ガンディーが殺されたことは誰でも知っているが、彼を殺した人物について知る人は少ない。ガンディーを殺した男の名はナトゥラム・ゴドセ(Nathuram Godse)。彼は1910年マハラシュトラのブラフマン(バラモン)の家系に生まれた。プネの学校で英語を学ぶが途中退学してヒンドゥー主義の政治運動に身を投じる。その活動の舞台は、ヒンドゥー主義の代表的なイデオローグとして知られるサーヴァルカル(Vinayak Damodar Savarkar)の思想的影響を受けた政党のヒンドゥー・マハーサブハ(Hindu Mahasabha)や、同じくヒンドゥー主義の団体であるRSS(Rashtriya Swayamsevak Sangh)であった。皮肉なことに学生時代のゴドセはガンディーを崇拝していた。しかし政治運動に参加する中で、彼はガンディーや国民会議が唱える非暴力主義や世俗主義の原則が、ムスリムへの宥和妥協的な態度につながり、結果として彼らの分離主義を容認したことに憤りを抱くようになった。これがゴドセによるガンディー暗殺の動機である。暗殺は1948年の1月30日、裁判で死刑を宣告されたゴドセが処刑されたのは翌49年の11月15日であった。
聖人であるガンディーを殺したゴドセは悪魔のように喧伝されるが、上述したようにヒンドゥー主義の立場からすれば、ゴドセの行動も決して理解できなくはない。特に裁判におけるゴドセの陳述は相当雄弁で説得力があったらしく、後年裁判官の一人は、「もし当時の民衆が陪審団を構成していたのなら、彼は圧倒的多数の評決によって無罪を宣告されていたとしてもおかしくはない」と書き残している。
興味深いことに、いまでもゴドセの裁判における供述記録は誰でもインターネットで読むことが出来るが、残念ながら英語の原文の邦訳は見当たらない。そこで以下にその供述記録「私はなぜガンディーを殺したか?」を訳出する。この記録が重要なのは、現在にいたるインドの宗派対立の禍根がすべてこの供述のなかに胚胎しているように思えるからだ。
「私はなぜガンディーを殺したのか」
敬虔なバラモンの家系に生まれた私は、本能的にヒンドゥー教やヒンドゥーの歴史、そして文化を崇敬するようになった。したがって私はヒンドゥー主義全体に熱烈な矜持を抱いた。そして私は大きくなるにつれ、政治的、宗教的かを問わずいかなる教義への迷信的忠誠にも囚われることのない自由な思考への傾向を発達させたのである。かくして私は単なる出自だけに依拠した不可触賤民やカースト・システムを根絶するための活動を積極的に行った。私はRSSで反カーストの運動に参加し、全てのヒンドゥーは社会的、宗教的権利について平等であり、人間の価値の上下はある特定のカーストや家業のもとに生まれ落ちたという出生の偶然によるのではなく、彼の個人的な資質によって考慮されるべきである。
私は数千のヒンドゥーや、バラモン、クシャトリやヴァイシャ、そしてチャマール(アウト・カーストの一種)が参加する反カーストのために企画された夕食会にも堂々とよく参加した。我々はカーストのルールを破壊し共に否定しあった。さらに私は、ラヴァナ(ラーマーヤナの主人公ラーマの敵)やチャナキヤ(マウリヤ朝の戦略家)、ダダブハイ・ナオロジ(社会運動家)、ヴィヴぇカーナンダ(思想家)、ゴクハル(反英独立運動の指導者)、ティラク(インドの独立運動家)といった人々の演説や筆記、さらには古代から近代にいたるインドの歴史や英仏米ロなどの主要国について書かれた本を読んだ。社会主義やマルクス主義の学説も学んでいる。しかしそれらのなかでもとりわけサーヴァルカルやガンディーが書いたり話したりしたものは親しく勉強した。私の見方によれば、彼ら二人の思想は過去三十年間、他のいかなる要素に増してインド人の思想形成に貢献があった。
