生を捨てて義を取る―「三崎」こと「殉節三烈士」のこと(呉竹会『青年運動』平成24年8月号)

 荒尾精の創始した漢口楽善堂を拠点とし、新疆探検の壮途に赴いた浦敬一を前回は取り上げた。漢口楽善堂はシナ革命の梁山泊であり、豪放闊達な志士たちが多数出入りしたが、そのなかでも、日清戦争で我が軍に従軍し、金州城外の刑場に露と消えた三烈士の活躍は陸離たる光彩を放っている。この三烈士は、その名を山崎羔三郎(こうざぶろう)、鐘崎三郎、藤崎秀といい、何れも姓に崎の字があることから「三崎」と称されている。そこで今回はこの「三崎」の遺烈を紹介し、その遺徳を顕彰したい。なお以下の文章は、『東亜先覚志士記伝』(黒龍会編)を参照した。
山崎羔三郎(1864~95)
 まず、「三崎」の一人、山崎羔三郎(こうざぶろう)について、彼は福岡の出身で、もともと玄洋社の社員として活躍していたが、明治21年シナに渡り漢口楽善堂に依ってシナ語の習得に努めた。その結果、漸く言語も熟達し辮髪も蓄えた彼は、シナ人に身を扮して単身雲南・貴州方面の踏査旅行に乗り出している。しかしその行路は決して平坦なものではなく、当初は携帯した薬を売るなどして旅費を稼いでいたが、それも尽きてしまうと、終には乞食になり、山間に野宿するなどの艱難辛苦を舐めながら旅行を続けたという。また旅行中の大部分を裸足で押し通したため、彼が漢口に帰還したときには、足の裏が牛の蹄のように固くなっていた。それを彼は呑気にナイフで削っていたそうである。このような調子で、彼は不屈の忍耐力でシナ全土の殆どを踏破し、その結果、シナ各地の地理人情風俗を知悉するにいたった。
 その後、荒尾精が上海に日清貿易研究所を設立すると、彼もその経営に参加し、資金調達のため一旦帰朝したが、明治26年には荒尾に促されて再びシナに渡り、写真屋を営むなどして報国の時節到来を待っていた。やがて朝鮮半島では日清両国の関係が緊迫して開戦の風雲急を告げるや、彼は決然上海から京城に渡航し、そこからシナ軍が布陣する牙山に潜入して敵状を偵察し、その結果を龍山にいる我が軍の混成旅団司令部に報告した。この勇猛果敢な功績により、彼は日清開戦後、旅団部付の通訳として従軍し、成歓・平壌の両戦闘でも獅子奮迅の活躍を示した。平壌の陥落後、彼は大本営がある広島に召還されたが、そこではちょうど戦時議会で広島に来ていた同郷の平岡浩太郎と再会して宮島めぐりなどに赴いている。その後山崎は、大山大将率いる第二軍の司令部に配属され、明治27年10月には第二軍を乗せた輸送船で広島を出発した。船が下関を通過するときには、頭山満や平岡浩太郎、進藤喜平太など玄洋社の同志達が彼の出征を見送ったという。
鐘崎三郎(1869~95)
 同じく三崎の一人、鐘崎三郎は福岡の人で、幼くして父を喪い、寺の門弟になって勉学に励んだが、次第に優れた才幹を現し苦学して陸軍幼年学校に入学した。しかしその直後に兄が死んだため退学帰郷を余儀なくされ、長崎でシナ語を学ぶなどして大陸雄飛の機が熟すのを待った。そんな折、荒尾精が日清貿易研究所を設立するのを聞き及んだ彼は、上京して荒尾と会見し、シナ行きの志望を打ち明けた。しかし荒尾は彼の才能を認めながらも、当時彼が長崎の名家の養子になっていたことを理由に、その申し出を斥けた。荒尾は義理ある養家を捨てる不孝を説いて鐘崎の慰撫に努めたのであるが、彼の大陸雄飛を志す悲壮な覚悟に心を動かされ、終には明治24年、上海にある日清貿易研究所までの同行を許可した。かくして彼は、半年程研究所に在学した後、安徽省の蕪湖にある日本雑貨店の店員に身をやつして才気を養っていたが、翌年上海に戻って南北地方の視察旅行をしているうちに、日清の戦雲いよいよ濃厚なる気配を察知すると、シナの売薬商に変装して山東・直隷地方の偵察に赴き、我が海軍の沿岸測量を手伝うなどした。さらに彼が天津まで至ったとき、天津総領事は居留民を促してまさに帰国しようとしていた最中であったが、彼は同地に留まって敵状に関する的確な情報を本国の軍部に送り続けたばかりか、その後、危険を犯して山海関方面の偵察に赴き九死に一生を得て上海への帰還を果たした。幸運にも、こうした鐘崎の忠勇義烈な行動は天聴に達するところとなり、明治27年の11月、彼は明治天皇への拝謁を仰せつかっている。この栄誉に感激した彼は、一死を以て天恩に報いることを固く決意し、山崎と同じ第二軍付の通訳官として広島を発ったのであった。
藤崎秀(1871~95)
 山崎、鐘崎と共に三崎の一端を担う藤崎秀も、日清貿易研究所が輩出した荒尾門下の一人である。彼は鹿児島の出身で、腕白放縦な少年時代を過ごしたが、その後勉学に励み海軍兵学校に入学を試みたものの、体格が不適格だったため実業に志望を転じた。そんな折、九州まで遊説に来た荒尾の演説に感動したことから、日清貿易研究所への入学を決意した。日清戦争が勃発した後も、しばらく彼は上海に留まって諜報任務に従事していたが、やがてシナ側の警戒が厳重になりしかたなく帰朝した後、陸軍から第二軍付通訳官の任命を受けて広島を発ったのであった。
 
