チベットの歴史14 清朝のチベット制圧1

シナの皇帝はラサに使節を派遣しハーンを清の保護下にあるチベットの支配者として承認した。またハーンはその支援の見返りに清に対して定期的な朝貢をすることを認めた。かくしてラブサン・ハーンは彼自身と彼が支配するチベットを清朝に対して従属的な地位に置いたのであった。同様にラブサン・ハーンはツァヤン・ギャッツォが本当のダライ・ラマ六世ではないと公式に通知し清国皇帝の同意のもとに彼を北京に追放した上で、適当な年齢の僧侶を本来、ダライ・ラマ六世となるべきだった人物であるとして挿げ替えた。ラブサンのチベットに対する軍事的な支配権は彼の意思を押し通させたが、依然としてツァヤン・ギャッツォが本当のダライ・ラマ六世だと考えている僧侶や民衆の怒りを買った。

北京への護送中、ツァヤン・ギャッツォは死の前に詠んだ美しい詩に

 

白鳥よ、そなたの美しい翼を貸しておくれよ

私はリタンより先へは行かない。そしてそこから甦るだろう。

 

と詠んだことから、チベットでは(カムの)リタンにいる人間に彼が転生したという噂がたちまち広がった。

こうしたラサの状況に対する不満が高まるにつれ、ラサ近郊にある三つの主要なゲルク派寺院は、自派の信者であるモンゴル族に支援に依頼し、ラブサン・ハーンと偽のダライラマを追放してリタンにいる少年をダライ・ラマ六世として迎え入れようとした。

 1717年、七千ものジュンガル騎馬兵はチベットに侵入し、多くのチベット僧侶や民衆の援助を受けてラブサン・ハーンを瞬く間に撃破、ハーンは戦死した。これによってジュンガルはチベットの新しい摂政を任命し、ラブサン・ハーンが擁立した偽のダライ・ラマを廃位、それまでハーンの密接な支援者であったチベット人貴族やラマたちを逮捕・処刑して自らチベットの新しい支配者になった。しかししだいに、ジュンガルは略奪や赤帽派僧侶の処刑によってチベット人たちを疎外するようになった。さらに致命的なのは、彼らがチベット人への約束にもかかわらず、ダライ・ラマ六世をアムドからチベットに遷座するのに失敗したことであった。というのも清国皇帝とその同盟国は、ダライ・ラマの政治的重要性を理解し、ジュンガルの先手を打ってリタンの少年をその監察下に置いていたのである。かくしてジュンガルの勢力に対する反発はラサで急速に高まった。

 そんな折、二人の有力なチベット人貴族であるポルハナスとカングチェナスはジュンガルに対抗するため、チベットの西部と南西部で軍隊を組織し始めた。そして清国皇帝の康熙帝はラブサン・ハーンが死の前に彼に宛てた救援を懇願する手紙に応える形で遠征軍を派遣した。この遠征軍はジュンガル軍に敗退し北京の廷臣たちの殆どはさらなる援軍の増派に反対したが、康熙帝はチベットがシナ西部の重要な緩衝地帯になると考え、またジュンガルという敵の統制下に留めておくのを好ましく思わなかった。その結果、皇帝は若きダライ・ラマ七世を同伴した大部隊による第二次チベット遠征を命じた。清軍がアムドとカムからチベットに侵入すると、ポルハナスとカングチェナスはその動きに応じてチベット南西からラサに進軍した。そして今回はジュンガルが敗退し、172010月、清国軍は新しいダライ・ラマ七世を擁してラサに入城したのであった。つまり清国軍はいまやラサとチベットを制圧したのである。

 

廃位されたダライ・ラマ六世

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