チベットの歴史2

 本論の目的はこうした理解の障碍を取り除くことにある。以下のページでは各主体の戦略に焦点を当てたリアルポリティークの分析手法を用いることでチベット問題を公平な立場で解剖していく。

 また本論では文化の盛衰や人口移動については議論するが、囚人の虐待や平和的な政治デモをしていた僧侶の逮捕といったチベットの人権侵害については特筆しない。無論、これらの人権侵害は存在するし絶望的ですらあるが、それらはチベット問題の本質的要因ではない。チベット問題は中華人民共和国が出来るずっと前から存在したし、西欧社会が普遍的な人権について関心を抱くよりも前に淵源するのである。実際、仮にチベットに人権侵害など存在せず、チベット人が例えば政治的な抵抗を平和的に実践できたとしても、チベット問題は今日のそれと同じ位論争的なテーマになっていたであろう。チベット問題は領土の支配をめぐる問題、すなわち誰がチベットを支配し、誰がそこで生活をし、誰がその帰趨を決せられるのかという問題である。

 さらに我々は「チベット」の意味するところも明確にしておくべきだろう。人類学的な意味では、チベット人は西欧世界と同じ位広大な領域に分布している。彼らはシナのみならずインド(ラダック、シッキム、北部ウッタル・プラデーシュ、そしてアルナチャル・プラデーシュ)、ネパール、そしてブータンでの生息が確認されている。シナ内部に関する1990年の人口統計によれば、チベット自治区(TAR)46%、青海、甘粛、四川、雲南のシナ西部諸省に54%の割合で分布するチベット人が460万人存在すると報告されている。前者の地域は通常「政治的チベット」と呼ばれ、近代においてダライ・ラマが統治した政治的範囲と一致するのに対し、後者は「民俗学的チベット」と呼ばれ、伝統的に様々なチベットの藩侯国が支配した国境地帯に相当する。英国の外交官であり1930年代と40年代に英領インド政府の官僚としてラサに出向したフー・リチャードソン(Hugh Richardson)は両者の区別を以下のように説明している。

 「政治的チベット」において、チベット政府は往古の昔から1951年まで一貫してこの地を統治した。この領域を超える北と東に延びたアムドとカムの地方、すなわち「民俗学的チベット」は、かつてチベット人が排他的に居住しており、現在も住民の大半はチベット人である。この広大な領域において、「政治的チベット」の政府はある一定の場所かランダムに分散する飛び地に対してしかその主権を行使し得なかった。そして大概の場合、地方の世俗的ないしは宗教的な指導者もそれぞれの地域に所在する異なる政府の命令に服したのであった。18世紀以降、「民俗学的チベット」は、散発的なシナ人の侵入に見舞われるようになった。

 

 

カテゴリー: インド・チベット パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です