上述した私の読書や思考の全てによって、私は愛国者でありまた世界市民としてヒンドゥー主義とヒンドゥー国家としてのインドに奉仕することが私の最初の義務だと信じるようになった。三億人ものヒンドゥー教徒の自由や彼らの正当な利益を確保することは、自動的に世界人口の五分の一を占めるインドの自由や福祉を成り立たせることになるだろうと思ったのだ。こうした考えは、自然と私をヒンドゥー・サンガタニストのイデオロギーとその実践へと導いた。私はそのイデオロギーと実践のみがヒンドゥー国家、そして我が母なる祖国であるインドが独立を勝ち取り、またインドが人類に対して本当の貢献を成しうるのだと信じるようになった。
ロカマニャ・ティラクが死んだ1920年以降、ガンディーの国民会議における影響力はますます高まるまり終には至高のものになった。民衆を覚醒させる彼の運動は強烈な印象を与え、正義や非暴力を掲げた誇大な行進のスローガンによって一層強められた。繊細で知識に明るい人たちは誰もこのスローガンに反対できなかった。しかしそうしたスローガンには斬新でオリジナルなものは含まれていなかった。それらはどんな社会運動でも掲げられたスローガンだったのである。だから多くの人々が日常の生活の中でそんな浮ついた原則の熱心な支持者になりえようなどと想像するのは、夢想以外のなにものでもなかった。
実際に名誉や義務、自分の家族や友人、国家に対する愛情はしばしば我々をして非暴力を無視して暴力を行使するように強いるかもしれない。私は攻撃に対する武力抵抗が不正であるなどとは決して思わない。我々は抵抗し、もし可能ならばそんな敵は力で圧倒してしまうことが宗教的ないしは道徳的な義務であるとすら思う。(ラーマーヤナの世界では)ラーマはラヴァナを目まぐるしい戦闘の中で殺害しシータを救出した。(マハーバーラタの世界では)クリシュナは邪悪なカンサを殺し、アルジュナは、敵に味方したという理由で尊敬するビッシュワナを含む多くの友人や親戚を闘争の上殺さねばならなかった。ラーマやクリシュナやアルジュナを暴力を使ったとして罪人呼ばわりすることで、ガンディーは人間の行為の源泉を全く無視したのである。
さらに最近の歴史では、チャトラパティー・シヴァジがムスリムの暴君を最初に牽制し最終的に撃破したのは英雄的な戦いであった。シヴァジが攻撃的なアフザル・ハーンを力で圧倒し殺すことは極めて重要であったのであり、もしそれに失敗していたら彼は命を落としていただろう。シヴァジやラナ・プラタープ、ゴービンド・シン導師等、インドの偉大な戦士たちを偏屈な愛国主義者として非難することによって、ガンジーは単に自己欺瞞を暴露していたにすぎないのである。逆説的に見えるかもしれないが、ガンディーは真実と非暴力の名のもとに名状しがたい災難をインドにもたらした暴力的な平和主義者である。そしてそれはラナ・プラタープやシヴァジ、シン導師がインドに自由をもたらした英雄として国民の心のなかで永遠に輝くのとは対照的である。
三十二年間蓄積された挑発の結果、ガンジーは先におけるムスリムに同情的な断食に至ったが、それは私に彼という存在に対して速やかに終止符を打たねばならないという最終的結論を抱かせた。ガンディーは南アフリカのインド人コミュニティーのなかで彼らの権利と福利を向上させたという点ではとてもよい働きをした。しかし最終的にかれがインドに帰国すると、何が正しくて何が間違っているかについて最終的な審判を下すのは彼だけであるかのような主観的考えを抱くようになった。もしもインドが彼の指導を仰ぐなら、インド人はガンディーの無謬性を受け入れねばならなかった。しかしもしそうでないならば、彼は国民会議と一線を画し、独自の道を歩んでいただろう。
どちらの道を採るにせよ、両者の折衷的な道はありえない。つまり、国民会議が自らの意思をガンジーに屈服させ、彼の情緒や気紛れ、哲学や世界観に対して常に後塵を拝さねばならないのか、それとも彼なしでやっていくかである。
