徳富蘇峰日記を味わう②-皇室中心主義とは何か

蘇峰翁は、毎日新聞社長の高石真五郎氏から、予てより翁が標榜したる皇室中心主義について、果たしてこれは天皇が政治機構の中心になり天皇親政を行うことか、それとも国民精神の中心として敬愛尊崇の対象に止まるべきか否かを問う書状が来たのに対して、次にように述べている。

皇室中心主義とは何か

予は天皇は日本政治の中心でいます事を信じ、同時に天皇は我が国家的一大家族の家長にています事を信ず。即ち義は君臣という事は、第一条に該当し、情は父子という事は、第二条に該当す。何れを採るというよりも、むしろ双方共に採るという事を、正当と思う。(中略)若し単に天皇を家長と仰ぐばかりで、政治の外に置くということになれば、天皇は全く英国の皇帝以上に、政治の機構から離脱遊ばさるるものといわねばならぬ。そして皇室を、全く鎌倉より徳川時代までの、皇室同様にするものであって、維新改革の目的とは、全く背馳することとなる。維新改革の目的は、一君万民、天皇と国民とが、ピッタリ密接するという事を主眼としたものである。しかるに天皇を政治機構の中心より外に置くとするならば、摂関政治か将軍政治かの外に途は無い。あるいは議会政治もその類かも知れない。摂関政治、将軍政治の不可なることは、今更ここに論ずるまでもない。問題は皇室中心か、議会中心かという事であるが、議会中心という事は、日本の国体と全く相反することとなる。日本の国体では国家の主権を天皇に存し、天皇が君であり、人民が臣である。君臣の分は、天地と同じく定まって、動かすべきものでない。しかるに議会中心の英国では、主権は議会に在って、議会は君主を廃立することも出来、若しくは政体も変更することも出来る。英国の憲法では、君主制を廃して、民主制とすることも出来る。(昭和二十年十月二十五日午後)

似非国体主義者は、天皇は現実政治から超然たるべしとして、英国の立憲君主などの事例を引き合いに出し、あたかも戦後の象徴天皇を追認するかの様な考えを抱いている。その根拠は、政治責任が主上に及ぶことを危惧してのことであるが、だからといって、臣下である我々国民の誰一人として最終的に現実政治の結果に対する責任を引き受けることは出来ない。それが出来るのは天照大神のご神勅を受け継いだ主上だけ、だから主権は天皇に帰属するのである。丸山真男は天皇国体を「無責任の体系」と言ったが、誰も責任を負えない国民を主権者にする現在の政体の方こそ「無責任の体系」である。いみじくも先帝陛下が一切の敗戦責任をお引き受けなさろうと思し召された様に、我が国体における天皇が精神的のみならず政治的中心である以上、天皇の政治責任は免れない。しかしそれは戦勝国に対する戦争責任ではなく、皇祖皇宗に対する敗戦責任である。そして、似非国体主義者がいうように、さすれば主上に責任が及ぶではないかという批判に対しては、否、だからこそそうした悪しき事態を回避するために内閣や議会を通して大政を輔導し奉り、そのためには時には諫奏をも辞さないのが臣下たる国民の責任であり、それは分不相応な主権者たるの責任よりも遥かに峻厳な倫理によってはじめて成り立つものである、と言う他ない。

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