東京書籍の何が問題か

歴史教育の目的とは

教科書の話をする前に、そもそも歴史教育の意義について述べなければなりません。中学の科目では、歴史は社会という科目に内包され、この社会の他に国語、数学、英語、理科の四科目、計五科目があります。よって、高校受験の事だけを考えると、歴史は全体の一部に過ぎず、更に私立など三教科の高校を受ける生徒にとっては、学ぶ必要すらないという実情があります。

しかしこれは飽くまで受験の上での話であって、公教育の目的における歴史教育の意義は、むしろ他の英語や数学といった科目のそれを上回る位に重要なのです。というのも、国民の税金を使ってなされる公教育は、はじめ家族の庇護下にある「私民」に国家が教育を付与し、「公民」としての国民を形成する営みに他ならず、その上で歴史教育は、国民統合の要となる民族の神話や道徳、伝統文化を受け継ぐという極めて重要な役割を果たすからです。よってもし学校に歴史教育がなければ、国民は私民の集まりとしての烏合の衆に過ぎず、公民にはなれない。公民がなければ、国家が英語や数学などによって、いくら高度な知識や技術を子供達に授けても、それが社会に還元されることはない、つまり敢えて公教育でやる必要などないのです。

この様に、「歴史教育」は日本国民を作るのが目的ですから、それは単純に歴史の真実を知るのが目的の「歴史研究」とは区別されるべきです。もし歴史教育が歴史研究と同じだとしたら、歴史教育は客観的な史実を知ること自体が目的になり、単なる歴史オタクを量産するだけに終わってしまうでしょう。それこそ、そんな事は家でやるべきです。無論、事実は大切ですが、学校が教えるべきなのは、事実そのものというよりも、その事実が歴史の中で持つ意味の方であり、更にはその意味を束ねて体系にした物語です。その物語は、我々の祖先が、壮大な努力によって国家を建国し、様々な内憂外患を乗り越えながら、その独立と繁栄を築き上げてきたという物語です。歴史がこの物語でなければ、子供達の純粋な心に感動を与え、祖国への誇りや自己奉仕の観念を培うことなど不可能です。ところが、史実を羅列しその意味を教えないばかりか、歴史の負の側面を殊更に強調することによって、国民から祖国への誇りを奪い去るような歴史教育など以ての外、税金の無駄遣いと言わざるを得ません。

神話の喪失

こうした点を踏まえ、現行の歴史教科書である東京書籍が、『古事記』や『日本書紀』に記された我が国の神話や伝承を、史実としての科学的な実証が難しいとの理由で割愛し、言及していないのは、「歴史研究」ではなく、「歴史教育」の教科書として問題があると考えます。というのも、私たち人類の起源がアフリカの猿人であり、また国民としての起源が大陸からの渡来民であると説明するだけでは、人類学や考古学の知識を増やすことは出来ても、歴史教育の目的である「公民」の育成、すなわち伝統文化による国民の統合には資さないからです。なるほど確かに神話をそのまま「事実」と認めるのは難しい。しかしそのことよりも重要なのは、私たち日本人の祖先がそうした神話や伝承を信仰し、その信仰に基づいて歴史を織り成してきたという厳然たる「事実」であります。この事実を無視して歴史を単純に唯物的な実証の対象としてのみ捉えると、かえって歴史の本質を見誤ることにもなりかねません。

この点で、育鵬社と自由社の歴史教科書(前者は『新しい日本の歴史』、後者は『日本人の歴史教科書』)が、我が国の神話をそれぞれ見開き二ページを割いて特筆大書し、民族の神話的由来を説き明かしているのは大変意義深いことです。要点を言いますと、まずイザナギとイザナミという男女の神様が天上の世界である高天原(たかまがはら)から海をかき混ぜて我が国の国土を生み、さらにお二人の間に生まれた天照大神(あまてらすおおみかみ)は御孫のニニギノミコトに命じて高天原から地上に降り立ち我が国を統治させ給いました。このいわゆる天孫降臨に際して天照大神が我が国の正統な統治者の証としてニニギノミコトに授けたのが三種の神器であり、それを頂いてニニギノミコトが天下ったとされるのが今の九州です。そこから船団を率いて東征し、奈良で初代天皇に即位して都を開いたのがニニギノミコの末裔である神武天皇です。以来、今日にいたるまで125代、我が国では一度の革命もなく皇統が連綿と続いて来たのは古今東西に類例を見ない世界的な奇跡と称する他ありません。このように我が国の天皇は天照大神直系の末裔であり、中国の皇帝や西欧の君主のような世俗的な権力者とは一線を画します。事実ご歴代の天皇は、日常の政務とは別に、天照大神を奉り国家の安泰と国民の幸福を祈願する祭祀を重要なお勤めとして来られました。この神話的事実が分からなければ、なぜ御皇室が尊いのかも分かりませんし、そのご皇室を戴いて国家を営々と築き上げてきた先人たちの思いを理解すること到底不可能です。

