『神皇正統記』を読む⑫

皇統系譜 白河天皇以下さて、保元の乱で殊勲を立てた義朝でありましたが、もう一方の功臣である平清盛は、朝廷の実力者である信西法師こと藤原道憲と血縁を結んで義朝を凌駕する勢いを示します。そこで、これを恨めしく思った義朝は、後白河法皇に寵愛されながらも、道憲に出世を邪魔されたことを恨んでいた藤原信頼と反逆を企てます。これが平治の乱であります。

義朝は清盛が熊野に詣でて京都を留守にしている間に、上皇とその御子である第七十八代二条天皇を内裏に押し込め奉りましたが、道を引き返してきた清盛との戦いに敗れて潰走し、最後は自らの家臣である長田忠致によって殺されました。

かくして義朝を滅した清盛は、太政大臣にまで上り詰め、平家一門で顕官顕職を独占し、正統記が「天下の諸国は半すぐるまで家領とな」せりと記すほどの権勢を誇ります。

こうした一連の顛末について、いみじくも正統記が、「保元、平治より以来、天下乱れて武用さかりに、王位軽くなりぬ。未だ太平の世にかへらざるは、名行の破れそめしによれる事とぞ見えたる」と述べているように、朝威失墜と武家専横の種を巻いたのは、他ならぬ朝廷自身であったことは否めません。

上述した二条天皇は、上皇の院政を疎ましく思し召し、ご在位三年にして御子の第七十九代六条天皇に御譲位遊ばされますが、この天皇は御歳十三歳にして早世し給います。

そこで次に御位を継がれたのは後白河上皇第五の御子にまします第八十代高倉天皇にあらせられますが、清盛はこの天皇の女御として娘の平徳子を入内させた、二人の間にお生まれになった第八十一代安徳天皇の外祖父になることで、権勢の絶頂に達しますが、奢れる者も久しからず、源頼政が以仁王(後白河上皇の御子)による平家追討の令旨を頂いて挙兵したのを陳勝呉広として、各地で雌伏韜晦していた源氏が一斉に反旗を翻します。そしてその棟梁として平家追討の先頭に立ったのが、義朝の子で伊豆に隠棲していた源頼朝であります。

周知のように、その後平氏は幼帝、安徳天皇を奉じて落ち延びた先の壇ノ浦で滅亡いたしますが、このとき、大変御いたわしくも、天皇が「神璽を懐にし、宝剣を腰にさしはさみて」入水し給うため、後に幸いにも神璽、すなわち三種の神器である八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は発見せられましたが、宝剣、すなわち草薙の剣は海底に沈んだまま失われてしまいました。

安徳天皇が西国に遷幸し給いし間、京都の後白河上皇は、再三還幸(天子が京都にお戻り遊ばす)あるべき院宣を下し給いましたが、平氏がこれを承服しなかったため、上皇は高倉天皇第四の御子にまします後鳥羽天皇を、第八十二代天皇に擁立し給いました。しかし、もちろんそのとき皇位の御徴である三種の神器は、安徳天皇の御許にありましたので、この後鳥羽天皇は、三種の神器を具備し給わぬまま天皇にご即位遊ばされました。言うまでもなく、これは極めて異例の事態であり、評者の大町氏も「もしも平氏の命脈長かりしなら、南北両朝の前に東西両朝が出来べかりし也。その場合には安徳天皇方を正とし後鳥羽天皇方を閏とせざるべからず」と述べています。

 
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