『崎門学者、梅田雲浜』(『崎門学報』第五号より転載)

梅田雲浜生誕200年

梅田雲浜肖像今年は幕末の志士、梅田雲浜の生誕200年です。梅田雲浜は、文化12年(1815)6月7日、若狭小浜藩に生まれました。若くして崎門学を修め、黒船来航以降は、京都を中心に尊攘派志士の領袖として活躍しました。なかでも日米修好通商条約への勅許を奏請した老中の堀田正睦(まさよし)に対して孝明天皇が下された勅答は、雲浜が青蓮院宮尊融法親王(久邇宮朝彦親王)に建白した意見書が原案になったとされ、さらにその後、朝廷が水戸に下された「戊午の密勅」もまた雲浜の働きかけによるものとする説があります。

雲浜は、幕末における勤皇運動の魁として、天下の志気を鼓舞し、明治維新の端緒を開く重要な働きをしましたが、それ故に幕府からは「悪謀四天王」の一人と目され、「安政の大獄」ではおよそ百二十人いたとされる検挙者のなかで最初に捕縛され、安政6年(1859)に獄死しました。一般にその功績は、橋本左内や吉田松陰、西郷隆盛といった、維新の元勲ほど知られてはおりませんが、西郷は雲浜の人物を評して「雲浜今に生きながらえてゐたならば、我々は執鞭の徒に過ぎないであろう」と述べています。

雲浜と崎門学

幕末の当初、幕府の外交に定見なく、諸藩はいまだ幕藩体制に呪縛されている中にあって、雲浜は一介の浪人儒者の立場からいち早く皇室中心主義を掲げ、諸藩の間を東奔西走し、尊攘派の一大ネットワークを作り出しました。その思想の根本をなし、彼の行動に指針を与えたのが崎門学です。江戸時代前期、山崎闇斎によって創始された崎門学は、朱子学的な大義名分論によって尊皇斥覇の思想を鼓吹し、その学は、闇斎の高弟である浅見絅斎、さらにその弟子の若林強斎によって受け継がれました。強斎は京都に忠臣楠公の名を仰いだ「望楠軒」を開き、多くの門弟を育てましたが、なかでも優秀であった小野鶴山と西依成斎は共に小浜藩に招聘され、小浜に崎門学を伝え、さらにその後京都に戻った成斎は望楠軒の講主として崎門の学統を守りました。

こうした機縁により、以来、崎門学と小浜藩は深く結び付き、藩校の順造館では崎門学によって藩士が教育され、また望楠軒は小浜藩の実質的な管理下に置かれるようになります。小浜出身の雲浜もまた、若き日に順造館で学び、後に上京して望楠軒に入門しています。その後、天保元年、雲浜16歳の時に江戸に遊学して山口菅山に入門しますが、この菅山もまた小浜藩士で、前述した西依成斎と小野鶴山の門人であり、菅山の門人には薩摩志士の有馬新七等がおります。そして天保14年、29歳の時には、望楠軒の講主に就いて崎門学の第一人者と目されるに至りました。

困学の志士

雲浜の生涯の大半は貧乏で苦学を強いられたようです。彼は天保11年26歳の時に、多年の修学を終えて江戸から小浜に帰ると、その翌年には大津の崎門学者である上原立斎に入門しようとしましたが、立斎はかえって雲浜の学識に敬服し、雲浜は大津に留まって湖南塾という名の塾を開きました。その時、門人となった大和五条の乾十郎は後に天誅組に加わったことでも有名ですが、彼が友人に出した手紙には「梅田氏至って困窮にて、すべて別会計にしなければならないから、夜具ふとんを送って下さい。ぜん、わん等も入用であるが、費用もかかるゆえ、お送りには及ばない。今日から米、まき、炭、油、はきもの等も調えたいが、一文無しゆえ、僕の八家文(唐宋八家文読本)を典物にして金子二歩ばかり都合してもらいたい。五条から綿入が到着したらお送り下さい。梅田氏の経義の話、ならびに利義の弁、うけたまわり大に敬服した」と書いています。

