『神皇正統記』を読む⑤

その後皇位は第二十八代安閑天皇、第二十九代宣化天皇と続き、第三十代欽明天皇に至ります。この天皇の御世に、我が国に百済から仏教が伝来いたしました。神皇正統記は、そのときのわが国における反応を「この法始めて伝来せし時、他国の神をあがめ給はむ事、わが国の神慮に違ふべき由、群臣固く諌め申しけるによりて、棄てられにき」と記していますが、その後で「天皇聖徳ましまして、三宝を感ぜられけるにこそ、群臣の諌めによりて、その法を立てられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや」と、あくまで仏教擁護の立場に立っています。これ以外でも、親房は一貫して仏教擁護であり、その史観には一定の偏向があることは否めません。評者の大町桂月氏も、「親房は博く神儒仏に通ずるが、その中にても仏臭最も多し」と述べています。

周知のように、わが国の仏教は蘇我氏の台頭と聖徳太子の登場によって広く流布せられます。聖徳太子は第三十二代用明天皇の御子であらせられます。この用明天皇の御代に、物部氏が反仏教の反乱に及んだのを、太子は蘇我氏と協力して鎮圧し、その後蘇我氏は天皇の外戚となることで政治の実権を掌握します。続く第三十三代崇峻天皇は欽明天皇の御子であらせられますが、この御方は蘇我稲目の外孫であられたにもかかわらず、稲目の子馬子によって暗殺されました。天皇暗殺は第二十一代安康天皇が眉輪王に暗殺せられて以来のことですが、天皇が人臣によって暗殺されたのはこれが初めてであり、蘇我氏の専横を物語ります。

崇峻天皇お隠れの後、欽明天皇の皇女で敏達天皇の皇后となられた御食炊屋姫尊(みけかしきやひめのみこと)が天皇にご即位あそばされました。第三十四代推古天皇にあらせられます。神皇正統記いわく、「昔神功皇后、六十余年天下を治め給ひしかども、摂政と申して、天皇とは号し奉らざるにや、この御門は正位に即き給ひけるにこそ」。このように正統記は推古天皇をしてわが国最初の女帝としております。

聖徳太子といえば隋の煬帝に宛てた国書が有名ですが、神皇正統記の記述はそれとは趣がだいぶ異なります。いわく、「隋帝の書に「皇帝恭問倭皇(皇帝恭しく倭皇に問う)」とありしを、これは唐(もろこし)の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申しけるを、太子のたまひけるは、皇の字はたやすく用ゐざることばなればとて、返報をもかゝせ給ふ」。かくして小野妹子に持たせたのがあの「日出る国の天子」の国書だというのです。

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