チベットの歴史18 清朝のチベット制圧5

 シナの軍隊なしにはネパール軍も追い出せないチベットの無能ぶりと、チベット政府の組織的な欠陥と指導力の欠如は清国による新たなチベット政府の統治機構改革を促したが、今度のそれは「より良きチベット統治のための29か条」と呼ばれ、書面の計画の形で認められた。この一連の改革は、ダライ・ラマやパンチェン・ラマなど高位の転生ラマを黄金の壺に入ったくじを引くことによって決定する方式などが含まれていたが、その目的は転生ラマの決定が政治的に有力な在家の一族に操作されるのを阻止することにあった。また本改革はアンバンの政治的権威をダライ・ラマと同格に格上げし、主要な統治案件や人事を決定させ、閣僚などの最高ポストの候補者選びについては皇帝の承認を得ることが義務付けられた。さらに本改革は、労働力の使役などを通じて農民を酷使し搾取するのを禁止し、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの親族がそのラマの在位中に、公職を壟断するのを禁止した。清国軍の兵団はシガツェとディングリのネパール国境に配置された。
清国によるこうした改革の大義名分は、清国遠征軍の責任者である福康安将軍が当時のダライ・ラマについて言及した手記からうかがい知れる。いわく、
チベット政府による地方行政は的確な制度を有していない。ダライ・ラマは瞑想しかせず、このため外部で生起していることがうまく伝わっていない。大臣たちはチベットの平時には怠慢よろしく、戦時には無為無能で国家を防衛できずにいる。よって誰もが何をすべきか分かるように更なる規制が必要である。こうした点に鑑み、皇帝陛下はそれがしに何をすべきか詳細に指示を与えられ、それが弊害なく来るべき将来、チベットの長期的な利益に資することを保証できるように熟慮を重ねる旨、私や他の者たちにお命じになった。ダライ・ラマは皇帝陛下がチベットのためになされたことを感謝しているので、より良きチベット統治のために行われる政治改革を尊重するであろう。しかしダライ・ラマが旧来のやり方に固執するのであれば、皇帝陛下はラサ駐在のラサを召還し、駐屯軍を撤退させ、かりに将来チベットが非常事態に陥っても救援の手を差し伸べないであろう。ダライ・ラマは事の良し悪しを吟味して決断を下さねばならない。
福康安将軍の手記は清国が属国であるチベットの指導者たちに対して抱いていたフラストレーションを暴露している。北京政府は無難で平和なチベットを模索していたが、過去70年未満の間に五回もの派兵が必要になってしまった。ダライ・ラマは今回の改革に同意を与え、大臣たちの同意も保証した。
1792年の改革以来、アンバンたちは絶大な権威を誇ったが彼らはチベットをシナの一州として併合するつもりはなかった。チベットはその固有の言語や官僚、法制度を維持しシナへは朝貢しなかった。実際に1792年の改革はチベットで最初の国軍創設を含んだが、それにはチベットが自衛することで清国が再び派兵する必要のないようにする皇帝の狙いがあった。近代において、このチベット軍隊は「シナの練兵」(Gyajong)の名で有名になる。
もっともチベットにおけるアンバンの実際的役割を評価するの難しい。というのも、清国があつらえたレトリックや制度の存在にもかかわらず、アンバンの権力は彼らの人間性やチベット指導者に対する競争力、さらにはその時々のシナやチベットの政治状況といった諸要因によって千差万別だったからである。清国皇帝が1792年ラサのアンバンに送った親書は1728年以来の理想と現実の乖離を表している。いわく
通常、有能な官僚は北京の役職に配置される。つまりラサに派遣される官僚は大方凡人で、北京に帰還できるように任期が切れるのを待つ意外に何もしない連中ばかりであった。このため、ダライ・ラマや閣僚たちはチベットの内政に関して何でも望むことをすることが出来、こうした無能なアンバンの存在を無視していた。これがアンバンが単なるお飾りに過ぎなくなった所以である。しかしこれからは、チベットはアンバンによって有効に監督されねばならない。ダライ・ラマや閣僚たちは最早チベットを牛耳ることは出来ない。
しかしながら19世紀が開幕すると、清朝は太平天国の乱(1845~65)のような内乱とアヘン戦争(1839~42)のような西欧列強による侵略の結果、その地位に対する脅威に直面することになる。それに伴い、当然清国皇帝によるチベットへの関与は減り、アンバンの権力は衰退した。この結果、チベットは1841年から42年までの間、シクやラダックとの間に、そして1855年から56年の間にはネパールとの間でシナの関与を経ずに戦争を戦った。しかし後者の戦争の結果、チベットはネパールに毎年朝貢し、ネパール人のラサ居住とネパール人商人に対する治外法権認めざるを得なくなった。同様に、1877年に即位したダライ・ラマ13世は、1792年に乾隆帝が定めた「黄金の壺」による抽選方式によらないやり方で選出された。さらに1897年、ダライ・ラマ13世が権力を掌握した2年後、彼は(1792年の政治改革にしたがって)高級官僚の人事をアンバンに打診するのを止め、自ら彼らを任命するようになった。それはダライ・ラマ14世の義理の弟であるプンツォ・タシ(彼はかつてチベット政府の官僚であった)が説くように、「過去100年以上もの間、チベットの権力政治家が決してなし得ないことであった。この措置を満州政府は喜ばなかったが、彼らにはどうすることも出来なかった」。このように20世紀に差し掛かるころまでに、チベットに対する清朝の覇権は形骸化、チベット問題はある意味息を潜めた。というのも、チベットは明示的に清国との関係を断ち切らず、清国皇帝に形式的な敬意を表したが、ラサにいるアンバンには従わなくなったのである。
ところがこうしたチベットによる好き勝手放題のやり方は、第三勢力が舞台に登場し現状を劇的に変える一連の事件を引き起こしていくことで、永遠に失われることになるのである。

カテゴリー: インド・チベット パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。