チベットの歴史6 チベットとモンゴル2/2

 ゴダンの後を継いだのはモンゴルの最も偉大な支配者とされるフビライ・ハーンである。1260年、フビライは全モンゴルのハーンたちの上に君臨すると1279年にはシナの征服に乗り出し、元朝を創始した。そんななか、サキャ・パンディッタの後を継いだ甥のパグパ(Phagpa)は卓絶したハーンであるフビライとの間で特権的な関係を築いた。フビライは総じて仏教、なかでもサキャ派の偉大な守護者となり、パグパを自分の家庭教師、そしてチベットの権威ある支配者に任じた。もっともフビライとパグパの関係は複雑である。というのも、「司祭と守護者」における関係の概念では、パグパは単に征服された王者をはるかに凌ぐ存在であったのだ。チベットとモンゴルの両方の歴史書に記録されたフビライとパグパの驚くべき葛藤は、チベットのラマがモンゴル人たちの間に占めていた偉大なる地位を物語っている。フビライがパグパに家庭教師を依頼したとき、パグパはこれを承知したが、その代わりフビライに対して優れた宗教的地位を保障するように訴えた。当初フビライはこれを断ったが、最後は受諾し、彼がパグパの個人的な指導を受ける時には、たとえそれ以外のすべての場面でラマの上座に位するとしても、ラマの下座に甘んじることを認めたのである。

 現在のシナの学者や官僚は、この時期にチベットが初めてシナの一部になったと考えている。これと対照的にナショナリスティックなチベット人たちが認めるのは、チベットが服従したのはシナを征服し併合したモンゴル帝国なのであって、シナではないということである。

 サキャ派はチベットをざっと一世紀は支配したが、1358年、一地方長官によって王位を追われた。元朝は静かに事態の転回を見守るほかないくらいに衰退しており、実際、それからちょうど十年後に元朝は滅亡し、明朝として知られる漢人王朝に取って代わられた。チベットとシナの関係は明朝の間(1368~1644)も継続したが、前任者である元朝と異なり、明朝はチベットに行政的な権力を行使することは全くなかった。明の皇帝から多くの称号がチベット人の指導者に授与されたが、モンゴルのようにそれに権威まで与えることはなかった。つまり既成のチベット人権力者に称号を与えることによって、明皇帝はただ政治的な現状を追認したに過ぎなかったのだ。

そして17世紀になり、チベットとシナでは二つの新しい政治勢力が台頭することとなる。

 

 

 パグパ(Phagpa)

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