李容九生誕百五十年―日韓合邦に殉じた志士の悲劇(『大亜細亜』第六・七号より転載)

李容九生誕百五十年

今年平成三十(二〇一八)年は、日韓合邦運動の指導者である李容九の生誕百五十年である。日韓合邦は、日韓の対等合邦を理想としながらも、現実には武断的な日韓併合に終わり、その後の日韓関係に禍根を残した。こうしたことから李容九の韓国における評価は日本に韓国を売った「売国奴」というのがもっぱらのようである。しかし、ではなぜ日韓合邦ならぬ日韓併合が必要であったのか、その時代背景や当時の政治情勢をみると、とても彼を一口に売国奴と云って片づけることのできない複雑な事情の存したことがわかるのである。

李容九は、明治二(一八六八)年慶尚道に生れた。両班階級中の最高の門閥に生れたが、幼い頃家産が傾き、各地を転々とするなかで十三歳の時に父を失い、母を助けて農業に従事し、糊口をしのいだが、二十三歳にして東学党に入門し、第二代教主崔時亨の高弟となった。東学党は、万延元(一八六〇)年、初代教主崔済愚によって創始され、封建的身分制度にしばられ、経済的困窮を強いられていた朝鮮下層民衆の間に多くの信者を抱えた。当時の朝鮮は、李氏による虐政が敷かれ、両班を頂点とする過酷な身分制度のもとで国家は腐敗し、民衆は苛斂誅求を強いられていた。その虐政の様は、李朝時代の最も有名な小説とされる『春香伝』に出てくる

金樽の美酒は千人の血

玉盤の佳肴は万姓の膏

燭涙落つる時民涙落つ

歌声高き処怨声高し

(金の樽の中の美酒は千の民の血にして、玉のようなる盤の上の佳き肴は万の民の膏なり、燭台の臘が落ちるとき、民の涙落ち、歌声の高き処に、民の怨みの声も亦高まる)

という有名な詩に示されている。この詩は東学党の党歌でもあり、党員に愛誦された。また両班の専制についても、李氏朝鮮末期の代表的知識人だった李人稙が作った『血の涙』という歌で次の様に歌われている。

「両班たちが国を潰した。

賤民は両班に鞭打たれて、殺される。

殺されても、殴られても、不平をいえない。

少しでも値打ちがある物を持っていれば、両班が奪ってゆく。

妻が美しくて両班に奪われても、文句を言うのは禁物だ。

両班の前では、まったく無力な賤民は、自分の財産、妻だけではなく、

生命すらその気ままに委ねられている。

口ひとつ間違えればぶっ叩かれるか、遠い島へ流される。

両班の刃にかけられて、生命すら保つことができない」

李容九

こうした李朝の虐政に対して、明治二十七(一八九四)年、全琫準を指導者として東学党の乱が起ると、李容九は幹部として参画した。この変乱に際して、玄洋社の内田良平は渡鮮して鈴木天眼、武田範之、吉倉汪聖、大崎正吉、大原義剛等と共に「天祐侠」を組織し、全 琫準と会見、東学軍に参加したともいわれる。周知の様に、東学党の乱は日清戦争の引き金となり、我が軍は東学党を鎮圧、日本の勝利によって朝鮮に於ける清国の宗主権は排除された。李容九は捕らえられたものの死刑を免れて出獄し、彼と同じく崔時亨の高弟である孫秉煕と共に日本に渡った。その後、崔時亨の後を継いだ孫秉煕が東学党を天道教に改め、反日色を強めたのに対して、李容九は親日的立場をとり、進歩会を組織した。また金玉均と共に我が国に亡命していた宋秉畯は京城に戻り、親日路線の維新会を率いていたので、かくして進歩会と維新会が合流して一進会が設立され、李容九が会長に就いた。

当時の朝鮮は、日清戦争の講和条約である下関条約によって、清国から独立国として認められ、明治三十(一八九七)年には大韓帝国と称して、表向きは清国による冊封体制から離脱したことになっていたが、今度はロシアへの事大主義に傾斜し、三国干渉以後は、閔妃一派を始め一層我が国を軽侮してロシアに従属し、かくして朝鮮問題をめぐる日露間の緊張が高まっていた。同じ頃、かつて天祐侠を率いた内田良平は、黒龍会を組織して対露開戦を主張している。こうしたなかで、李容九は、日韓の軍事同盟を以てロシアの南下を防ぎ、ひいてはアジアを復興させることが、朝鮮が生き残る道である考えており、その根底には、日韓支の三国が対等合邦し、西力東漸の勢いに対抗すべきであるとする樽井藤吉の『大東合邦論』の影響があった。

