『神皇正統記』を読む⑪

神皇正統記第五巻は、第七十一代後三条天皇から始まります。この天皇は、後朱雀天皇第二の御子、後冷泉天皇の御弟にまします。このころ、関白藤原頼通は後一条、後朱雀、後冷泉の三代の御代にわたる五十余年もの間、天下を執柄しておりましたが、正統記によりますと、「先代には、関白の後は如在の礼にてありしに、余りなる程に成りにければにや、後三条院坊の御時より、あしざまに思しめす由聞えて、御中らひ悪しくて、あやぶみ思し召す程の事になむありける」、つまり頼通の専横振りが目に余る程であったので、後三条天皇は皇太弟の時代から彼と御仲が悪く、廃太子せられるのではないかと危ぶんでおられたと記しております。

よって、天皇がご即位せられて以降、頼通は宇治に引退し、朝廷は天皇親政に復しました。正統記も「この御時よりぞ、執柄の権ををさへられて、君の御みづから政をしらせ給ふ事にかへり侍りにし」と述べ、また同時にこの天子が和漢の学識に長じ給い、記録所を置かれるなどして地方の政治に目を配られるなどの善政を敷かれたことを、「延喜、天暦より以来には、誠に賢き御事なりけむかし」と褒め称えております。

後三条天皇御譲位の後、跡を継がれたのは、第一の御子にまします第七十二代白河天皇であります。この天皇は御在位十四年にして譲位遊ばされますが、正統記によると、その後「世の政を始めて院中にてしらせ給ふ。・・・おりゐにて世をしらせ給ふ事、昔はなかりしなり。」つまり我が国で史上はじめて院政を敷かれ、それ以来、「御子堀河の御門、御鳥羽の御門、御曾孫崇徳の御在位まで、四十余年世をしらせ給」うたと記しております。

もとよりこうした院政の起こりは、朝廷から藤原氏の影響力を排除することが目的であったと思われますが、皮肉にもそれは朝廷における権力の二元化と、内部抗争の勃発を招き、延いてはそうした朝廷内部の権力闘争に便乗した武家勢力の大政壟断を帰結する原因ともなります。

白河上皇の次に、院政を敷かれたのは、第七十四代鳥羽天皇にあらせられます。この天皇は、白河第二の御子にまします第七十三代堀河天皇第一の御子にあらせられますが、白河上皇崩御の後、二十余年に亘って院政を敷かれました。その間、第七十五代天皇に即位せられた崇徳天皇は、鳥羽上皇第二の御子にましますが、上皇との御仲悪しく、御在位十八年にして御退位を余儀なくされ、その後は、鳥羽上皇第八の御子で上皇に鍾愛せられた近衛天皇が第七十六代天皇に即位遊ばされました。

ところが、この近衛天皇は御在位十四年、御年十七歳にして早世し給うたため、本来であれば兄君である崇徳上皇の御子、重任親王が皇位を相続し給うべきところ、鳥羽上皇は崇徳天皇の弟君にまします後白河天皇を第七十七代天皇に擁立し給います。かくして、鳥羽と崇徳、両上皇の確執は決定的なものになりました。

そんな折、左大臣藤原頼長は、兄である関白藤原忠道を差し置いて氏の長者になり、内覧(太政官より文書を奏聞する前に内見して万機の政を行うこと)の宣旨を蒙っておりましたが、近衛天皇がお隠れの後、白河、鳥羽の両上皇と同じく、院政を開始せられた後白河上皇が、内覧の宣旨をお止めになったことを恨めしく思い、悲境におられた崇徳上皇に申し勧めて、謀反を企てます。これが保元の乱であります。

保元の乱が起こったのは、鳥羽上皇の崩御から七日後のことでした。事態を察知した後白河上皇は、平清盛と源義朝の武将を召されて戦いに勝利し給い、謀反の首謀者である藤原頼長は討ち死に、崇徳上皇は讃岐に配流せられました。

このとき、源義朝の父である為義は、崇徳上皇方に付いて戦ったため、為義と義朝は親子で敵味方に分かれて戦うことになりました。それだけでも常軌を逸しているのに、戦いの後、後白河上皇は、義朝に命じて、敗残して出家していた為義を自ら殺させます。つまり子が実の親に手にかけたわけですが、正統記はこれを人倫にもとる仕打ちとして厳しく非難し、以下のように述べています。いわく「義朝重代の兵(つわもの)たりし上、保元の勲功捨てられ難く侍りしに、父の首を斬らせたりし事、大なる科(とが)なり。古今にも聞かず、和漢にも例なし。勲功に申し替ふるとも、自ら退くとも、などか父を申し助くる道なかるべき。名行欠けはてにければ、いかでか終にその身を全くすべき、滅びぬる事は天の理なり。凡そかゝる事は、その身の科はさる事にて、朝家の御誤なり、よくよく案あるべかりける事にこそ。・・・父として不忠の子を殺すは理なり。父不忠なりとも、子として殺すといふ道理なし。」

このように、正統記は、実の父に手をかけた義朝の罪はさることながら、彼にそうした残忍酷薄な命令を下し給うた後白河天皇の御科をも率直に断罪しております。

 

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