテーマを本にするのは困難である。何故ならば、カギとなる情報の多くは匿名を希望する個人によってもたらされるからである。それでも、本論で使用されたソースを以下に公示しておこう。

 重要なソースの一つはシナのメディア、外国報道情報サービス(FBIS)に含まれたシナ国内における報道の翻訳である。もう一つのソースは、亡命チベット人(あるいはその支援者)によって提供されたもの、例えば国際的なチベット人の運動を報じるTibet Press WatchWorld Tibet Newsなどから成る。ロンドンに拠点を置くチベット情報サービスによって発行されたレポートや文書は、役に立つデータや分析のさらなるソースを提供してくれた。

 これらに加えて、私自身のシナにおけるフィールドワークが重要なデータベースとなっている。過去十二年以上にわたり、私はチベットで、彼らの言語や遊牧民、寺院や近代史、そして地方の開発状況などを含む多種多様なトピックについて研究してきた。特に、満二年以上もの間、そこで生活している。こうした調査滞在によって、都会と地方の生活を直接的に観察することができ、さらに私はチベット語の読み書きが出来るため、ガイドや通訳の必要なく容易にチベット人たちの生活全般のなかに溶け込むことができた。多くのチベット人が丁重にも、彼らの考えや意見を私と共有してくれ。彼らの名前は本論では出てこないが、私はここで彼らに感謝の意を表したい。同様に、私は諸般の重要な問題や出来事について語り合ったシナや西欧諸国における多くの官僚、学者、そして亡命チベット人社会の人たちに負うところ非常に大きなものがある。残念ながら、彼らの名前を出すことは出来ない。しかし上述した人たちの助力にもかかわらず、最終的に本論で提示された見方に対する責任は一重に私に帰するものである。

 

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