明治三十七(一九〇四)年、日露戦争が勃発すると、彼は百万人と称された一進会の会員を動員して、日本軍の作戦に協力し、我が国の勝利に貢献した。それはどういうものかというと、「開戦のはじめに、両軍とも鴨緑江(満鮮国境地帯を流れる)への迅速な集結が重要な作戦であった。その当時の朝鮮の鉄道は釜山から京城までで、一番必要とする京城から新義州までの線がなく、この間の鉄道敷設が焦眉の急であった。

韓国政府は非協力の態度であったし、多数の現地人の動員も不可能で日本軍は全く困ってしまった、このとき一進会が鉄道敷設に立ち上がったのである。また北方の輸送(武器、弾薬)も悪路と荒地のため難渋した。一進会は北進隊を組織して日本軍に協力したのである。これらのことは、なまやさしいものではなく大へんな犠牲を払った。」(大東国男『李容九の生涯』)この動員は鉄道工事で合計十四万九千人、軍需物資の運搬でも十一万四千人に及んだとする記録がある。排日気運が充満する同地での対日援助は激しい迫害を伴うものであった。

内田良平との盟約

左から内田良平、武田範之、李容九

明治三十八(一九〇五)年のポーツマス講和からまもなくして日韓保護条約が締結され、京城に統監府がおかれると、初代統監となった伊藤博文は、内田良平を嘱託に任じ、内田は伊藤に同行して渡韓した。ちなみに内田を伊藤に推薦したのは、杉山茂丸である。杉山は伊藤に、日本に無双の名馬がいるが、相当の悍馬である。この悍馬を御し得るのは伊藤公を措いて他にいないと言って内田を伊藤に勧めたといわれる。かくして渡韓した内田は、明治三十九(一九〇六)年十月、京城で李容九と初めて対面した。両者はたちまち意気投合し、『大東合邦論』に倣って日韓合邦の盟約を交わした。内田は李の動員力を高く評価し、李や宋秉畯等一進会と統監府の伊藤をつなぐパイプ役を担い、また天祐侠の同志である武田範之を招致して、李や宋との交渉に当てた。一進会は内田を顧問、武田を師賓に迎えた。この伊藤-内田—武田―李―宋のラインで日韓合邦運動が強力に推進されたのである。黒龍会編纂の『東亜先覚志士記伝』によると、日韓合邦の暁には「内田より統監に対し、一進会へ四十万円内外の授産資金を与えられるように建言し、統監も之に賛成して五十万円程の金を調達することを約束していた。この五十万円の授産金に就いては、内田及び宋秉畯、李容九の三人間に予て遠大な計画が凝らされていたのであって、彼等は日韓合邦の目的を達した暁には、一進会百万の会員を率いて満州に移住させ、何れ早晩起るであろう所の支那革命の機に乗じ、満蒙独立の旗を翻えし、日韓連邦に做って満蒙をも連邦の一つに加え、東亜連邦の実現に資そうという考えであった。その為めには既に間島に多数の一進会員を移住せしめつつあったのであるから、授産金の交付を受けたら之を以て右の計画に資すべく基礎的事業を満州に起し、満州に於ける朝鮮人移民の母体とすることに定めていたのである。」と述べている。内田は日清戦後、日本に亡命してきた黄興の「華興会」、孫文の「興中会」、章炳麟の「光復会」等滅満興漢派のメンバーと交流し、彼らの大同団結ともいうべき「中国革命同盟会」の結成にも立ち合い、シナ革命を支援しており、孫文は革命成就の暁には満蒙の我が国への割譲を約していたから、一進会員による満州移住などは決して空想的な計画ではなかった。むしろ同盟会側の章炳麟などにとっては、日露戦の結果生じた巨大な空白地満州を無為無策のままロシアの南下に任せてしまうより、そこに一進会の韓人を移住させロシアに対する一大緩衝地帯をつくったほうが有利と考えたのである。

さらにこの一進会による満州移植計画の根底には、当時黒龍会のブレーンであった権藤成卿の社稷自治思想があるとも言われている。「一進会財団は、発足当初間島を中心として満州の一部に移住し、漸次その地域を拡大して、終局的には大高麗国の版図―鳳の国―復活を目的としていた。李容九の号、鳳庵はかれの大高麗国建国の理想を表明したものである。・・・一進会財団の計画は、すくなくとも明治三十年代末期の満州問題にたいする黒竜会を中心とした大陸派のひとびとによる根本的解決策であり、当時の政治的状況のなかでは、じゅうぶんに実現可能な計画であり、権藤の社稷中心の農本国家論は、鳳の国建設にかんして、決定的な影響をあたえうる新鮮な理論であった。・・・鳳の国建設の理想は日韓合邦運動が挫折したのちも、大正、昭和と、かれらおよび、かれらの遺志をつぐ人びとのあいだに連綿と受け継がれ、昭和七年の満州国建国によって、その一部が実現する。」(滝沢誠『権藤成卿』)