先日産経新聞の調査で、2月11日の「建国記念日」を知っている国民が二割未満という衝撃的な事実が明らかになりました。この建国記念日は、上述した初代天皇の神武天皇が初代天皇に即位し都を開いた日に由来しますが、公教育で神話を教わっていない戦後の日本人が、建国記念日を知らないとしても無理はありません。これでどうして我が国の伝統を継承し、祖国への誇りを育てることが出来ましょうか。建国記念日はいわば日本の誕生日です。自分の誕生日や出自を知らない人間が自尊心を形成し、社会的役割を自覚することが困難なように、戦後我が国におけるナショナリズムの喪失が、神話的伝統の喪失に起因することは明白ではないでしょうか。

独立国としての歩み

神話の喪失に加えて、東京書籍に見られるもう一つの大きな問題は、この教科書の内容が無味乾燥な事実の羅列に過ぎず、我が国の先人たちが、ご皇室を戴(いただ)く国家の独立を守るために示した壮大な気概や努力を描いていないために、子供たちに歴史への興味を喚起し、国家に功績のある歴史上の人物への尊敬や、自分もそうした偉大な人物の後に続こうという志を抱かせることが出来ないということにあります。

その一つの例が、聖徳太子の対隋外交に関する記述です。東京書籍では、聖徳太子が中国を統一した隋の進んだ制度や文化を学ぶために小野妹子を派遣し、遣隋使を始めたと記述していますが、一方で太子が隋の皇帝である煬帝に送った「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という国書の存在にも、その意義にも触れていません。

古来アジア世界では、中国の覇者が「皇帝」として君臨し、周辺の国から朝貢を受ける代わりに、その国の支配者に対して「王」の称号を授与する(冊報という)関係を築いてきました。我が国の支配者もかつては中国に朝貢し、「倭王」の称号を与えられたのでありますが、上述した聖徳太子の国書は、「日出づる処の天子」たる天皇が、「日没する処の天子」たる中国の皇帝と対等であることを示すことによって、有史来初めて我が国が従来の朝貢体制とは一線を画する独立国であることを宣言した重要な意義があるのです。しかしながら、東京書籍は、この歴史的事実にも意義にも触れておりません。

そのくせ別の箇所では、「東アジア世界の朝貢体制と琉球王国」と題して見開き二ページを割き、かつての奴国や邪馬台国が中国に朝貢していた事実や室町幕府の将軍足利義満が明の皇帝に朝貢して「日本国王」の称号を与えられ勘合貿易を始めた事実が指摘されています。それどころか、琉球が歴史的に中国の朝貢国であり我が国の薩摩藩が侵攻した後も朝貢は続けていた事実にはちゃんと言及しているのです。東京書籍は、もともと琉球やアイヌといったエスニック・マイノリティーに対しては同情的であり、彼らの独立に向けた戦いには敏感ですが、その一方で肝心の我が国がはやくから東アジアの朝貢体制を脱却して独立を貫いてきた毅然たる歩みにはいたって鈍感です。これは独立国家の担い手である国民を形成するという公教育における歴史教育の趣旨に対する著しい逆行です。

さらに同様の問題は、我が国と近代朝鮮との関係についても言えます。というのも、歴史的に我が国が中国への朝貢体制と一線を画する独立国であったのと対照的に、朝鮮は中国に朝貢する属国であり、この関係は近代における李氏朝鮮の滅亡まで続きました。そこで我が国は李氏朝鮮末期における独立党の指導者である金玉均を支援し、さらには朝鮮の独立をめぐって日清日露の両戦役を戦ったのです。東京書籍は、我が国の朝鮮に対する植民地支配や同化政策に触れ、日韓併合を断罪していますが、上述の様に、韓国は併合される以前にそもそも独立国家ではなかったのであり、我が国はむしろ朝鮮の独立を支援したのでした。朝鮮の滅亡は、彼らの独立心なき事大主義が招いた自業自得の結果です。こうした背景事実を踏まえなければ、歴史への公平な評価は不可能ですし、いはんや国家の独立を守るために戦った我が国の先人たちの偉大さを理解することも不可能です。

