北畠親房『神皇正統記』を読む① 

北畠親房(1293~1354)は言わずと知れた南朝の忠臣であり、後醍醐と後村上の父子二代に亘る天皇に仕えました。元来北畠家は村上天皇の皇子具平(ともひら)親王の御子で右大臣を務めた師房(もろふさ)を始祖に仰ぐ名門であり、代々歴代の天皇に仕えて参りましたなかで、親房は特に俊傑で知られ御年31歳のとき後醍醐天皇から大臣に次ぐ要職の大納言に任じられました。その後、親房を御親任遊ばされた天皇は、第二皇子であらせられる世良(ちよなが)親王の養育係を彼に命じましたが、不運にも親王はその年に薨去せられ、親房はそのショックの余り出家して朝廷の表向きは息子の顕家(あきいえ)に託しました。

さて後醍醐天皇の御鴻業により、建武中興成就したかに思われた矢先、足利高氏は謀反の軍を起こして京都に攻め上ったため、顕家は皇子義良(のりなが)親王を奉じて自身が国守を務める陸奥に下りました。その後、鎮守府将軍に任じられた顕家は、逆賊討伐に赴き一時は高氏を京都から九州に追い払うことに成功致しましたが、勢力を挽回した高氏軍に敗れ21歳の若さで討ち死にします。そして楠木正成や名和長年、新田義貞等の名将忠臣相次いで戦死する中にあって、最早時局を座視しえなくなった親房は終に決起出蘆します。御年46歳の事でありました。彼は後の捲土重来を期し、義良親王らを奉じて船で奥州に逃れようとしますが、途中暴風雨に遭い常陸の霞ヶ浦に漂着します。すると早速その噂を聞きつけた賊軍が追い打ちをかけたため、親房は筑波山の麓にある小田城に籠城して悪戦苦闘を続けました。

親房が『神皇正統記』を書いたのは、まさにこの小田城の戦陣であり、彼は神代に淵源する我が国の正統を記すことによって、勤皇の大義を内外に闡明し、御醍醐天皇御隠れの後は、本書を吉野の後村上天皇(かつての義良親王であります)に献じて君徳涵養の資となさしめたのであります。その後、本書は朝廷のみならず、全国の忠臣義士によって脈々と読み継がれ、幕末には勤皇志士を通じて明治維新にも深甚な思想的影響を与えました。

周知のように、朝廷に謀反を起こした足利高氏は、室町幕府を開き、天下の政治を天皇から簒奪した逆賊であり、その孫にして三代室町将軍の義満は、貿易の利益欲しさに朝廷への忠義を捨てシナ皇帝に臣従するなどの非道を働きました。しかし同様のことは、戦後アメリカの恫喝の下で人民幕府を開き、名ばかりの象徴天皇制によって朝廷から天下を簒奪したのみならず、貿易の利益欲しさにかつては米国、最近はシナに臣従して恥じない我が国政府についても言えます。よってこういう逆境の時代こそ、自ら孤軍奮闘して大義に殉じた北畠親房とその著作である『神皇正統記』は、体制変革の書としてリアリティーを持つのであり、我々は親房が記した過去の歴史の中に将来の指針を見出し、それを今日において実践躬行せねばなりません。

そこで以下では、この『神皇正統記』を大町桂月氏の評釈を参照しながら読み進めて参りましょう。氏の評釈(『神皇正統記評釈』東京明治書院、1925年)は有難いことにインターネットで閲読可能です(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943298)。

(記事元:http://www.yanagi-k.com/?p=1919)

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