「崎門学に学ぶ⑥」一水会『レコンキスタ』平成26年4月号

「望楠軒の志士、竹内式部」

明治維新の先駆

レコン⑥今を悲しみ古を慕い、幕府に雌伏する一方で、王政回復を志願した望楠軒の学統が、ついに現実政治の地表に噴出した事象が竹内内式部(たけのうちしきぶ)の宝暦事件である。内田周平先生いわく、「式部は闇斎絅斎二先生の学統を継ぎたる望楠軒学祖若林強斎を尊崇し、強斎の晩年、其の講筵に列したるものにて、彼の宝暦事件は、絅斎強斎二先生の尊王思想が、事実の上に爆発したるものなり」と(『竹内式部と望楠軒との関係』)。彼の義挙は未遂に終わったが、その行跡は幕末の勤皇志士に強烈な影響を与え、明治維新の先駆を成したともいわれる。

そこで以下では、式部百五十年年祭にあたり星野恒氏が執筆した彼の小伝『勤王家竹内式部先生小伝』(昭和13年、新潟市教育会発行)に依りながら、彼の偉大な事績に触れたいと思う。

竹内式部は正徳二年、越後の医家に生まれた。幼くして穎敏であり、十七八の時に京都に遊学してからは、松岡仲良に国学を学んだ。仲良は式部の才器を認めその師の玉木葦斎を紹介して従学せしめたが、この葦斎は山崎闇斎の孫弟子であったから、ここに式部は崎門垂加の学と邂逅し、以後目覚ましい勢いで神儒の学を修得して行く。

また、式部は自らの学資で家計に迷惑を掛けたくないという理由から、公家の名門である徳大寺家に仕え、そこでの家務を手伝いながら学問を続けた。この徳大寺家への奉公こそ、式部が朝廷への足掛かりを築き、のちに宝暦事件を引き起こすに至った端緒になろうとは、彼も夢想だにしなかったろう。

その後、彼の学問はいよいよ進み、この頃からおそらくは上述した葦斎の紹介で、望楠軒の西依成斎や松岡如庵等とも交流を持つようになった。のちに式部が幕府に召し捕られたとき、彼と望楠軒との関係が問題になったが、後述する様に、式部の思想と行動を観る限り、彼が強斎に始まる望楠軒の学統に決定的な影響を受けているとは間違いがない。

さて、徳大寺家に入った式部であるが、彼はそこで当主の実憲、公城父子に学を講じたのを皮切りに、久我、正親町、烏丸、坊城、西洞院など、天子近習の堂上方(天皇側近の公家衆)に対して、神儒の経典を講じて、勤皇思想を鼓吹して行った。その根底には現下に於ける皇室の衰退が、君臣の不学不徳に起因しているという切実な問題意識があったという。

かくして式部の思想は朝廷の内外に浸透し、その門下は七八百人に及んだ。そしてこの時に当たり、時の桃園天皇(第116代)が若くして英邁にましましたことは、式部やその門下の堂上方にとって、皇運挽回の好機と思われたのも推測に難くない。

しかし、いつの世も善はその実現の過程で悪の妨害に遭遇する。式部の講学を通じて闇斎垂加の学が朝廷に広まるに従い、それまで朝廷に於ける神道の主流たりし吉田神道に陰りが指し始めた。そこでこれを危惧し式部に嫉妬した神祇伯の吉田雄之は、時の関白一條道香に式部を誣告し、彼らは式部一派を朝廷から排斥するため、相謀ってこれを京都所司代の松平輝高に告発したのである。ときに宝暦六年。竹内式部四十四歳のことであった。

(崎門学研究会)

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