当時の貧乏生活が忍ばれますが、それは雲浜が大津から京都に戻った後も、望楠軒の講主を無報酬で引き受けた為にあまり変わらなかったそうです。それでも、雲浜の身分は小身ではありますが小浜藩士であり、かろうじて生活は維持できたようです。弘化元年、雲浜30歳の時には前述した上原立斎の長女信子(しんこ)と結婚し、32歳の時には長女竹、38歳の時には長男繁太郎が誕生しています。これでようやく雲浜にもささやかな家庭的幸福が訪れるかに思われましたが、ときあたかも我が国の周辺では外国船の往来が頻繁になり、長男繁太郎が生まれた翌年の嘉永六年にペリーが浦賀に来航したことによって、事態は一変風雲急を告げるに至ります。その前年、雲浜は、小浜藩主の酒井忠義に「藩政の得失と外寇防御」に関する意見書を提出したのですが、それがかえって藩主の逆鱗に触れ、ついに彼は藩籍を削られてしまいます。かくして雲浜は一介の浪人となったのですが、その頃から百日もの永きにわたる病気を患い困窮のために京都にも住みかねて、高雄山に移りましたが、あまりにも不便なので、比叡山の麓にある左京区一乗寺に転居しました。

今年の9月19日から坪内隆彦兄と一泊二日で京都を訪れましたが、その際我々が最初に向かったのは、この一乗寺の葉山観音堂内にある旧雲浜宅跡でした。タクシーで坂を上ってしばらく行ったところにその場所はありましたが、先日の豪雨で土砂崩れが起こったらしい山肌の斜面はビニールシートで覆われ、「梅田雲浜先生旧蹟」と題した石碑がひっそりと佇んでいました。その石碑には「雲浜翁嘉永三年(五年の誤り)葉山に寓し、勤皇諸同志と国事を議し、或は四明山下一閑人石川丈山を追慕して、閑に風月を弄せり。長岡監物の臣某が来て、浅見絅斎の赤心報国刀を求め、山県元帥が謁して教を請ひ、翁の夫人信子が「拾ふ木葉」の名歌を作りしも皆此時なりき。・・・」(原文カタカナ)と記されていました。碑文の通り、雲浜はこの場所で妻子と閑居し、写本をするなどして生計を助けましたが、その生活は、一日に二食か一食、断食することもしばしばで、妻の信子が詠んだ「樵りおきし軒のつま木もたきはてゝ拾ふ木の葉のつもる間ぞなき」の歌は当時の苦境を忍ばせ胸が痛みます。

尊皇から勤皇へ

嘉永6年のペリー来航に対して幕府は狼狽するばかりで一定の方針なく、畏れ多くも孝明天皇は痛く宸襟を悩まされ給いました。幕府はその場凌ぎの対応で一度はペリーを追い返しましたが、翌安政元年にペリーが再来航すると、遂にその軍事的恫喝に屈して日米和親条約を締結します。かくして徳川幕府二百年来の鎖国政策は終止符を打ったのでありました。この最初の来航に対して雲浜は、京都で平生意気投合していた同志の梁川星巌や頼三樹三郎(山陽の子)と対策を協議しておりましたが、その後再来航の報に接し、もはや時局を座視することはできないと、決起して江戸に急行し、志士としての行動を開始しました。ときに雲浜四十歳。それまでの尊皇家、雲浜から、勤皇家、雲浜の誕生です。江戸では志士鳥山新三郎の家で吉田松陰等諸藩の同志と会見し、対策を協議しています。

まず雲浜が目を付けたのは水戸です。言うまでもなく、水戸藩は徳川御三家の一にして水戸学の本家であり、前藩主の徳川斉昭は諸侯の中で尊皇攘夷を主唱しておりました。そこで、雲浜はこの水戸を動かして勤皇の兵を起こし、幕府に攘夷を迫ろうとしたのです。そのために、江戸では藤田東湖、更に水戸に赴いて武田耕雲斎、金子孫二郎、高橋多一郎等の志士と会見しましたが、何れも藩論をまとめるには至りませんでした。

かくして水戸から帰って後、今度は福井に赴き、村田已三郎や岡田淳介等の同志と時務を論じ、尊攘論を鼓吹するなどしています。この岡田淳介の兄は藩儒、吉田東篁であり、東篁は橋本左内に崎門学を教えた人物です。また水戸学は、『保建大記』の著者である栗山潜鋒等の闇斎門下を通じて崎門学の影響を受けており、雲浜が志士の活動の皮切りに、この崎門の学風を受けた水戸と福井に赴いたのは、崎門学徒たる雲浜の面目躍如たるものがあります。

