『神皇正統記』を読む⑥

第三十六代皇極天皇は、第三十五代舒明天皇の皇后、天智、天武両帝の母君であらせられます。両帝幼きによりてご即位あそばされました。この御代に、中大兄皇子、中臣鎌足と協力して蘇我蝦夷、入鹿父子を誅戮し、大化の改新に着手されます。正統記いわく、「この鎌足の大臣は、天児屋根命の二十一世の孫なり。天孫あまくだり給ひし時、諸神の上首にて、この命殊に天照大神の勅をうけて、補佐の神にまします。中臣といふ事も、二神の御中にて、神の御心をやはらげ申し給ひける故とぞ」。二神とは皇祖天照大神と天孫瓊瓊杵尊のことです。また大町氏による注釈でも、中臣は中執臣の義で、神人の中を執り持って之を和するよる名づけたと書かかれています。つまり天皇による祭祀の補佐を職責としたいうことでありましょう。

周知のように、中臣鎌足は、後に天皇から藤原の姓を賜りますが、周知のように、彼こそが摂関政治で隆盛を極める藤原氏の始祖であります。鎌足の子、藤原不比等は大宝律令の立役者であり、その四人の子は、世にいう藤原四家、すなわち無智麿の南家、房前(ふささき)の北家、宇合(うまかい)の式家、麿の京家に分派いたしますが、この中で摂関を輩出したのは藤原北家の方であります。

皇極天皇は治世三年にして御弟の孝徳天皇に譲位遊ばされますが、孝徳天皇お隠れの後、第三十八代斉明天皇として重祚(再び践祚すること)し給い、中大兄皇子は皇太子に立たれました。正統記も記すように、この重祚といふことは、本朝初の出来事であります。

不思議なことに、神皇正統記では、蘇我氏の滅亡には触れても、肝心の大化の改新には触れておりません。また百村江の戦いにも触れておりません。
壬申の乱について、神皇正統記は戦いで敗れた大友皇子を天皇にカウントしておりません。これは大日本史が、皇子を弘文天皇として歴代天皇に入れているのと異なります

壬申の乱で勝利せられた天武天皇がお隠れになった後、皇位は天智天皇の御血筋に戻ります。すなわち、天智天皇の皇子、弘文天皇の皇妹であらせられる第四十一代持統天皇にまします。神皇正統記によるとこの天皇は「天下を治め給ふこと十年、位を太子に譲りて太上天皇と申しき。・・・この天皇よりぞ、太上天皇の号は侍りける」とあります。太上天皇はすなわち上皇のことでありますから、持統天皇は後に斉明天皇として重祚せられた皇極天皇の例外を除くと、わが国最初の上皇にあらせられます。

続く第四十二代文武天皇は、天武天皇の御嫡孫にあらせられます。さらに第四十三代元明天皇は天智天皇のご息女にあらせられますが、この天皇の御代にわが国の都が奈良の平城京に定められました。

さて蘇我氏滅亡の後、権門は藤原氏に移ります。第四十五代聖武天皇は文武天皇の皇子、母君は鎌足の子不比人の娘です。この天皇の御代に「大きに仏法を崇め給ふこと先代に超えたり」と正統記は記しております。ご在位二十五年にして皇位を皇女の高野姫、すなわち後の孝謙天皇にお譲りになり、ご出家させ給いました。わが国で天皇が出家せられたのは、これが最初であります。

かくして孝謙天皇がご即位遊ばされたのは、聖武天皇にご子息がましまさなかったからでありますが、周知のようにこの女帝は、怪僧、弓削道鏡を寵愛なされるあまりに朝政を捨て置かれ、在位十年にして皇位を第四十七代淳仁天皇に禅譲し給います。しかしその後道鏡の寵愛に嫉妬した恵美押勝(藤原仲麻呂)が上皇に反乱を起こすと、淳仁天皇を乱に加担したという理由で廃位し、第四十八代称徳天皇として重祚し給いました。称徳天皇は先に出家しておられましたが、尼僧のまま皇位に就かれました。これについて正統記は「非常の極なりけむかし」と批判的に記しています。

天皇より法王の位を授けられ、大臣に准じて大臣禅師、その後太政大臣まで上り詰めた道鏡は、それでも飽き足らず、終には宇佐八幡の託宣に事寄せて、皇位剽窃を窺窬(きゆ)するに至ります。この危機に立ち上がったのが和気清麻呂です。彼は勅命によりて宇佐八幡に詣で、万世一系の神託を天皇に奏聞することで、道鏡の非望を阻止しました。注釈に引かれた続日本紀は、この託宣について「大神託宣して曰く、我国家開闢以来君臣定まる。臣を以て君と為すは未だ之有らざる。天の日嗣は必ず皇緒を立て、無道の人宜しく早く掃除すべし」と記しています。

思えば宇佐八幡は、応神天皇垂迹の社であります。よって称徳天皇の御代に訪れた皇統断絶の危機が和気清麻呂の忠義によって救われたのは、応神天皇の神冥加護によるものと言えましょう。また称徳天皇に廃された淳仁天皇は、淡路島に流されたので一般に、淡路廃帝として知られますが、淳仁と追号せられたのは明治三年のことであります。

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