 かくして、大山大将以下、三崎を乗せた輸送船は、金州半島に上陸する機会をうかがうべく、朝鮮の大同江の沖合に停泊した。当時第二軍は、海軍の援護のもとに敵前上陸を敢行し、一挙に金州及び普蘭店を攻略する作戦を立てていたが、上陸を開始する前にどうしても同地方の敵状を偵察する必要があった。そこでこの重大な任務を担う要員として白羽の矢が当たったのが、三崎を含む6人の通訳官であり、彼らは全員日清貿易研究所の関係者であった。一行は輸送船から水雷艇に乗り換えた後、夜陰に乗じて金州半島の一角に上陸し各々の任務を達するため各方面に散っていった。しかしその後彼らとの消息は杳として途絶えたままであったが、第二軍が金州を攻略した際に敵が遺棄した文書によって、彼らは上陸後時ならずしてシナ側に捕縛され、敵から残酷な拷問による取り調べを受けた挙句、金州城外で斬首刑に処せられていたことが発覚した。
 刑の執行に際し、獄吏は三崎がシナの皇帝がいる西に向かって遥拝することを強要したが、山崎は敢然これを拒否し、「我れは大日本帝国の臣民である。我が聖天子は東におはしますのであるから東に向って死ぬるのだ」と大声疾呼したあと、従容と死路に赴いたという。時に山崎は31歳、鐘崎は26歳、藤崎は23歳であった。
 さて、日清の講話がなって後、第二軍と日清貿易研究所は三崎の忠烈を後世に伝えるため、相謀って三士の墓碑を金州城外で三崎が殉難した丘陵に建立した。しかしその後、我が国が三国干渉によって遼東半島をシナに還付したため、我が軍は鄭重な保護にもとにそれらの碑を日本に持ち帰った。そして持ち帰ってからは、生を捨てて義を取るとるという意味に基づき、これを高輪泉岳寺の四十七義士の墓所近くに移築した。三崎の墓碑は現在も泉岳寺によって保管され、彼らの遺烈を千秋に留めている。
 

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