崎門学研究会「崎門学に学ぶ③」一水会『レコンキスタ』平成25年12月号

「勤皇の志士、梅田雲浜」

幕末の風雲到来

MX-2640FN_20131204_120013山崎闇斎に創始せられた崎門学は、天皇陛下を戴く我が国において、朱子学的な君臣の分と内外の別を正すことを理想としながらも、徳川による覇権という現実の中で久しく跼蹐(きょくせき)を強いられていたが、幕末における国家の動乱に際して、ついにその思想的生命を爆発させた。

周知のように、幕府倒壊の端は、ペリー来航に際する一連の不手際に発する。けだし、幕府はアメリカの軍事的恫喝に屈する形で、それまでの鎖国政策を改め、その場しのぎの開国政策に批判的な尊皇派の弾圧を開始した。その最終局面が、井伊大老による安政の大獄である。

こうして表面的にみると、あたかも安政の大獄は、井伊大老を始めとする開国・佐幕派による攘夷・討幕派の弾圧と捉えられがちであるが、それは間違いである。開国政策は井伊が大老に就任する以前に敷かれていた既定路線であるし、大獄で弾圧された吉田松陰や橋本左内も開国それ自体に反対していた訳ではない。また同じく大獄で弾圧された水戸の徳川斉昭や尾張の徳川慶恕、越前の松平春嶽はもとより徳川の藩屏であるから倒幕ではない。

では何が争点であったか。

端的に言って、尊皇派による幕政批判は、第一に、幕府が条約調印の勅許を朝廷に仰がなかったこと、そして第二に、条約がその手続きにおいても内容においても、独立国家にあるまじき不平等なものであったことに対して向けられていた。つまり、第一は、我が国の最高権力者は誰であるか、また第二は、国家の対外的独立を可能ならしめる要件は何かという、我が国の存立にとって最も根本的な主権論の問題を内包していたのであり、ここにおいて、君臣の分と内外の別を説く崎門学は、幕府の内なる専横と外なる卑屈に憤る尊皇派に対して、最も深刻切実な思想的解答と運動的指針を与えたのである。

梅田雲浜と崎門学

なかでも、そうした崎門学派の領袖として幕末に活躍した梅田雲濱の功績は顕著である。雲浜の生涯については、本研究会顧問で月刊日本編集長の坪内隆彦氏が発表された論考(「『靖献遺言』で固めた男・梅田雲浜」(『月刊日本』2012年12月号/http://kimonngaku.com/?page_id=112))が白眉であるので詳しくはそちらを参照して頂きたいが、以下では特に彼の思想的面目に焦点を当てて、崎門学が幕末の尊皇攘夷に果たした役割、そしてそれが今日の我が国に対して持つ意味を考察して行きたい。

梅田雲浜は、文化12年(1815年)酒井家小浜藩に生まれた。小浜藩といえば、山崎闇斎とその弟子の浅見絅斎、更にその弟子の若林強斎の学統を次ぐ小野鶴山と西依成斎が招聘されて藩士を薫陶し崎門の学風が根付いていた場所である。雲浜は幼少より藩校、順造館で崎門学を学び、十六歳で江戸に遊学して、上述した小野、西依氏の両系譜に属する山口菅山に入門し、天保14年(1843年)にはその学徳が認められて京都で若林強斎が開いた望楠軒の講主を務めた。

その後も彼は京都を中心に一介の浪人儒者として、東は水戸の武田耕雲斎から北は越前の橋本左内、西は長州の吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、薩摩の西郷隆盛などといった海内の錚々たる志士達と交流して勤皇論を鼓吹している。そんな折、幕府は不平等条約である日米修好通商条約の勅許を朝廷に仰いだが、孝明天皇はこれを拒絶し給い、却って条約反対のお立場を明確になされた。しかるに、井伊はこうした天子の御叡慮を無視して独断で条約に調印し、朝野の志士を激昂せしめた。

そこで、雲浜は志士たちと画策して、将軍家定の継嗣問題で一橋慶喜を擁立し、その実父で尊皇派の徳川斉昭を将軍補佐に配した幕政改革を当事「今大塔宮(護良親王)」と呼ばれた青蓮院宮尊融親王に建白し、これを孝明天皇に上奏せしめた。これらの一大画策が奏効し、ついに朝廷は、条約調印を専断した幕府への批判と、御三家と諸藩の協力による幕政改革、そして攘夷の推進を内容とする内勅を、幕府ではなく水戸藩主の徳川慶篤に賜ったのである。雲浜を死に至らしめる安政の大獄は、「戊午(ぼご)の密勅」と称されるこの内勅が引き金になったとされている。(続く、敬称略) (崎門学研究会

カテゴリー: 国體 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です