我が国の国柄とは何か

これまで論じたわが国の神話と対外的独立の歴史に関する記述でいうと、育鵬社と自由社の教科書は共にその要件を満たしているように思われますが、これらの教科書とて万能ではありません。というのも、上述した我が国の独立の歴史は国家の対外的関係における話ですが、一方の国内における関係、殊に天皇と国民との関係については、育鵬社と自由社の教科書ですら、君臣の大義名分を論じ、我が国柄の固有にして尊厳なる所以(ゆえん)を十分に説き明かしているとはいい難いからです。

我が国は、神武天皇の御建国以来、万世一系の天皇を君主に戴いて来ました。この天皇による支配は、皇祖神である天照大神が天孫ニニギノ尊に授けられた「天壌無窮の神勅」に基づくものであり、我が国は君主である天皇と臣下である国民が父子の情愛で結びつき、利害苦楽を共にすることによって、内外の国難を乗り越え国家の安寧秩序を保つことが出来たのでした。しかしながら、長い歴史のなかでは蘇我氏や藤原氏、源平の武門といった時の権力が臣下の分際で専横を振い、また謀反を働く事によって、朝廷から政治の実権が失われることもありましたが、その都度、忠君の志士たちが立ち上がり、神武建国への回帰としての「維新」を成し遂げることによって、天皇を戴く国柄(これを国体といいます)、を護持してきたのです。

したがって我が国の国体においては、天皇親政こそ本来の姿であり、幕府政治はあくまで変態的な姿なのです。この国体の本義が分からなければ、明治維新が王政の復古の大号令で「諸事神武創業の始に基づき」と謳われたように、六百年続いた武家政治から、朝廷が政治の実権を取り戻したことを本質的な意義とし、それにより国民が天皇の下で一丸となって西欧列強の侵略から国家の独立を守り得た事実を理解することは出来ません。そしてこうした意義を有する明治維新も一朝一夕に成就せられたものではなく、その過程では、あまたの先知先覚(先覚者)たちによる計り知れない苦労や犠牲があったのです。だから国家の正史を教える歴史教育では、事に成否にかかわらず、まさにこうした人々の功績を顕彰し、その志を後世に伝えるべきなのです。

例えば、後醍醐天皇が御親政の回復を目指された建武の新政についても、その実現には北条幕府の打倒に功績のあった護良親王や楠木正成、新田義貞と云った忠臣たちの存在がありました。また、三百年続いた徳川幕府も、その基盤が磐石であった四代将軍家綱の頃から、山崎闇斎を始めとする尊王論が起こり、それらは遂に山縣大弐や竹内式部による幕府政治の否定となって現れました。こうした彼らの事績は、幕末の志士たちに強い影響を与え、明治維新の思想的原動力にもなりましたが、東京書籍は言うまでもなく、残念ながら前述した二つの教科書(育鵬社と自由社)もこれらの事績やその意義を十分に説明しているとは言えません。これは看過の出来ない重大な問題です。

ここで参考までに戦前の国定教科書ではこの維新前史についてどういった記述がなされているか、以下に昭和14年文部省発行の国定教科書『高等小学国史』を元に、「尊王論と国学の勃興」と題する小節を全文引用します。

「尊王論と国学の勃興」

太平が久しくつゞいて学問がおひおひ進んで来ると、国史・国文の研究が起こり、武家政治のわが国体にそむくことをさとつて、尊王をとなえるものがあらはれるやうになつた。

そもそもわが大日本帝国は、万世一系の天皇が、大政を御みづからみそなわしたまふのが大法である。しかるに、平安時代の中頃から、藤原氏が権力をほしいまゝにして政治をみだり、遂には、武将が国政を執るような変態が出来た。けれども、幕府の政治は、源頼朝がはじめてから、すでに久しい間にわたつてをり、その根底は極めて堅く、将軍は非常な権力をもつて天下に臨んだ。国民もまた、いつとなくこれになれて、少しも疑をもたないばかりか、中には、たゞ将軍のあるのを知つて、皇室の尊厳にましますわけを知らないものが少なくなかつた。

