本当の「維新」とは何か:第Ⅱ部④ ボストンにいるB君と香港にいるN君に捧ぐ

○かくして時を追うごとに、国民の天皇信仰は薄れ、君臣の忠義は没却の一途を辿っている。これらは全て、我が国が戦争に負け、占領国たるアメリカと、天皇への忠節を捨てアメリカに内応した売国・傀儡勢力が、国民主権の名のもとに天皇固有の大権を剽窃し、自らの政治的保身を全くしたことによる。遺憾にも、戦後我が国を長きに亘って支配した自民党政権は、CIAの資金援助を受けたその汚れた出自に象徴されるように、口舌の上では尊皇愛国を唱えながら、その実は袞竜の袖に隠れ、聖明を蔽い奉り、反共の優等生、米国の忠良なる僕(しもべ)になり下がったアメリカの傀儡勢力であった。その証拠に、自民党政権は、戦後我が国がサンフランシスコ講和条約によって独立を回復した後も、日米安保条約でアメリカ占領軍が我が国に駐留し続けることを許容したばかりか、米兵に治外法権を与え、米軍に在日基地の半永久的な使用を認める日米地位協定(旧日米行政協定)を戦後半世紀上もの間放置してきた。この日米地位協定は、安政の日米修好通商条約にも勝る屈辱的な不平等条約である。その結果、現在も我が国の領土には、五万人もの米兵が存在し、年間で4000億、通算にして三兆円超もの国家予算が米軍の駐留を維持するための経費としてアメリカに上納されてきたのである。

 アルカイダのアメリカに対する宣戦理由は、第一にイスラムの聖地であるメッカを擁するサウジアラビアに異教徒であるアメリカの軍隊が存在していることであった。しかしサウジアラビアのメッカから米軍基地があるとされるキング・ハリド(King Khalid)軍事都市まで直線距離にして930キロである。これがイスラムの冒涜であるというならば、畏くも聖天子がおわします皇居から米国第七艦隊の根城である横須賀海軍基地まで45キロ、第五空軍基地がある横田飛行場まで僅か36キロに過ぎない我が国は一体どうなってしまうのか。戦後の冷戦時代はソ連の脅威を、そして現在はシナの脅威を喧伝鼓吹する一方で、我が国政府は、夷狄であるアメリカの軍隊が宮城を威圧するかのように我が神聖なる大八洲に盤踞する現実を国体の冒涜とは思わなかった。それは所詮、彼らの正体がアメリカの傀儡に過ぎないことを雄弁に物語っている。それだけではない。在日米軍基地は、「自由と民主主義」という聖戦の美名に隠れて世界侵略を企てるアメリカの前方拠点なのであるから、我が国は期せずして彼らの十字軍的遠征の片棒を担いでいるのである。

○だから日本人よ、我々はいい加減目を覚まさなければならない。アメリカは我が国の守護者でもなければ、同盟国でもない。天皇陛下が唯一正当に統治し給う葦原中国を軍靴で蹂躙する夷狄なのだ。奴らが我々に与え、そして内部の裏切り者が唯々諾々として受け入れた戦後の「政体」、なかんずくその中心を成す現行憲法は、「個人的権利」の制度的保障として「政教分離」を規定している。しかし、そもそもこの「個人的権利」の基礎にある「個人=自己」という観念や「政教分離」という原則は、神とカエサルを分離する原始キリスト教、さらにはそれへの原理主義的な回帰運動としての「宗教改革」がもたらした西欧新教国特有の歴史的所産に他ならない。上述したように、「自己」という観念は、新教がローマ教会の権威を否定し「聖書中心主義」を唱えた結果、信徒が神との内面的に孤独な対面を果たしたことによって成立し、かくして生起した個人という主体が、近代市民社会における最も基礎的な構成単位と看做されるようになった。そして同様に、「政教分離」も、新教が神の内面的な信仰を説いた結果に生まれた西欧社会特有の国家原則なのである。その証拠に、「政教分離(the separation of church and state)」は飽くまで「教会(church)=ローマ教会」と「国家(state)」の分離を説くのであって、「宗教(religion)」と「国家(state)」の分離を意味するのではない。むしろ「政教分離」の看板を掲げる米国は、トクヴィルが目撃した昔からネオ・コンが台頭した昨今に至るまで、熱狂的な新教徒の支配する宗教国家である。つまり詰まる所、現行憲法の根幹を成す「個人主義」や「政教分離」は米国が言うように万国普遍の原則ではなく、その実は異教徒たるキリスト教徒の信条に過ぎない。しかし我が国は、天地開闢このかた、三種の神器に象徴される祭政一致国家なのであるから、これらの原理原則を我が国に無批判に移植した場合、国民における信仰の喪失、国家の無宗教化、個人主義の名を借りた利己主義、唯物的な拝金・権力思想や刹那快楽主義の蔓延、区区たる党派対立の先鋭化といった全く皮相な社会的混乱を惹起せざるを得ない。

以上の予測を裏付けように、現在の我が国では天皇信仰を没却した国民の間で区区たる唯物利己主義が蔓延し、社会は貴賤貧富の格差で断絶している。これは一重に高天原と葦原中国の間が、「個人主義」や「政教分離」という「政体」の曇天によって遮られ、皇祖天照の光沢が万物に届かないからである。これは素戔嗚命(すさのおのみこと)が乱暴狼藉を働いた結果、天照大神が天の岩屋戸にお籠りになられたことによる常闇(とこやみ)の世界の再現である。神代において、この岩屋戸を開く方法について思い兼ねた八百万の神々は、榊の枝に八咫鏡と八尺瓊勾玉をかけて捧げ持ち、手力男命(たぢからおのみこと)が大神の御手を強く引くことで世界は光を取り戻した。あるいは皇祖の再臨を仰ぐこの手力男命の雄々しい力は、草薙の剣と相通ずるのかもしれない。とすれば、常闇の現在を生きる我々がこの葦原中国に高天原の光を取り戻すためにまず第一にせねばならぬことは、ご神鏡と勾玉を奉斎し、手力男命のごとき草薙の剣の力で国家を神武創業の原点に立ち返らせる、つまりはこの平成の大御世において、三種の神器を回復する本当の「維新」を断行することなのである。()

 

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