百術は一誠に如かず-藤原岩市とF機関(呉竹会『青年運動』平成25年5月号)

大東亜会議70周年

 

去年は日印国交樹立60周年であった。そして今年は大東亜会議70周年である。周知のように、我が国政府の主催で昭和18年11月東京で開催された大東亜会議には、アジア各国から政府首班の錚々たる顔ぶれが参集したが、なかでもその堂々たる偉躯と雄弁で一際陸離たる光彩を放っていたのは同年10月に発足したばかりのインド自由仮政府を率いるインド独立の英雄、スバス・チャンドラ・ボースであった。

 

戦後、イギリスは戦勝国であるにもかかわらず、大英帝国の王冠で一番美しい宝石と謳われたインドから早々に撤退した。その理由について後年インドを 訪れた当時のアトリー首相は「英印軍のインド兵の、英人指揮官に対する忠誠心が、チャンドラ・ボースのやった仕事のために、低下したということですよ」と 述べた一方で、ガンジーの非暴力運動がイギリスの早期撤退に果たした役割については「ごくわずかですよ」と述べたという(国塚一乗『インパールを越えて』講談社)

 

ときの英国首相をしてかくまで言わしめたボースであるが、その彼の「やった仕事」が我が軍とその命令による特務工作に従事した一人の軍人の功績に多くを負うことはほとんど歴史の秘話と化している。その軍人こそ大本営参謀陸軍少佐、藤原岩市である。

 

後述するように藤原は南方マレー工作の特務機関である「F機関」の機関長として、英印軍内インド兵や現住インド人の懐柔に成功、彼らを主体とするインド国民軍(INA)の創立を後押しした。このINAこそボースが率いインパール作戦においては我が軍と共に英軍と戦ったインド独立の解放軍に他ならない。藤原は資金と人員の資源的制約のなかで、後に英国の情報部ですら「グローリアス・サクセス」と称える程の顕著な成果を収めたのであるが、そうした成功の裏にはアジア民族解放に寄せる一途な理想と至誠に貫かれた行動があった。そこで今回はこの藤原岩市の思想と行動に焦点を当ててみたい。

 

F機関の南方工作 

 

藤原岩市は明治41年(1908年)兵庫県の出身、参謀本部で謀略宣伝を担当する第八課の部員を務めていた日米開戦間近の昭和20年、来るべき対英開戦に備えたマレイ方面での工作、なかでもインド独立連盟(IIL)およびマレイ人・シナ人らの反英団体との連絡とその運動支援を命じられた。しかし当時の藤原は、歳の頃30を過ぎたばかりの少壮軍人であり、特務工作はおろか海外勤務の経験すらなく、英語も現地語もだめであった。そんな彼が国運を賭する壮大にして困難な工作の責任者になることには相当の葛藤があったらしく、本人の手記によれば、拝命の意を決する前日、彼は世田谷の松蔭神社の神前に赴いて自らの身を奮い立たせたという(藤原『F機関』バジリコ)。たしかに藤原には特務工作の知識も経験もなかった。しかし彼は権謀術策に偏重したそれまでの特務工作に疑問を抱き、近代戦における思想イデオロギーの役割を重視した上で、むしろアジア民族の解放を掲げる今次宣戦の崇高な大義を闡明し、誠意と情熱と愛情を以って異民族の説得にあたることが最良の方策であると思い至った。こうした彼の信念は、本任務に対する彼の次のような認識に明らかである。いわく、「大東亜各民族は、他民族のあらゆる支配と圧制から解放され、自由と平等の関係において、それぞれ各民族の政治的念願を成就し、文化の伝統を高揚して、東亜全体の福祉と向上とに寄与する一体感の平和境を造らねばならない。日本民族はその先達となる責務を負い、かつそれを実践しなければならない。各民族の信仰や風俗や習慣や生活はあくまで尊重しなければならない。われわれの主観的なものを強要するようなことは厳に慎まなければならない。われわれの運動はこの理想を指標として、私達の誠意と情熱と愛情とを、実践を通じて異民族に感得させ、おの共鳴と共感を受けなければならない(上掲『F機関』)」。

 