江戸幕府は、家康以来、たびたび皇居や山稜を御修理申しあげ、またすたれた朝廷の御儀式を興したり、新に宮家をお立てしたり、御料を豊かに増したてまつつたりしたが、政治上の実権だけは、いつさい自分で握つてゐた。関原の戦の後、京都所司代を置いて、京都を守護すると共に、関西地方をおさへさせ、大阪の役の後、公家諸法度を作つて、天皇の御学問に関することをはじめとして、皇族・公卿に対する種々の規定を設け、これによつて朝廷の御事に干渉したてまつることが少くなかつた。また藤原氏の例にならひ、皇室の外戚となつて幕府の基を固めようとし、秀忠の女東福門院を第百八代後水尾天皇の中宮として宮中に入れたてまつつた。さうして、程なく、中宮の御腹の皇女で、御位にお即きになつたのが、明正天皇であらせられ、奈良時代から久しく絶えてゐた女帝の例がまた開かれた。第百十代後光明天皇は、幕府をおさへて大いに皇威を張らうとなさつたが、せつかくの御志もまだ果したまはぬうちに、御葬礼でおかくれになつたから、幕府は、もはや少しも憚るところがなくなつた。

水戸の藩主徳川光圀は、尊王の志が深く、四方から学者を集めて、江戸の別邸に史局を開き、大日本史を編纂して、大義名分を明らかにし、山崎闇斎も京都にあつて尊王の大義を説き、神道をとなへて、盛に弟子を養成した。これから、国民は、わが国体の尊いわけをさとつて、幕府の朝廷に対したてまつるわがまゝな振舞を憤るものが、おひおひにあらはれて来た。闇斎の学説を奉ずるものに、竹内式部・山縣大弐などがあつた。式部は、越後の人で第百十六代桃園天皇の御代に、公卿の間に出入し、大いに武家政治の非を論じて、王政の古にかへらればならぬことをとなへ、遂には、その説が天聴にまで達したが、やがて、幕府にいまれて追放せられた。大弐は、甲斐の人で、日頃、皇室の衰へさせられたのをたいそうなげき、江戸にあつて、きびしく幕府を攻撃したから、遂に幕府の為に斬られた。

かやうに、真先に尊王の大義をとなへ、幕府の不義を論じたものは、忽ち罪せられたが、尊王の思想は、たいていおさへきれるものでなく、かへつて国学の興るにつれて、ますますひろまつていつた。さきに、光圀が国史の研究をはじめた頃、大阪に僧契沖があつた。博学で、わが古語にくはしく、光圀のたのみで万葉集の註釈をあらはした。これから国学の研究がしだいに盛になり、寛政の頃、伊勢の本居宣長によつて大成せられた。宣長は、賀茂真淵の門人で、深く古史・古文を研究し古事記伝をはじめ、数多の書物をあらはして、国体を明らかにすることにつとめた。その学を受けたものは、全国にわたつてすこぶる多かつたが、中でも、平田篤胤は、最も名高く、儒・仏をしりぞけて神道をとなへ、盛に尊王愛国の精神を鼓吹した。かつて、
人はよしからにつくとも我が杖はやまと島根にたてんとぞ思ふ。
とよんで、その堅い信念を示したのであつた。また宣長と同じ時代に塙保己一があつた。盲人ながらも博聞強記で幕府の保護を受けて江戸に和学講談所を設け、広く古書を集めて群書類従一千八百冊余りを出版した。それで国学研究の便宜が開けていつた。

かうして、古史・古文の研究がいよいよ盛になつたから、世人はますますわが国体の尊厳であることを知り、大義名分をゆるがせにしてはならぬことをさとるやうになり、尊王家がつぎつぎにあらはれた。寛政の頃、高山彦九郎・蒲生君平の二人は、皇威が久しく衰へさせられたのをなげいて、あまねく諸国を廻つて熱心に尊王の論をとなえた。ついで、頼山陽が出て、二十年余りの間苦心を重ねて日本外史をあらはし、武家興亡の歴史を説いて、政権が武家に移つた由来を論じ、また晩年には病苦に悩みながらも、これをしのんで日本政記を作り、順逆の別を明らかにして尊王の精神を鼓吹した。これらの書物は、いづれも痛快な文章で綴られて、広く世人に愛読せられたから、国史の知識を普及すると共に、人心に非常な感動を与えた。後に王政復古が成就したのは、実にこれらの人々の苦心に基づくところが多かつたのである。

浦安正史会

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