渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む1 太平洋への目覚め

アメリカ第11代大統領のジェームス・ポークは、自由と民主主義の旗手たるアメリカの「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」を信奉する人物であり、当時共和国であったテキサスと英米共同統治下にあった北米西海岸のオレゴン・テリトリー、メキシコ領カリフォルニアの併合を画策していた。その結果、テキサスはポークが大統領に就任した1845年、オレゴン・テリトリーは翌1846年に併合されている(オレゴン協定)。もともとテキサスはメキシコの一部であったが、アメリカはこれを1836年に独立させ、住民意思の名の下に合衆国に編入したのだった。後に「テキサス型解決策」と呼ばれるこのやり方はアメリカの得意とする戦略で、カリフォルニアやハワイの併合にも用いられた。アメリカがメキシコに入植したアメリカ人の反乱を軍事援助する形で独立したカリフォルニアが、これまたアメリカの一方的な侵略による米墨戦争の結果、併合されたのは1848年、それは奇しくもカリフォルニアのサクラメントで金鉱が発見された年のことであった。

さてカリフォルニアでの金鉱発見はゴールドラッシュをもたらしたが、それは金鉱ビジネスのみならずそれに付随する産業も盛んにした。その一つが東部労働者の人口移動や通信を担う郵船事業である。なかでも、のちに海運王と称されるアスピンウォールが創立したパシフィック・メール蒸気船会社は、政府の認可を得てパナマ‐カリフォルニア間の航行権を独占し財を成した。かくして顕著な発展を遂げたカリフォルニアの中心地サンフランシスコには、その後の日米関係を予示する出来事として1860年に将軍使節を乗せた咸臨丸が来航、一行は全米で熱烈な歓迎を受けている。やがて大陸横断鉄道の開通に伴い、パナマ‐カリフォルニア間航路が下火になったことでパシフィック・メール社は次なる活路をシナとカリフォルニアを結ぶ太平洋航路に見出していくのであるが、その前に莫大な犠牲を強いた南北戦争に触れねばならない。

 

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