かくして彼が機関長に就任した特務機関は、フリーダム、フレンドシップと藤原の頭文字を採って「F機関」と命名された。もっとも、このF機関は特務機関とはいっても、藤原の直接の部下で軍籍にあるものは僅かに五名の若い将校と一人の下士官に過ぎなかった。しかし彼らのほとんどは陸軍中野学校で特殊訓練を受けた精鋭であり、その他の機関員もマレイやスマトラに永住し現地の情報を知り尽くした邦人14名であった。さらに機関員を通じてF機関の指導に服した人物としては、戦前「マレイのハリマオ(虎)」として三千人の匪賊を率い勇名を馳せた谷豊も含まれている。F機関はこの少数精鋭の機関員をもとに開戦前夜から活動を開始し、開戦後は山下奉文中将率いる第二十五軍の区処下にあって我が軍の南方作戦と連動し、タイやマレイ、シンガポール、ビルマやスマトラにおける広汎な工作をカバーした。

 

INA(インド国民軍)の創設

 

さて、藤原によるマレイ工作の端緒は、開戦前夜、潜行先のバンコクでインド独立の秘密結社であるIIL(インド独立連盟)の指導者、プリタムシン、アマールシン両名と接触したことによって開かれた。連日の協議の結果、F機関は日本軍との間に入ってIILの運動を資材・資金面で援助し、その代わりIILは我が軍の対英作戦地域に宣伝班を派遣し、同地域におけるインド人の反英独立闘争気運を高揚し、かつ日本軍との親善協力気運を醸成するとともに、英印軍内インド人将兵とマレイ地区一般インド人中より同志を糾合してインド独立義勇軍を編成することで合意した。その際、我が軍には一切の政治的野心がないこと、投降したインド将兵の名誉を尊重することが併せて約束された。

 

そして次なる転機は、我が軍がマレイ工作の過程でアロルスターという町を占領しF機関がインド将兵からなる敗残の一大隊を接収したときに訪れる。というのも、この大隊を指揮していた中隊長の一人こそ、後にインド国民軍創設の担い手となるモハンシン大尉であったからである。同大尉の優れた資質を一目で見抜いた藤原は、今次戦争の大義と我が軍の目的を胸襟を開いて力説し、シン大尉の決起を促した。その結果、昭和16年の大晦日、大尉はついに決起し、我が軍の承認を経た上でインド国民軍の編成に着手した。こうしてINAは呱々の声をあげたのである。

 

その後も、IILとINAは我が軍の進撃につれて漸次勢力を拡大したが、なかでも昭和17年2月15日、我が軍の攻撃によって英国最大の極東拠点であるシンガポールが陥落した際には、藤原は投降した四万五千人もの英印軍インド人将兵を前に演説し、大歓声を以って迎えられた。世に「ファラパーク演説」と呼ばれるその演説はいまもインド独立史の重要な一頁を飾っている。

 

シンガポールの陥落に伴い、東京では大本営の肝いりで、東亜各地のインド人代表を招聘した山王会議が開催された。同会議では「中村屋のボース」ことビハリ・ボースが議長を務め、藤原機関長も参加した。この会議の結果、IILとINAは合流して「インド独立連盟」が成立し、同時にF機関はマレー工作の任務を終了したとして解消せられた。また対インド工作の特務機関として新たに岩畔豪雄(いわぐろたけお)大佐率いる岩畔機関が発足した。この岩畔機関は藤原機関よりも資金・人員の面で遥かに恵まれていたが、山王会議に次ぐバンコク大会の挫折を機にINAとの関係が悪化し、ついに事態は我が軍がINAを日本の傀儡にしようとしているのでないかという不信感を抱いたモハンシン少将(大尉から昇格)の離反と罷免にまで発展した。そこでこうした窮状を打開するため、日本政府からINAの新たな指導者として招聘されたのがチャンドラ・ボースであった。彼は当時イギリスを逃れてドイツで反英活動をしていたが、日本の招請に呼応しUボートに乗って東京を訪れたあと、シンガポールに渡ってビハリ・ボースからINAの指揮権を引き継いだのであった。さらに上述の通り、昭和18年10月21日には日本政府の承認のもと自由インド仮政府を樹立し、英米に宣戦を布告すると、同年11月に東京で開催された大東亜会議には自由インド仮政府の首席として参加した。それが今から70年前の出来事であった。(続)

 

    藤原岩市

 

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