「私はなぜガンディーを殺したのか」6

マウントバッテン卿は国民会議のなかではインドがこれまでに戴いた最も偉大な総督として描かれるようになった。統治権の移行は1948630日と公式に決定されたが、マウントバッテンの非情な手術の結果、その十か月も前にインドは分断されたのであった。これが三十年に渡るガンディーの静かなる独裁政治によって得た成果なのであって、国民会議が「自由」や「権力の平和的な移行」と呼ぶものなのである。ヒンディーとムスリムの協調は最終的に水泡に帰し、ネルーとその取り巻きの合意のもとに民主的な政府が樹立された。彼らは「自由は犠牲によって獲得された」というが、はたしてそれは誰の犠牲だろうか。国民会議の指導者たちがガンディーの合意のもとに、我々にとって崇拝の対象である祖国を分断し引き裂いたとき、私の心は猛烈な怒りに支配された。

ガンディーが死に至る断食を止める条件としてヒンディーに突き付けた条件は、ヒンディーの難民に占拠されたデリーのモスクに関するものであった。しかしパキスタンのヒンドゥー教徒がムスリムの暴力にされたとき、彼はパキスタン政府やムスリムに対して一言も抗議や非難の言葉を発することはなかった。ガンディーはとても聡明だったので、たとえ彼がパキスタンのムスリムに断食をやめる幾つかの条件を課し、断食の結果彼が死に至ったとしても、彼に哀悼を捧げるムスリムなど殆どいないことを知っていたのである。彼がムスリムに敢えて何らの条件をも課さなかったのはそのためである。ガンディーはその経験から、ジンナーが彼の断食を何ら意に介することなどなく、ムスリム連盟はガンディーの内なる声に殆ど何の価値も見出していないことに気付いていた。そのガンディーがインドでは「建国の父」と見なされている。

しかし以上が事実ならば、彼は祖国の分離に同意し重大な背信行為を働いたという意味において、インドの父としての義務を破ったことになる。

 

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