清国改造を志し、新疆偵察の途上で消息を絶った東亜の先覚烈士、浦敬一(『青年運動』平成24年4月号)

 前号では、日清貿易研究所(後の東亜同文書院)の創設者である荒尾精(1859~1896)を取り上げた。今号では、その荒尾の同志であり、我が国の興亜志士としていち早く新疆の偵察を試みた浦敬一という人物を紹介したい。なお以下の文章は、主として塙薫蔵著『浦敬一』(淳風書院)、『東亜先覚志士記伝』(黒龍会編)などを参照した。

大陸雄飛の動機
 浦敬一は万延元年(1860)、平戸の出身で、長崎鎮西日報の社業に携るなどした後、明治20年28歳にして中国に渡航、荒尾精が営む漢口楽善堂を拠点に活動した。そもそも彼がシナ行を志した動機の端緒は、明治17年に朝鮮開化派・独立党の指導者である金玉均、朴泳孝等が朝鮮の近代的な内政改革を企図しながらも清国の庇護を得た事大党の巻き返しによって失脚した甲申事変にあるといわれている。この事変で彼は、清国に恐れをなし、金玉均への充分なる支援を躊躇した我が国政府の軟弱外交に憤慨し、朝野の志士を歴訪して意見を問うたが、なかでも元外務卿で興亜会の主催者でもあった副島種臣の対中開戦論に深く共鳴するところがあった。この会見において、副島は我が国の天然の地勢が四囲を海に囲まれ攻めるに便にして守るに不便であることを指摘したうえで、万国公法における「均勢の義」(いまでいう「勢力均衡」の理論)から、朝鮮が清国の属国となれば、その分それは我が国にとって国防上の不利になること、朝鮮は清国の拠点である満州の藩屏であるから清国はこれを絶対に放棄しないこと、朝鮮は自力を以て独立を保持することはできないから早晩いずれかの列強に侵略されることなどを挙げ、ならばいっそのこと、この際我が国は先手を打って清国と戦を交え、中国や朝鮮の領土を奪取することで、迫りくる西力東漸の脅威に備えることが急務だということを力説したのである。
 それまで浦は、日本は清国に対して平和妥協主義の政策をとり、むしろ両国が同盟することで欧州列強の侵略を阻止すべきだと考えていた。ところが当時の清国は内政に腐敗を来たしアヘン戦争以来の西欧列強による侵略によって瀕死の老大国と化していたにもかかわらず、隣邦の我が国に対しては往年の中華思想を以て旧態依然たる傲慢の態度に終始していた。そこで、これでは日清の同盟など到底覚束ないどころか、このままでは朝鮮はおろか清国までも西欧列強の植民地となって我が国の国防上一層の不利を来すことを憂慮した彼は、一転して清国の改造を決意し、そのために当時清国改造を志す有志の梁山泊、シナ革命の秘密結社でもあった漢口楽善堂に身を投じたのである。
 ときあたかも当時のロシアは、シベリア鉄道を敷設し、中央アジア鉄道をイリ方面に延長することで東方に勢力を伸長する計画を着々と進めていた。そこで楽善堂ではこれへの対策を協議した結果、イリ地方の情勢を調査し、そのための要員として浦敬一を新疆に派遣することを決定したのである。この決定にしたがい当時の浦がしたためた「新疆地方巡視要目」には、彼に下された偵察任務の目的が詳細に記されているので、表記を改めて以下に引用する。
新疆地方巡視要目
 「新疆地方は露国の衝路に当たり、いやしくも機の乗ずるべきあれば、即ちこれを略してシナの甘粛路及び西蔵路を衝くの拠点とするや必然の形勢におり、防御上においてすこぶる緊要の地とす。よってこれを防御するにはいかなる力を用うべきか、またいかにしてこれに着手すべきかを視察して、その方法を定むるは今日の用務なりとす。ここにその視察の要目を挙ぐれば即ち左のごとし。第一、露兵の進入路(イリ路、アクス路、タルバガタイ路、カシュガル路の四大線路)の状況を視察すること。第二、新疆の防御線となるべき地を察し、地形及び気候等の利用を考定すること。