同じく安政元年四月、御所で大規模な火災があり、御所の守護体制の不備が露呈しました。京都所司代は、朝廷を守護するといいながら、実際には幕府の監視機関に過ぎず、皇居は殆ど無防備の状態にあったのです。そこで雲浜は朝廷直属の親兵を錬成する必要を痛感し、その為大和の十津川郷士の練兵に着手します。歴史的に十津川は尊皇心が強く、南北朝時代、十津川郷士は南朝に付いて後醍醐天皇の第三皇子である大塔宮護良親王を北朝から匿ったことでも知られます。後年、雲浜に指導された十津川郷士は、朝廷から召されて京都を守護し、戊辰の役では第一御親兵として北越地方に出征しました。

さて、福井から雲浜が帰ると、妻の信子と長男の繁太郎は病気で寝込んでおりました。この為、家事は雲浜がすることになりましたが、ときあたかもロシアのプチャーチンの乗った軍艦が大阪湾に現れ、大阪から近い京都は大騒ぎになりました。これを見た十津川郷士は御所の安危を憂い、雲浜を軍師に迎えてロシア船を打ち払わんと大阪に向かいます。雲浜は郷士の招請を快諾しましたが、心残りは病床の妻子でありました。雲浜の詩として有名な以下の詩は、かくしてロシアの撃攘に赴かんとする雲浜が出陣に際して賦したものです。

妻は病床に臥し児は飢えに叫ぶ

身を挺して直に戎夷に当らんと欲す

今朝死別と生別と

唯皇天后土の知る有り

ところが雲浜一行が大阪に到着した時は、すでにプチャーチンは大阪湾を去った後でした。雲浜が空しく帰京した時、妻の信子は重篤に陥り、ついに安政2年三月、長男繁太郎と長女の竹を残して亡くなりました。享年29歳の若さでした。雲浜は、国事の為に人一倍苦労をかけた信子を哀れみ、生涯彼女の位牌が入った小さな小箱を懐に入れて持ち歩いていたと云われます。更に翌年の安政3年二月には長男繁太郎が五歳にして病死しました。僅かの間に不幸が重なり、雲浜の心境は悲痛を極めたでしょう。それでも、彼は国事を諦めませんでした。

何としても幕府の弱腰外交を改めるには、朝廷を奉り、大藩を動かして攘夷の実を挙げる他ない。そう考えた雲浜は、外様の雄藩である長州に目を付け、安政三年萩に赴いて坪井九右衛門等の有力者と会見しました。しかし、水戸遊説の失敗に学んだか、今度は直ちに攘夷を説くのではなく、まず長州と京阪地方の間に物産の交易を興して勤皇の端緒を開くべきことを長州に説いたのです。後にこの意見は長州藩主毛利慶親の採用する所となり、長州側では宍戸九郎兵衛や前述の坪井を窓口として米、塩、ろう、乾魚、半紙等を、上方からは大和高田の富豪、村島長兵衛、大和五条の乾十郎などを窓口として、呉服類、小間物、薬種、材木等が取引されました。長州遊説に際して雲浜は吉田松陰を訪ね、松下村塾の額を書いております。それは当時松陰が江戸に送った手紙に「去臘(安政三年十二月)京師梅田源次郎来遊、正月(安政四年)中頃迄逗留致し候。満城心服の様子に相聞え候。松下村塾の額面も頼み候て出来申し候」と記してあり、雲浜が松下村塾の塾生を含む長州人士のなかで信望を得たことが伺われます。かくして雲浜は長州との間に特別なパイプを築くことに成功し、それは後の勤皇活動でフル活用されました。

その頃の雲浜の門人や知人を挙げると、門人では大和の乾十郎、若狭の行方千三郎、長州の赤根武人、播州の大高又次郎、紀伊の伊沢宜庵、知己では肥後の宮部鼎蔵、長州の宍戸九郎兵衛、福原越後、浦靱負、僧月性、入江九一、久坂玄瑞、高杉晋作、大楽源太郎、前原一誠、野村靖、水戸の桜任蔵、菊池為三郎、豊田小太郎、薩摩の西郷隆盛、伊知地正治、因幡の安達清一郎、姫路の河合総兵衛、秋元正一郎、名古屋の大道寺泰安、阿波の竹沢勘三郎、十津川の深瀬繁理、野崎主計、田中主馬造、丸太監物、藤井織之助と、実に広範な人脈を築いております。

