豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(2008、岩波書店)を読む②

○「日米合作の政治裁判」

筆者の推測する昭和天皇の「東条非難」は、後述する『昭和天皇独白録』と同様に、戦争責任をめぐる天皇への責任追及を回避する狙いがあった。この点で、マッカーサーはワシントンに宛てた報告のなかで、開戦時における天皇の「立憲君主」としての形式的役割と、仮に天皇が裁判にかけられた場合に強いられる莫大な政治コストを強調することによって、「ワシントンにおける天皇訴追論議に実質的な終止符を打つ」ことに成功した。また一方では、冒頭のような「全責任発言」を東京裁判の首席検察官であるキーナンや同裁判で重要な役割を果たした田中隆吉元陸軍少将に話し、彼らを天皇無罪の心情へと駆り立てることによって、「裁判対策」の有効な手段として利用したのである。

ではなぜマッカーサーは、かくも積極的に昭和天皇を擁護したのか。その理由を説明すべく、筆者は対日占領におけるマッカーサーの「権限問題」と占領管理体制をめぐる連合国の確執が密接に絡み合った当時の政治状況を以下のように分析する。

すなわち、戦後日本に降り立ったマッカーサーの地位は「連合国総司令官」である以外何も規定がなかったことから、ワシントンではその権限に限定性を課す意見が少なからず存在した。そうした中、連合国の間では、戦後ソ連が占領した東欧の管理に対して英米が対等性を主張したことの裏返しとして、ソ連が対日管理への参入を要求した結果、双方の間でGHQの上位機関であり対日管理の最高政策決定機関である「極東委員会」を設置する妥協が成立した。ところが、この「極東委員会」の構成諸国のなかには、ソ連の他にもオーストラリアやニュージーランド、カナダ、オランダなど、天皇の戦争責任を問い、いわゆる天皇制の存続に否定的な国々が含まれていた。

そこでマッカーサーは、玉体の安全を保証し「天皇制」を維持する代わりにその権威を円滑な占領遂行のために利用することによって、46226日に予定された極東委員会の発足までの間に、天皇の人間宣言や神道指令、そして憲法改正など、民主化改革の「既成事実」を迅速に築き上げ、日本国内における絶対的地位を確立する、つまりは「権限問題」を払拭することに成功したのである。こうした経緯から遡るならば、上述した第一回会見は、「天皇によるマッカーサーの「占領権力」への全面協力とマッカーサーによる天皇の「権威」の利用という、両者の波長が見事に一致し相互確認が交わされた」という点で歴史的な意義を有するものであった。

 

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