第三、新疆の回族ラマ族及び屯田兵流入等の状態を視察し、我においてこれを用うればいくばくの力を得べきや、またこれを収攬統合するにいかにして着手すべきやを考定すること。第四、清朝政府に於いて露国の防御方法、兵備の配置、回民漢民に施す政治屯田及び流人の処分、開墾牧畜等の奨励法等を視察すること。第五、清国政府が新疆を維持するについて費やす経費のこと。及びその経費の出処、並びに土人屯田兵その他一地に課する税法を取り調べること。第六、新疆各地の牧畜、耕作、商業、庫蔵等の実況を視て、物資の多寡を算定し、かつ清朝において戦時にあたりては、物資の運輸供給はいかなる方法を以てする準備なるやを察すべきこと。第七、新疆各地の要路、及び回民漢族の形勢を視て、幹部支部の配置及びこれに要する人員の予算を立てること。第八、牧畜開墾商業等のことを熟察し、新疆幹部支部の執るべき事業、及び本部より費やす資本を算定すべきこと。」
苦難の新疆入り
 かくして浦は明治21(1988)年6月に漢口を出発、新疆を目指して北行の途についた。そもそも我が国が新疆に目を付けたのは明治時代後期になってからであり、その時代に新疆に入った日本人はわずかに日本のロシア駐在公使西徳二郎(1880)、大谷光瑞・橘瑞超が率いる大谷探検隊(1902、1908、1908)、参謀本部将校の日野強、上原多市(1906)など数名を算するのみである(王柯『東トルキスタン共和国研究』参照)。それを考えると、浦の新疆潜行がいかに先駆的な試みであったがわかる。彼の計画では、途中甘粛省蘭州府において、藤島武彦等先発隊の同志から、彼らが同地に書店を営むなどして得た利潤によって経費の補給を受けるはずであった。しかし実際に、彼が蘭州府に到着してしばらくたっても、藤島たちは一向に姿を現さなかったため、しかたなく彼は漢口に引き返さざるをえなかった。というのも、先発隊は蘭州府に向かう途中で盗賊に襲われ、旅費を奪われたために到着が大幅に遅れたのである。漢口に戻った浦は再起を期したが、もともと中国に渡って日も浅く、言語に未習熟な彼の再挙を危惧する意見もあった。これを振り払うかのように、彼は悲壮な覚悟で家族に別れを告げ、一切の後事を荒尾に託して、明治22年3月、上述した藤島を伴って再び西北辺境への長途についたのである。道中では、中国人に身を扮し、名を「宋思斎」と改め、漢口より持参した書籍や薬を切り売りしながら旅行を続けたという。また彼の想定順路は、漢口を発った後西安を経て蘭州府に至り、甘粛より嘉峪関を経て玉門県より砂漠を越えてクルムに至る。さらには「新疆地方巡視要目」で予告した通りに、クルムよりウルムチに向かいイリを経た後、タルバガダイ、アクス、カシュガルに至るというものであった。しかし、彼は同年9月に蘭州府の城外にまで至ったところで、藤島が故あって袂を別ち、道を引き返したあと、突如として消息を絶った。その後浦の消息については、新疆の一辺で遭難したとするものや、蒙古族に混じてその盟主になったとするもの、あるいはラマ僧に変じて西蔵(チベット)に入ったとするものまで、まことしやかな飛報や憶測が錯綜したが、いまに至るもその真相は明らかになっていない。
 ただ、岡本県出身の志士で呉佩孚将軍の幕賓であった岡野増次郎がもたらした後日譚によれば、彼は昔外蒙古の阿拉善王に会見したさい、浦の消息に関する有力な証言を耳にしたという。というのも同王は岡野を見て、自分も昔、一人の日本人らしい旅行者を王府に泊めたことがあるが、彼は同王の反対をおして新疆に赴いたと追憶したというのである。当時同地方において、単身新疆入りを企てた日本人は他にいなかったため、これが浦の最後の消息であるといわれている。(敬称略)
 
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