渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む7 門戸開放通牒

 アメリカは米西戦争によってフィリピンを手に入れると、これをアジア大陸における橋頭堡としてシナ市場に本格参入を試みるようになった。これは南北戦争終結以来、アメリカの国内における生産力増大によって新たな海外市場の獲得を求める産業界(特にカリフォルニア経済界)の要請と相即していた。ところが当時のシナ市場ではすでに西欧列強や我が国が各々の権益に基づいた勢力圏を形成しつつあったため、時の国務長官、ジョン・ヘイは1898年、シナ市場の分断を恐れるイギリスと結託して各国に「門戸開放通牒」を発した。
 ところで、アメリカはフィリピンを領有したはいいものの、我が国の海軍からこれを防衛するに足るだけの太平洋艦隊を持っていなかった。さらに1899年の「布引丸事件」をはじめとして、当時我が国の民族派はフィリピンの独立運動を支援していたことも、アメリカの危惧を増幅した。そこで時のセオドア・ルーズベルト大統領は、1905年、タフト陸軍長官を我が国に派遣し、日本がアメリカのフォリピン領有を確認するのと引き換えにアメリカが日本の朝鮮における指導的立場を容認する「桂・タフト協定」を締結させた。またその一方では、大西洋艦隊が太平洋に展開する機動性を高めるため、一度はレセップスが挫折したパナマ運河の開鑿に着手した。当時のパナマはコロンビア領であり、同国議会は運河の建設に反対したため、アメリカはパナマの独立運動をでっち上げ、米人の生命及び米国の財産保護を名目として艦船を派遣、1904年には強引に独立させたパナマと運河建設の条約を締結した。最終的に運河が完成したのは1914年である。
 このように、セオドア・ルーズベルト率いるアメリカ、はハワイを領有するためにフィリピンを領有し、フィリピンを防衛するために、我が国の朝鮮保護を容認して、日米の微妙な友好関係を維持したのであった。しかしこうした両国の関係も、やがてハワイ領有の結果、米国本土に移住した日本人移民への排斥運動、「桂・ハリマン協定」の頓挫などの要因が重なり、軋轢を来たしていく。
 

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