彼のみが人々や物事の審判者であり、不服従の市民運動を指導する首脳であったのであり、他の誰もそうした運動の方法を知る者はなかった。彼だけがいつその運動を始め、また手を引くか知っていた。運動が成功するか失敗するかは不明で、仮に失敗すれば思わぬ災難や政治的反動をもたらす可能性もあったが、それもガンディーの無謬性も前にはどうでもいいことだった。「サティヤーグラハは絶対に失敗しない」というのは、彼が自らの無謬性を宣言した公式であり、彼以外の誰もサティヤーグラハが何なのか分かっていなかった。こうした幼稚な狂気や頑迷固陋と組み合わさったガンディーの極めて質素な生活、たゆみない労働と爛漫な人格が、彼をして凄みのある抗いがたい人物にならしめたのである。
多くの人々はガンジーの政治が非合理的だと思ったが、彼らには国民会議から手を引くか、自分たちの知性をガンディーの足下に投げ出して彼の好きなようにさせるかしかなかった。そんな極めて無責任な立場をいいことに、彼は挫折に次ぐ挫折、失敗に次ぐ失敗、そして災難に次ぐ災難を犯した罪を負っているのである。ガンディーの親ムスリム的な政策が如実に現れたのは、彼のインドの公用語に対する屈折した態度においてである。ヒンディー語がインドの第一公用語として認定されるべき資格を持つのは極めて明らかである。ガンディーはその経歴の当初においてはヒンディー語に大きく肩入れしたが、やがてムスリムがそれを嫌がることが分かると、今度はいわゆるヒンドゥスターニーの最大の支持者になった。しかしインド人なら誰でも、ヒンドゥスターニーなる言語など存在しないことを知っている。それは文法も語彙も持たない単なる方言に過ぎないのであって、話し言葉ではあっても書き言葉ではない。それは唾棄すべきヒンドゥーとウルドゥー語の混血なのであり、ガンディーの詭弁を以てしてすら広めることは出来なかったのである。ところがムスリムの歓心を買おうとするあまり、ガンディーはヒンドゥスターニーのみがインドの公用語になるべきだと主張したのである。無論、彼の盲目的な追従者たちはこれを支持し、いわゆる混淆の言語が使用され始めたのである。その結果、可憐で純粋なヒンドゥー語は、ムスリムを喜ばせるための売春婦として差し出された。このようにガンディーによる全ての試みは、ヒンドゥーの犠牲の上に成り立つものだったのである。
1946年8月以降、ムスリム連盟の私設軍隊がヒンドゥー教徒の殺戮を始めた。時のインド総督であったウェーベル卿はこの出来事に心を痛ませたけれども、1935年制定のインド統治法を発動してレイプや殺人、放火を防止するために権力を行使しようとはしなかった。こうした流血の事態は、ヒンドゥー側の報復も含めながらベンガルからカラチまで波及していった。同年9月に樹立された暫定政権は、その発足の当初から政府の一翼を担うムスリム連盟がサボタージュしたため停滞した。しかしムスリム連盟が、政府に対して反逆的になればなるほど、ガンディーの彼らに対する愛着はますます大きくなるのであった。ウェーベル卿は事態を解決することができなかったため総督を辞任し、その地位はマウントバッテン卿に引き継がれた。また国王はログからストークによって継承された。国民会議はインド人のナショナリズムと社会主義を掻き立てたが、秘かにその一方ではまさに銃剣を突き付けられた形でパキスタンの建国を受諾しジンナーに屈服した。この結果、1947年8月15日、インドは分裂し領土の三分の一を外国に取られたのである。
