兵馬の権、何処にありや-対露同志会による日露開戦の奏疏(呉竹会『青年運動』平成24年11月号)

日清戦争以後の我が国は、ロシアによる東方侵略の脅威に直面していた。ロシアは明治28年(1895年)の三国干渉によって我が国が獲得した遼東半島を清国に返還させたにもかかわらず、その裏では、露清密約によって同半島の旅順と大連を租借し、満州での権益を独占しようと企図していた。そうしたなか、明治33年(1900年)に義和団事件が起こると、ロシアは事態収拾を口実に満州全土に侵攻し、撤退期日を過ぎても兵を引く気配はなかった。このロシアの暴慢なる南下政策を前にし、我が国世論では対露開戦を説く声が日増しに高まっていたが、肝心の政府はロシアを恐れるあまり、非戦論に固執してその場しのぎの外交に終始するばかりであった。
 

そこでこれを見かねた頭山満らの志士は、対露同志会を結成して政府に対露開戦の決断を迫る運動を開始し、なかでも頭山が、衆議院議員の神鞭知常や河野広中、佐々友房といった同志会の幹部を打ち連れて対露協商派の領袖である枢密院議長の伊藤博文のもとを訪れた歴史的会見は、政府が開戦に舵を切る契機をなすものとして特筆に値する。この会見で頭山は『伊藤さん、あんたはいま日本で誰が一番偉いと思いますか』と意外な問いを発し、返答に躊躇する伊藤に対して『畏れながら、それは天皇陛下に渡らせられるでしょう』と喝破した。さらに『次に人臣中では誰が一番偉いと思いますか』と問うてから、無言で頭山を見つめる伊藤に『それは、あんたでしょう』、『そのあんたが、この際しっかりして下さらんと困りまずぞ』と凄んで激励したのであった。この勢いに気圧された伊藤は、『その儀ならば御心配下さるな、諸君のご意志のある所は確かに伊藤が引き受けました』と断言したので、頭山は『それだけ承ればもう宜しい、サア皆さん帰ろう』といって悠悠とその場を辞し去ったという。
 

しかし、この会見の後も、桂首相はじめ政府の当局者はなお開戦に遅疑逡巡したので、頭山等の志士はついに非常の手段に打って出、明治36年12月、対露同志会の同志五十余名の連著で一通の奉疏(上奏文)を明治大帝に捧げ、対露開戦の聖断を請い奉るに至った。以下は、そのとき頭山等が捧呈した奉疏の筆者による口語訳である。原文は黒龍会編『東亜先覚志士記伝』をもとにした。

請願
伏して愚考いたしますに、天皇陛下におかせられましては、文武のいよいよ盛んにあらせられ、つとに維新のはじめに於いて開国進取の国是を定め、もって今日の大業を創め給い、そして世界の大勢は帝国に東亜の平和を維持し、世界の文運を翼賛する天職を授けたのでありました。けだし、三十有余年来、文武大小の政治、内政外交の百般に渡る施策は実にこの国是を広め、この天職を尽し給う道に他なりません。臣下である私どもは、この隆盛の大御世に生まれ、日夜恐れ畏くもこのご恩に報いる道を思わずにはおけません。しかしながら、いまやロシアの清韓両国における行動は、東亜の平和を撹乱し、ひいては世界の治安を震撼せしめ、そして帝国の権利と利益を侵略すること日を追うごとにより甚だしくなっております。政府はまさに外交交渉の中心にいるのでありますが、交渉はすでに三カ月を経て、なおいまだに解決を見ておりません。今の内に一刀両断、ロシアの跳梁を抑制防圧するのでなければ、その禍害の及ぶところは測り知れません。

 

そもそもロシアのいわゆる極東経営において、その志望を蓄えてきたのはもとより一朝一夕のことではありません。たとえその名分は通商貿易に託したとしても、その実が 新しい領土を拓き土地を攻略して、もって覇を東亜に唱える陰謀にあることは、これを事実と照らし合わせても顕著明白であります。遼東半島は帝国が百戦に打ち勝った結果、平和の保障として獲得した場所であります。
 

