『神皇正統記』を読む⑦

かくして道鏡の国難を乗り切ったわが国は、第五十代桓武天皇の御代にそれまでの平城京から山城の長岡京、そしてそれから十年の後に平安京に遷都いたします。この遷都は、和気清麻呂の上奏によるものとされます。また神皇正統記には、この桓武天皇の御代に、東夷が反乱を起こしたので、坂上田村麻呂を征東大将軍として遣わしたとあります。桓武天皇は天智天皇の皇子である弘文天皇(天武天皇に敗れた大友皇子)の御嫡孫でありますが、天武天皇の御血筋は孝謙(称徳)天皇で断絶いたします。これも仏徒たる親房に言わせれば、因果応報なのでしょうか。かくして桓武天皇を以って、正統記第三巻は終了いたします。

次に第四巻は第五十一代平城天皇から始まります。正統記いわく「この天皇、幼年より聡明にして、読書を好み、諸芸を習ひ給ふ」。親房は、この御代に、天台、真言の顕密両宗がわが国の朝野に広く布教した事の次第を詳説しております。仏徒たる親房の面目躍如といったところでしょう。

桓武天皇御遷都の辺りから、それまで藤原不日比人以降、若干色褪せつつあった藤原氏が勢いを盛り返します。それは、第五十六代清和天皇の御代に、天皇の外祖父である藤原良房が人臣として初めて摂政になったことにも現れております。正統記の記述を引用しましょう。「本朝には応神生れ給ひて、襁褓(きょうほ)にてましましゝかば、神功皇后天位に居給ふ。然れども摂政と申し伝へたり。これは今の義には異なり。推古天皇の御時、厩戸の皇太子摂政し給ふ。これぞ帝は位に備りて、天下の政、しかしながら摂政の御まゝなりける。斉明天皇の御代に、御子中大兄の皇太子摂政し給ふ。元明の御代の末つ方、皇女浄足姫尊(きよたらしひめのみこと、元正天皇)暫く摂政したまひき。この天皇の御時、良房の大臣の摂政よりしてぞ、まさしく人臣にて摂政する事は始まりける」。

正統記によれば、当初、良房の摂政就任は、九歳の幼少でご即位遊ばされた清和天皇を補佐するための臨時職となるはずでしたが、その後藤原氏による摂政関白就任は常態化し、また天皇が摂政関白の職を停止せられたときも、藤原氏は「内覧の臣」として朝廷の政治に容喙するようになります。ここでいう「内覧の臣」とは、評釈の注によれば、太政官並に殿上より奏下の文書を事前に内見して万機を宣行する職のことです。それを言っているのが次の一節です。いわく、「幼主の時ばかりと覚えしかど、摂政関白も定まれる職になりぬ。自ら摂関といふ名をとどめらるゝ時も、内覧の臣を置かれたれば、執政の義かはる事なし」。

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