「私はなぜガンディーを殺したのか」7(終)

 ガンディーはまさにパキスタン建国の父たることを証明した。彼のカリスマ性や非暴力の原則は、ジンナーの鉄の意志の前にことごとく粉砕され、無力であることが証明された。端的に私の身を顧みれば、もしガンディーを殺せば、私は完全に破滅し人々から期待しうるのは嫌悪以外のなにものでもなく、命よりも大切な私の名誉が地に落ちることは予見していた。しかし同時に私はガンディーなきあとのインド政治は軍事力によって間違いなくより現実的で報復可能になるだろうと思っていた。間違いなく私の将来は絶たれるが国民はパキスタンによる浸食から救われるのだ。また人々は私を称して感情喪失者や愚か者とすら呼ぶだろう。しかしそれによって国民は、堅実な国家建設にとって私が必要であると考える道のりを歩むことが出来るのだ。
 私は熟考沈思した後、最終的な結論を下したが、そのことについて何も他言しなかった。そして私は両手に勇気を握りしめ、1948年1月30日、ビルラ・ハウスの礼拝所においてガンディーを射殺した。私が強調したいのは、私が射殺したのは、何百万ものヒンドゥーに破壊と破滅をもたらした政策や行動の担い手だという事である。そうした破壊者に審判を下す法的な機関は存在なかったので、私が致命的な一撃を加えたということだ。私は誰にも個人的な悪意を持っているのではないが、一方的にムスリムに同情的な政策を採った現在の政府を軽蔑していた。同時に私がはっきりといえることは、そうした政府の政策は全く以てガンディーの仕業だということである。
 さらに私が苦言を呈せざるを得ないのは、ネルー首相が世俗国家たるインドについて語るとき、時宜を得るか得ざるかによって主張や行動がころころ変わることである。というのも、彼は神政国家たるパキスタンの建国に自分が主導的な役割を果たしたとことが知れたら大事だからである。そしてそうしたネルーの役割はガンディーのムスリムに対する一貫した宥和政策によって後押しされた。いまや私は法廷に立ち、自分が犯したことに対する全責任を受け入れるつもりでいるし、無論、裁判官は適当と思しき判決を私に下すだろう。しかし私は誰からも慈悲をかけられたくないし、私に代わって誰にも慈悲を請うてほしくはないということを付言したい。あらゆる周りからの批判を以てしても私の行動に対する道義的確信は微動だにしないし、公正な歴史家なら私の行動を評価して将来いつかその本当の価値を見出してくれることだろう。
 

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