前泊博盛編著『本当は憲法よりも大切な「日米地位協定入門」』(創元社)を読む1/4

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本書を通読しても、表題の通りなぜ日米地位協定が憲法よりも大切なのかは終ぞわからなかった(憲法も大切だ)が、いずれにしても現在の地位協定が抱える問題の深刻性は理解することが出来た(つもり)。

では日米地位協定の何が問題なのか、本書の提示する論点は多岐にわたるが、ここでは筆者なりの観点で、その理由を以下に列挙したい。

その1.先帝陛下が「史上稀にみる寛大な条約」と仰せになったサンフランシスコ講和条約には裏があった。それはまずわが国が独立を回復したあとの安全保障を在日米軍によって担わせることを定めた日米安保条約と、その具体的な内容を定めた日米行政協定(後、日米地位協定)の存在である。

米ソ冷戦の開始に伴い、国務省顧問としてわが国を訪れたダレスは、「われわれが望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること(get the right to station as many troops in Japan as we want where we want and for as long as we want)」を求めた。しかしそれをそのまま日米安保条約に書くと、他の連合国や日本国内の世論から反発を招くこと必定なので、「国会の承認や国連への登録が必要ない秘密の了解(private understanding)」によって決めることにした。ここでいう「秘密の了解」こそ、日米行政協定(後、日米地位協定)である。つまりわが国にとって属国的な条項はすべて日米地位協定に押し込めたのである。元外務次官の寺崎太郎は、講和条約と日米安保、行政協定の中でもっとも重要な意味を持つ「本能寺」は日米行政協定であると見抜いている。

日米安保はそれが締結されるまでの間、わが国(特に国会)でほとんど議論されたことがなかった。全権の吉田茂首相ですら、安保条約の調印日が講和条約と同じ9月8日であることを知らされたのは前日の夜のことであり、当然に日本語で書かれた条約の正文案も存在しなかった。それでも吉田首相は、講和条約が日本側代表6人によってサインされたのに対して、安保条約の調印に際しては後生への責任を危惧してか、彼一人のサインによってこれを締結せしめたのである。日本側代表団の中には、性急な条約調印に反対する意見(苫米地義三)もあったが、吉田は聞き入れなかった。

ここで引っかかるのは、なぜ吉田は安保条約の調印を断行したか、あるいはしえたかという点である。ダレスの補佐役であったアリソン(後の駐日大使)は、売国的な日米安保に調印した代表団の少なくとも一人は、帰国後暗殺されるのが確実であるとまで述べている。このように、米国側の代表団ですら、わが国の主権侵害性を認める安保条約の調印を、いくらワンマンの吉田とはいえ、独断専行で成しえるとは思えない。ましてや、陛下の忠臣を自負する吉田のことである。私は、日米安保条約調印は畏くも先帝陛下のご叡慮を拝してのものであったと推測する。そしてこの推測は、豊下楢彦著『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波書店、詳しくは本ブログ掲載書評参照のこと)において、先帝陛下が米軍の永続的な日本駐留を思し召されていたこと、吉田が最後まで全権拝命を固辞していたことなどの記述とも符合する。

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