日韓合邦の理想と現実

明治四十二(一九〇九)年六月、初代統監の伊藤は辞職し、曽根荒助が第二代統監に就任した。同年十月、伊藤がハルピン駅頭で遭難すると李容九は天命を悟り、同年十二月四日一進会会長李容九以下百万会員の名を以て、韓国皇帝、曽根統監、李完用総理大臣に対して日韓合邦に関する上奏文及び請願書を提出し、同時に合邦声明書を作製して国民に頒布した。これらの文章は、武田範之が起草したとも言われる。曽根統監は併合に反対だったが、内田等は、杉山茂丸や明石元二郎を通じて併合派の山縣有朋、桂太郎、寺内正毅等に働きかけ、直後に寺内が第三代統監に就任すると、併合の動きは一気に加速した。そして遂に明治四十三(一九一〇)年八月、日韓併合条約によって、朝鮮は我が国に併合された。これより先、李容九は日韓合邦の功により、特に勲一等に叙し瑞宝章を賜った。また合邦の直後受爵の御内意に接したが「今や合邦なると雖も将来における韓国皇室の安泰並に二千万同胞の幸福如何を見定めることが、後の自分に課せられたる一大責任である。新政の敷かれたる暁不幸にして自分の期待に反する場合があったら、自分は国家国民に対して全く申し訳のない地位にたたねばならぬこゝとなる。然るに今之を後にして直に栄爵を受けては栄爵を獲んが為めに其国を売ったと評せられても弁解すべき言葉がない。殊に合邦の目的を達することが出来たのは幾多の会員の惨憺たる犠牲と粉骨砕身せる苦闘の結果に由るのである。それを思へばそれらの士をさしおいて自分独り栄爵を受けるといふようなことは情宜上からも到底忍びない」とて固辞して遂に受けなかった。(『東亜先覚志士記伝』)

かくして日韓合邦は成就したかに思われたが、その現実は、内田等の構想とかけ離れたものだった。満州移植の為の授産金の約束は反故にされたばかりか、ただちに一進会は解散を命じられ、その費用として十五万円が支出されたのみであったのである。『日韓合邦秘史』は、「間島移住策の約束の如きは、全然棄てゝ顧みざるのみならず、冷酷無情なる解散により、一百万子来の会員をして其の堵に惑わしめたるが如き、或はその統治に於て全然韓人の民情風俗を無視し、圧迫睥睨唯だその主権を頑守するの外、何等の能事を示さゞりしが如き、何れも皆な将来の禍根ならざるもの是れなりとす」と記している。内田や李容九の念頭にあったのは、オーストリア・ハンガリー二重帝国のような合邦国家であり、韓国皇室を存続させ、独自の内政を維持しようという構想であった。しかし現実には、李皇帝は退位し、韓人の自治権は認められず、総督府による武断統治が敷かれたのである。

もはや、理想の頓挫したことを知った李容九は、傷心の内に結核を患い、兵庫須磨で静養をした。また日韓併合後、帰国していた武田範之も癌を発して余命宣告を受け病臥に伏していた。李は武田に、「狡兎死して走狗烹らる」(すばしっこい兎が獲られ、不用になった猟犬が煮て食われること)かと自嘲したのに対し、武田は「大象は兎径に遊ばず」(大人は小人を相手にしないの意)と言って心友を慰めたという。明治四十四(一九一一)年六月二十三日、武田範之は入寂し、その十一か月後の大正元(一九一二)年五月二十二日、李容九は数奇な生涯に幕を閉じた。李の死を知った内田良平は、直ちに須磨に駆け付け、「弔平民李容九」と大書したむしろ旗を作り、これを李の仮住居の門前に立て、盟友の死を悼んだ。六月五日に行われた葬儀は会葬者五千名以上という空前の規模だったという。

日韓合邦以後

日韓合邦の挫折と李の悲劇的な最期は、合邦を促進した日本側の志士をして良心の呵責に苛ましめた。「大正三(一九一四)年四月、内田良平は「朝鮮の統治制度に関する意見書」を大隈重信らに提出、十五年以内に朝鮮に立法議院を設立することなどの改革を唱えている」。また旧一進会側は、大正九(一九二〇)年、日韓併合の責任をとって杉山茂丸に自決を迫っている。「内田は、翌一九二一年には、日韓融和を目指した同光会を結成するなどして、合邦の理想に少しでも近づこうと努力を続けた。また、内田の同志の末永節は肇国会を結成、「大高麗国」構想を掲げて、日韓合邦の夢に再度挑戦しようとしている。