朝廷への建策

安政三年七月、米国総領事のハリスが来日し、第十三代将軍の徳川家定に米国大統領の国書を捧呈しました。その国書には、日米両国が先の和親条約を改正して通商条約を締結する必要が説かれておりました。幕府はハリスの説得に応じ、林大学頭等を京都に遣って、朝廷の勅許を得ようとしました。ところが、孝明天皇はあくまで攘夷を思し召されておりましたので、これをお許しになりませんでした。そこで今度は老中の掘田正睦が京都に赴いて、条約の勅許を奏請いたしましたが、天皇は以下のような勅答を下されて、この奏請を却下せられました。

墨夷のことは、神州の大患、国家の安危に係り、まことに容易ならず。神宮を始め奉り、御代々へ対させられ恐れ多くおぼしめさる。東照宮以来の良法を変革の儀は、人身の帰向に相かかわり、永世の安全ははかり難く、深く叡慮を悩まさる。もっとも往年下田開港の条約(和親)も容易ならざる上に、今度仮条約(通商)のおもむきにては、御国威立ち難くおぼしめさる。かつ諸臣群議にも、今度の条約はことに御国体にかかわり、後患測り難きの由言上せり。なお三家已下諸大名へ台命を下し、再応衆議の上言上あるべく仰せ出さる。

この勅答によって、孝明天皇のご主意が攘夷であることが満天下に明らかとなり、条約調印を目指す幕府との齟齬が露呈しました。元来幕府は政治の実権を握りながらも、名目上は朝廷の大政を委任された存在でありますので、朝廷の意向に反する決定は、いかに幕府といえども存立の正当性を揺るがしかねません。事実この勅答によって幕府の面目は丸潰れとなり、尊攘派が一気に勢いづきました。事ほど左様に重要なこの勅答ですが、実は雲浜の建白が原案になったと言われているのです。先に雲浜は、京都で上述した諸国の志士達の他に、有力な公家堂上方の家臣を知己に得ました。その人脈は、有栖川宮家の豊島太宰少弐、飯田左馬、鷹司家の小林民部権大輔、高橋兵部権大輔、三国大学、三条家の森寺因幡守、丹羽豊前守、中山家の田中河内介らに及び、とりわけ青蓮院宮尊融法親王(後の久邇宮朝彦親王)の家臣、伊丹蔵人、山田勘解由の二人は雲浜に入門して師弟の交わりを結びました。当時青蓮院宮は、天資英邁で「今大塔宮(護良親王)」と称され、孝明天皇の最高顧問として特に信頼を蒙っておられました。そこで雲浜は、門下の伊丹と山田を通じてその青蓮院宮の信任を得ることに成功し、宮に建白した意見書が天皇に内奏され、かの勅答の原案に採用された、という次第です。幕府の目を逃れるため、「江戸風説書」と題されたこの意見書は、幕府と朝廷の問答形式で認められており、一読する限り、前掲した勅答との関係は明らかです。大変重要と思いますので、長文ですが以下に全文を引用します。

 言上 先だって仰せ出された勅掟のおもむき、三家以下諸大名へ再応衆議にかけて、各々存じ寄りを申し出させたところ、方今万国の形勢一変の折から、御処置の次第によっては、たちまち仇敵となり、各国が目前にさしあつまり、全国の大事におよんで、宸襟を安んじ奉るときもないように至るにつき、条約を取り結び、平穏の御取扱い方ありたいとのこと。諸侯が一同右のとおり定議いたした上は、条約の儀、すみやかに御許容あらせられたく存じ奉る。

 勅答 今般三家以下、諸大名衆議の趣、叡聞に達する。一応は道理に聞ゆるも、せんだっても仰せ出されたとおり、条約の儀を御許容になっては、一日も御国威立ち難く、御国威立たざれば、皇祖御代々へ対させられておそれ多く、なおまたこのたび再応衆議の上、叡慮を決せられ、神宮へ御伺い相成りしところ、条約の儀は、神慮にかなわせられぬゆえ、衆議にかかわらず、御許容に相成らない。