マウントバッテン卿は国民会議のなかではインドがこれまでに戴いた最も偉大な総督として描かれるようになった。統治権の移行は1948年6月30日と公式に決定されたが、マウントバッテンの非情な手術の結果、その十か月も前にインドは分断されたのであった。これが三十年に渡るガンディーの静かなる独裁政治によって得た成果なのであって、国民会議が「自由」や「権力の平和的な移行」と呼ぶものなのである。ヒンディーとムスリムの協調は最終的に水泡に帰し、ネルーとその取り巻きの合意のもとに民主的な政府が樹立された。彼らは「自由は犠牲によって獲得された」というが、はたしてそれは誰の犠牲だろうか。国民会議の指導者たちがガンディーの合意のもとに、我々にとって崇拝の対象である祖国を分断し引き裂いたとき、私の心は猛烈な怒りに支配された。
ガンディーが死に至る断食を止める条件としてヒンディーに突き付けた条件は、ヒンディーの難民に占拠されたデリーのモスクに関するものであった。しかしパキスタンのヒンドゥー教徒がムスリムの暴力にされたとき、彼はパキスタン政府やムスリムに対して一言も抗議や非難の言葉を発することはなかった。ガンディーはとても聡明だったので、たとえ彼がパキスタンのムスリムに断食をやめる幾つかの条件を課し、断食の結果彼が死に至ったとしても、彼に哀悼を捧げるムスリムなど殆どいないことを知っていたのである。彼がムスリムに敢えて何らの条件をも課さなかったのはそのためである。ガンディーはその経験から、ジンナーが彼の断食を何ら意に介することなどなく、ムスリム連盟はガンディーの内なる声に殆ど何の価値も見出していないことに気付いていた。そのガンディーがインドでは「建国の父」と見なされている。
しかし以上が事実ならば、彼は祖国の分離に同意し重大な背信行為を働いたという意味において、インドの父としての義務を破ったことになる。
ガンディーはまさにパキスタン建国の父たることを証明した。彼のカリスマ性や非暴力の原則は、ジンナーの鉄の意志の前にことごとく粉砕され、無力であることが証明された。端的に私の身を顧みれば、もしガンディーを殺せば、私は完全に破滅し人々から期待しうるのは嫌悪以外のなにものでもなく、命よりも大切な私の名誉が地に落ちることは予見していた。しかし同時に私はガンディーなきあとのインド政治は軍事力によって間違いなくより現実的で報復可能になるだろうと思っていた。間違いなく私の将来は絶たれるが国民はパキスタンによる浸食から救われるのだ。また人々は私を称して感情喪失者や愚か者とすら呼ぶだろう。しかしそれによって国民は、堅実な国家建設にとって私が必要であると考える道のりを歩むことが出来るのだ。
私は熟考沈思した後、最終的な結論を下したが、そのことについて何も他言しなかった。そして私は両手に勇気を握りしめ、1948年1月30日、ビルラ・ハウスの礼拝所においてガンディーを射殺した。私が強調したいのは、私が射殺したのは、何百万ものヒンドゥーに破壊と破滅をもたらした政策や行動の担い手だという事である。そうした破壊者に審判を下す法的な機関は存在なかったので、私が致命的な一撃を加えたということだ。私は誰にも個人的な悪意を持っているのではないが、一方的にムスリムに同情的な政策を採った現在の政府を軽蔑していた。同時に私がはっきりといえることは、そうした政府の政策は全く以てガンディーの仕業だということである。
また私が苦言を呈せざるを得ないのは、ネルー首相が世俗国家たるインドについて語るとき、時宜を得るか得ざるかによって主張や行動がころころ変わることである。というのも、彼は神政国家たるパキスタンの建国に自分が主導的な役割を果たしたとことが知れたら大事だからである。そしてそうしたネルーの役割はガンディーのムスリムに対する一貫した宥和政策によって後押しされた。いまや私は法廷に立ち、自分が犯したことに対する全責任を受け入れるつもりでいるし、無論、裁判官は適当と思しき判決を私に下すだろう。しかし私は誰からも慈悲をかけられたくないし、私に代わって誰にも慈悲を請うてほしくはないということを付言したい。あらゆる周りからの批判を以てしても私の行動に対する道義的確信は微動だにしないし、公正な歴史家なら私の行動を評価して将来いつかその本当の価値を見出してくれることだろう。