日韓合邦記念塔全景

大東神社に残る日韓合邦記念塔石柱

同時に、内田は李容九の遺児李碩奎のことを気に掛けるようになっていた。・・・やがて李碩奎は大東合邦に因んで、大東国男と名乗るようになる。樽井藤吉は、日韓合邦後の政体については、一種の連邦制を取り、日本と朝鮮との対等性が維持できるように、「大東」という新国名をつけようとしていたのである。」(坪内隆彦『アジア英雄伝』)昭和九年(一九三四年)には、内田良平は頭山満、杉山茂丸等とはかり、明治神宮表参道神宮橋畔に高さ九・七メートルの巨大な「日韓合邦記念塔」を建立した。正面の題字は頭山満が揮毫し、塔内には御神鏡、内田撰の日韓合邦記念塔記、李容九を筆頭とする合邦功労者並びに賛助者の芳名録を刻した銅板が奉納された。戦後、この記念塔は撤去されたが、頭山の題字を刻した石柱は東京都青梅の大東神社に移設され、いまもその痕跡を留めている。

本当に売国奴か

以上、李容九の生涯を見て来た。彼が目指した日韓合邦の理想は、日韓併合の現実に堕した。しかし、その日韓併合についても、我が国が朝鮮の近代化に多大の功績を残したことは、紛れもない事実である。崔基鎬氏は、その功績として

一、両班・常民・賤民などの階級制で、少数の支配者が住民の大部分を服従させる悪弊が払拭された。

二、法治制度の下に公正な裁判が行われるようになり、賄賂の慣習が一掃された。

三、私有財産制度の確立・処分・移動・職業選択と居住の自由と経済秩序の確立。

四、鉄道・道路・橋梁などの交通機関の整備により、経済が活性化し、李朝での飢餓問題も解決された。

五、教育が普及し、医療制度も近代化して予防制度が確立した。

の諸点を挙げている。(『日韓併合』)

しかしこんなことを言っても、いまの反日に凝り固まる朝鮮人が我が国に感謝することなどあり得ないだろうし、結果的に日韓併合を招いた李容九に対する「売国奴」との評価が変わることもないだろう。しかし、李容九を売国奴と断じる者は、以下の歴史的事実を直視せねばならない。第一に、李が朝鮮を日本に売る以前に、朝鮮では李王独裁、両班専制の凄まじい虐政が敷かれ、民衆は粛清と搾取、貧困飢餓によって塗炭の苦しみを舐めていたということだ。政府は腐敗堕落を極め、統治能力を喪失していた。東学党の蜂起もこの虐政ゆえに起ったのであるが、このことは本稿の冒頭で述べた通りだ。第二に、李が朝鮮を日本に売る以前に、朝鮮は清国の属国であり、既に独立国ではなかった。寛永十三(一六三七)年、清軍の朝鮮侵攻によって、李朝仁祖王は、それまで軽蔑していた胡服(北方の蛮夷の服)を着て、松坡の三田渡に設けられた「受降壇」において、屈辱的な降服を行ったが、このとき李朝が清と結んだ和約は次のようなものであた。

一、朝鮮は清に対し、臣としての礼を尽くすこと。

一、朝鮮は明の元号を廃し、明との交通を禁じ、明から送られた誥命(勅命と冊印)と、明から与えられた朝鮮王の印璽を清へ引き渡すこと。

一、王の長子と次男、及び大臣の子女を人質として送ること。

一、清が明を征伐する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。

一、内外(清)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。

一、城郭の増築や、修理については、清に事前に許諾を受けること。

一、清に対して黄金百両、白銀千両と二十余種の物品を歳幣(毎年納める金と品物)として上納すること。

一、皇帝の誕生日である聖節、正朔である正月一日、冬至と、慶弔の使臣は、明との旧例に従って送ること。

一、清が鴨緑江の河口にある椵島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。

一、清からの逃亡者をかくしてはいけない。

一、日本との交流を許すこと。

大清皇帝頌徳碑

清国皇帝に拝跪する朝鮮王

この屈辱的降服の模様は、今も三田渡に立つ「大清皇帝頌徳碑」に記され、仁祖王が受降壇に於いて清国皇帝ホンタイジに三跪九叩頭の拝礼をする姿がレリーフに描かれている。また現在のソウル西大門の近くにある「独立門」は、かつて同じ場所にあった「迎恩門」を破壊した後に建てられた。この迎恩門においては、李朝を通じて、明あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、九叩頭の拝礼をしていた。このシナに対する屈辱的な臣従から朝鮮を解放し、一個の独立国にしたのが我が国であるということを忘れてはならない。そして第三に、李容九は、あくまで朝鮮の独立を悲願し、その唯一の方策として日韓の対等合邦に活路を見出したということである。既に李朝の下で、独立の意思も能力もなくなっていたが、それでも敢て独立を得ようとすれば、日本の懐中に飛び込み、その公正と信義に自らの命運を委ねる他に方法がなかった。このシビアな現実を踏まえた上での議論でなければ、李容九の苦衷を理解することは不可能だし、彼が歴史の上で正当に評価されることは永遠にないであろう。

迎恩門

独立門

 

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