言上 今般諸大名同意の上、言上いたしたのに、お許しがなくては、たちまちに各国襲来して戦争となる。その節防御の措置はいかが遊ばされまするや。

 勅答 普天の下、卒土の浜、皆これ王臣であるから、一応は諸侯へ勅命を下される。たとえ勅命に応じない諸侯があるとも、すでにご英断あらせられた上は、三公列卿百官、その外天下有志の者どもをもって、御親征遊ばさるべく、この旨早々帰府の上、大樹(将軍)へ申し入るるよう仰せ出さる。

 言上 天下の御政道は、年来将軍家へ御任せになっていることゆえ、天下の決断所で、諸侯評議の上、言上におよんだのに、お許しがなくては、恐れながら至当の御廟議とも存じませぬ。かつ万民の滅亡におよぶことは、いかが思召されまするや。

 勅答 幕府にては、東照宮以来の良法を守って、朝家を守護し、諸侯を統べ、万民を安んじたるゆえ、年来政道をお任せになったものである。しかるに今般東照宮以来の良法を変革し、外夷と同盟することは、東照宮の神慮もいかがあろうか。諸侯にも不服の者があるおもむき、天下人心の向背にもかかわることゆえ、天朝へ相伺いたるに、深く叡慮を悩ませられ、再応御勘考遊ばされたるも、皇国の御威光相立たず、御国体をけがしては、すでに早や滅亡も同然のことである。よってこのたび、神宮の御神慮を御伺いの上、御英断遊ばされたのである。万一安危の場合におよぶとも、万民とともに御存亡を同じうし遊ばさるべく、神宮に誓わせられて、叡慮を御変更にならない。この上は百応言上におよぶとも、お許しはないお気色である。この旨、三家以下衆議の諸侯へも申し聞けべく、その方在留の義は勝手に仕るべきこと。

この勅答案が上程されたのが安政五年二月、勅答の降下は翌三月です。老中の堀田は仕方なく京都を去り、四月に江戸に帰着しました。ところが、堀田帰着早々大老に就任した井伊直弼は、独断で条約に調印したのみならず、さらにオランダ、ロシア、イギリスとも相次いで通商条約を結んで、その結果を届け捨て同然に、宿次奉書、すなわち今の普通郵便をもって報告しました。この無礼に孝明天皇は激怒し給い、畏れ多くも朝臣たちに御譲位の内勅を下されます。これに朝臣達は何とか天皇をお諫めし、徳川三家か大老の内一人を召喚して事情を尋問しようとしましたが、井伊はこの召命をも黙殺しました。ことここに至って朝廷は幕府の「違勅不信」の罪を責め、幕政改革と外侮への防御を命じる密勅を水戸藩に下します。それが安政五年で、干支で言うと戊午に当たり、幕府ではなく、水戸へ特別に下されたので、「戊午の密勅」ないしは「戊午の別勅」と言われます。もとより朝廷から藩に直接勅命を賜るというのは異例中の異例であり、安政三年の勅答によって明らかになった朝幕間の齟齬は、この勅命によって決裂に発展し、徳川幕府の正体が最早朝敵勢力に過ぎないことが暴露されたのでした。実は、この勅命降下の裏にも雲浜の暗躍があったと言われております。彼は水戸藩の鵜飼知信・幸吉父子、頼三樹三郎、薩摩藩の日下部伊三次等と密議して、幕府は朝命に従わないので水戸に降下し、徳川斉昭を首班とした幕政改革を行うことを企図しておりました。またこの企図には彼の知己である梁川星巌、池内大学、西郷隆盛、小林民部、宇喜多恵、近衛家の老女村岡も関与していたと言われます。朝廷より下された内勅は、まず京都にある鵜飼知信に伝達され、その勅書は知信の子幸吉が日下部伊三次と二人で極秘に水戸にもたらしました。

旧主への直諫、捕縛

勅命降下の急報は、青蓮院宮の家臣である伊丹蔵人によって雲浜に届きました。彼は、旧主の酒井忠義が譜代大名で井伊直弼と近く、京都所司代に就任したために朝敵の汚名を被ることを憂慮し、八月八日付で小浜藩の坪内孫兵衛に宛てた書状で勅命降下の状況を報告するとともに、重役の覚悟を促して忠義を所司代から辞任させようとしました。さらに、九月三日、小浜から行列を引き連れて京都に入ろうとした忠義に直訴し、君臣の大義名分を説いて、所司代への就任を辞退するよう強く諫めたのでした。これらは一重に旧主への恩義に報いんとする赤誠より出でた行動でありましたが、上述した坪内孫兵衛は、雲浜の書状の内容を井伊大老の腹心である長野主膳に通報し、主膳は所司代の酒井忠義に対して、「第一大切の御召捕者」である雲浜の捕縛を迫りました。かくしてついに忠義は伏見奉行の内藤正縄に命じて、雲浜を捕縛したのでした。ときあたかも安政五年九月七日未明、そのとき雲浜が詠んだ

