豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む③

○「天皇のリアリズム」と「二重外交」

かくして昭和天皇は東京裁判での責任追及を免れた訳であるが、このように一旦は合意をみた昭和天皇の思し召しとマッカーサーの思惑も、両者の安全保障や憲法の認識をめぐって次第に齟齬を来たしていく。その兆候は早くも第三回会見(461016)で天皇が、

新憲法が掲げる戦争放棄の理想とはほど遠い国際情勢によって日本が危険にさらされることを憂慮されたのに対して、マッカーサーがあくまで戦争を否定して9条を自画自賛したことに現れていた。

以後の会見でもマッカーサーは「9条理想主義」を一貫して固持し、国連の枠組みのもとでの諸大国による日本の安全保障を構想しており、一度はペンタゴンの圧力などもあって第九回会見(491126)で講和後の米軍駐留を約束したりしているが、その後は再び「極東のスイス」論による日本の中立を唱えて本来の主張に回帰してしまった。対して昭和天皇は、内外からの共産主義による侵略への脅威から「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥のご支援を期待しております」(第四回会見)とご発言されるまでに、無条件的な米軍駐留を希望されていたのであり、こうしたご意向は、講和成立による日本の独立後に対しても変わらなかった。沖縄における米軍の占領が「二十五年から五十年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで継続されることを思召された昭和天皇のいわゆる「沖縄メッセージ」が、側近を通じてマッカーサーに伝えられたのは、上述のご発言があった第四回会見の直後である。

 こうした天皇外交の一方で、ときの首相であった吉田茂は米国に派遣した池田勇人蔵相には米軍の駐留をオファーさせながらも、首相特使の白洲次郎には日米協定による米軍駐留に反対させ、自らも国会で「私は軍事基地は貸したくないと考えております」と発言するなど、アメリカに対してしたたかな「ダブル・シグナル」を送っていた。

そこで、このような吉田の姿勢と上述したマッカーサーの対日スタンスに不信感を抱かれた昭和天皇は、ついに彼らをバイパスして、対日講和の担当者である国務省政策顧問のダレスに対して口頭と書面による「二つのメッセージ」を発し、講和交渉への介入を図られた。さらに、512月には皇室の側からの提案で、訪日中のダレスと昭和天皇の会見が実現している。この一連の経緯について筆者は、「天皇制が生き残るためには米軍による日本の防衛は至上の課題であった。ところが肝心のマッカーサーは「極東のスイス」論を唱え、吉田は基地提供を外交カードのように扱う状況において、天皇の側は直接米国に訴えることによって、日本の防衛を確保する方向に動かざるを得なかったのであろう」(191)と説明している。

結果として講和条約と同時に成立した日米安保条約が、日本には米軍に基地を提供する義務がありながら、米軍には対日防衛が義務付けられていないばかりか、彼らに無期限に基地を使用する権利や「治外法権」までも容認する内容の不平等条約になったのは、吉田外交の稚拙さによるものというよりも、上述した天皇の「二重外交」の影響であることを本書は示唆している。講和・安保条約の調印後に皇居で行われたマッカーサーの後任であるリッジウェイとの第三回会見において、天皇は「有史以来未だ嘗てみたことのない公正寛大な条約(講和条約)が締結された」ことを喜ぶとともに、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」と述べられたのであった。

 

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