寛仁なる陛下におかせられましては、特にロシアの忠告を容れ、これを清国に返還し給うと、ロシアはすなわち名を租借に借りて、その地を占領し、ほしいままに武装を加えて忌憚するところがありません。北清事変(義和団事件)は列国の一様に憂慮して、その渦中に身を置くを敢えて辞せざるところであります。そこでロシアはかえってその隙に便乗し、鉄道保護を口実として東三省を占領してしまいました。満州還付条約は帝国と英米の警告にしたがい、ロシアが自ら締結したものです。ロシアはしばしば永久占領の意思はないと声明しながら、恬としてその言を違い、すでに還付の期限が過ぎているにもかかわらず、これを履行しません。さらに言辞を弄し事を構えて百方、清国を威嚇して過激な要求をエスカレートさせております。龍巌浦は韓国政府がいまだかつて租借を許しておりませんが、ロシアはほしいままにその地に兵を入れて占領し、日露協約の精神を蹂躙していたずらに帝国を侮辱致しました。これはロシアの行動のうち最も著しく大なるものです。また帝国政府と交渉中であることも省みず、あえてますます全力を陸海の兵備に傾注し、いよいよ進出して甚だしい傍若無人の立ち居振る舞いに至りましては、もとより枚挙にいとまがありません。これはまことに今日の危機的な状況を醸成した原因なのであり、列強諸国は共にこのことを熟知致しておりおます。
 

臣下である私どもは、よくよく考えましても、ロシアには断じて平和を尊重して帝国と協調する誠意はないと存じ上げます。しかし政府が国際礼儀を墨守するあまりに、結論を先延ばしして今日に至りましたのは、我々臣下として甚だ遺憾とするところであります。思いますに、帝国のロシアに対する忍従、謙抑的な態度はすでにその極みに達しました。そこで事、ここに至っては、帝国自衛のため、東亜平和のため、世界文運のためにはもはや一時の猶予もありません。もとより帝国は、戦争を好むものではありませんが、不和の原因はロシアが作ったのであり、禍の種は彼らがまいたのであります。よって礼物を捨てて干戈を取り、国是に基づいて天職を行うことは、帝国としてやむを得ないことであります。
 

神聖にして御徳の明らかであらせられます陛下が、つとに成算をお定めになられていることは、臣下である我々は伏してお察し申し上げております。ただ我々臣下は、その愚直な忠誠ゆえに、政府が慎重すぎてその場しのぎの間に合わせに流れ、時機を失って大事を誤り、国家百年の禍根を遺すことを甚だ切実に憂慮するものであります。よってここに衷心よりの敵愾心を披歴し、謹んで陛下のご聖断を仰ぎ奉ります。
我々臣下は、誠にもって恐懼の至りに堪えません。
明治三十六年十二月十六日

この奉疏は外交の運用に関するものであるとの理由から表向きは却下されたが、後日畏くも天覧を賜ったことがもれ聞こえたので、対露同志会はこの名誉ある奉疏の文書を神社に奉納して後世に伝えるべく決したという。
 

さらに、この奉疏を受けて、当時衆議院議長の地位にあった対露同志会の河野広中は、衆議院の開会式で明治陛下から賜った勅語の奉答文で『今や国運の興隆千載一遇の時に当り、政府の処置、其の宜しきに伴わず、内政は彌縫を事とし、外交は機宜を失し、臣等をして日夜憂虞措く能わざらしむ。仰ぎ冀くば、聖鑑を垂れ賜わん事を』と述べ、政府弾劾の世論を天聴に達せしめたのであった。
 

このように、頭山をはじめとする対露同志会がとった行動は、ロシア膺懲を言う前に兵馬の権たる統帥大権の帰するところが天皇陛下にあることを天下に闡明する意味があった。さすれば今日の我々も、シナ膺懲を言う前に兵馬の権を聖上にお返しし、君臣の名分、建軍の本義を正すべきではないか。頭山翁は泉下で何をお思いだろうか。

    神鞭知常

 

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