契りしそのあらましも今はただおもひ絶えよと秋風ぞ吹く

君が代を思ふ心の一すぢにわが身ありとも思はざりけり

の二首は、そのまま彼の辞世の句となりました。この雲浜の捕縛を皮切りに、世に云う「安政の大獄」が始まります。周知の様にこの大獄で、吉田松陰や橋本左内の他、多くの志士、公家家臣から幕臣、大名に至るまで総勢120人が処刑されたと云われますが、なかでも雲浜が最初の捕縛者となったのは、当時の彼が京都に策動する尊攘派の枢軸として、幕府から梁川星巌、頼三樹三郎、池内大学と共に「悪謀四天王」の一人と目されていたからです。雲浜は京都で捕縛された後、軍鶏籠(とうまるかご)で江戸に護送せられ、獄中で凄惨な拷問を受けました。そしてついに病を発し、安政六年九月十四日獄死しました。享年、四十五歳。

安政の大獄とは何か

(ここまで梅田雲浜の生涯を略述いたしましたが、ここからは彼の思想的真価について、今少し述べたいと思います。)

周知のように、雲浜を死に至らしめた安政の大獄の首謀者は大老の井伊直弼ですが、奇しくも井伊は雲浜と生年が同じ文化12年(1815)であり、今年は井伊直弼の生誕200年でもあります。そこで井伊の国元である彦根では、市を挙げた盛大な記念祭典が催され、その触れ込みには、井伊が「日本の行く末を本気で憂い開国の英断を行った」と紹介されています。また、その「開国の英断」を行った井伊に反対して処刑された雲浜等尊攘派の志士たちを目して、世界情勢に暗く、開国に反対した頑迷な人たちと見なす意見もあります。あるいはさらにこの立場に立てば、井伊が尊攘派を弾圧した安政の大獄は、井伊等開明派による開国論と雲浜等守旧派による攘夷論との衝突だという見方も成り立つでしょう。

しかし、崎門学の内田周平先生によると、これらは何れも誤った見方です。まず、安政元年の日米和親条約は言うまでもなく、その後の日米修好通商条約も、安政四年から老中の堀田正睦がハリスと協議して草案を作り、朝廷に勅許を奏請していたのであり、井伊が大老に就任した安政五年六月には、既に開国が幕府の既定路線になっておりました。また調印に関しても、これを決行したのは堀田老中であり、井伊は朝廷への申し開きで「条約は、井伊が病気で登城できなかった隙に堀田が部下に申しつけて調印させた」と奏上させています。このように、井伊を「開国の英雄」とするのは明らかな間違いです。さらに尊攘派が頑迷な守旧派と言うのも間違いです。彼らは必ずしも開国に反対していた訳ではないし、むしろいわゆる「開国派」よりもよほど海外の情勢に明るく積極進取の気性に富んでいました。雲浜と同じく安政の大獄で倒れた橋本左内は、早くから蘭学や英語、ドイツ語の洋学に親しみ、我が国の積極的な海外雄飛を唱え、吉田松陰に至っては自ら黒船に乗ってアメリカに渡航しようとした位です。なにより、大獄では、開国を決行した幕府方の張本人である堀田やその側近である川路聖謨も処断されているのですから、安政の大獄を「井伊=開明=開国」に対する「尊攘派=頑迷=攘夷」の構図で捉えることは出来ないのです。

また以上の対外問題とは別に、安政の大獄は、幕府内部の将軍継嗣問題に発端する、徳川斉昭等一橋派と井伊大老等紀州派の権力闘争として捉えられます。すなわち嫡子のいない第十三代将軍家定の跡目として、幕府では徳川斉昭の子である一橋家の徳川慶喜を擁立しようとする一派と、家定の従兄弟である紀州藩主の徳川慶福を擁立しようとする一派が相分かれて争っておりましたが、井伊は大老就任早々将軍継嗣を慶福に決定し、一橋派の斉昭・慶喜父子、尾張藩主の徳川慶恕、越前藩主の松平慶永、土佐藩主の山内容堂等に蟄居謹慎を命じました。その上で、雲浜は一橋派に付いて運動したので、井伊に弾圧された、とする見方です。前述したように、水戸は水戸学の本家で尊皇心が強く、徳川斉昭を中心した攘夷勢力の急先鋒ではありましたが、所詮は徳川の親藩であり、また越前の松平も土佐の山内も、朝廷を尊崇しながらもその立場は徳川の譜代に過ぎませんでした。しかるに雲浜は、一介の浪人として天皇の直臣を自負し、朝旨を奉じて幕府政治そのものを否定したのですから、彼が一橋派に付いて弾圧されたとする見方はミスリーディングです。このように、雲浜の思想と行動の本質は一重に皇室中心主義であり、君臣の大義名分を説く崎門学の精神に他なりませんでした。雲浜の門人で、後にその姪の登美子を妻とした山田勘解由は、雲浜の勤皇論について次のように語ったそうです。

雲浜先生の志は、唯一の勤王といふことに在つて、一片の誠忠、何事も、上様(孝明天皇)の御思召に従はなければならぬといふ考を持つて居られたのである。そこで或時青蓮院宮に謁して、内々上様の御思召を伺ひ奉りたるに、上様は攘夷の御思召にあらせらるゝと聞いて、彌彌(いよいよ)一国の臣民たる者は、一同、上様の御思召を体し奉つて、国家のため攘夷に尽力しなければならぬといふ決心をせられて、是より益々其の持説を固くせられたのである。

先生の卓識にして天下の大勢を達観し、今日あるを予想するの明がなかつたといふことは決してない。攘夷の到底遂げられないといふこと、開国の遂に已むべからずといふことは、固より知って居られたのである。先生が攘夷の考を抱かれた主意は、直ちに各国の請を許して開港するときは、外侮を招くの虞がある。故に攘夷を断行して、内は国家の元気を鼓舞し、外は他国の侮を禦がなければならないといふに在つたのです。先生は、上様の御主意に従ひ、幕府を同意せしめ、全国を糾合し、上下一致して外に当り、一たび攘夷を決行して二百余年間泰平の夢を貪りたる士民の惰眠を覚醒し、然る後に開国の国是を採るとい深い考を持つて居られたのである。先生は幕府に対しても、最初から決して無理に之を討ち倒さうといふ過激な考を持つて居られたのではない。唯幕府をして是非共、上様の御意に従はしめなければならぬといふ希望を持つて居られたのである。

攘夷でも討幕でもなく、ただひたすらに勤皇である。ここに崎門学者たる雲浜の本領があったということです。

雲浜の没後

雲浜の死後、その亡骸は彼の身元を預かった小倉藩主小笠原家の菩提寺である東京浅草の海禅寺に葬られました。また雲浜の訃報を小浜の実家で聞いた姪の登美子は、悲嘆の内に雲浜元服の時の前髪を携えて京都に上りました。そして雲浜の門人の北村屋太助に晴れの着物や髪飾りなど、ある限りの物を売って雲浜の墓石を誂えると、鳥辺山の安祥院にある亡き妻信子の墓が墓石もなく、人に踏み荒らされて見分けが付かないのを見てそこに墓石を立て、雲浜の前髪を遺骸の代わりに葬りました。墓石の文字は、雲浜の門人である巽太郎が世をはばかり「雲浜先生の墓」とのみ記しました。またこのことを聞いた、宍戸九郎兵衛、福原与曾兵衛、入江九一、久坂玄瑞、秋元正一郎らの志士は登美子に香料を送ってきたとのことです。

先の京都行脚では、九月二十日に小生等もこの安祥院にある雲浜の墓をお参りしました。そこは清水寺に至る参道に面した境内を奥に入った所にありましたが、参道が多くの観光客でごった返していたのとは対照的に、夕暮れ時の墓地には人影とてなく、墓地の一角にひっそりと佇む雲浜のお墓には、彼の命日である九月十四日に親族の方々が手向けたと思しきお花がお供えしてありました。小生等は、雲浜の墓前でしばしの間合掌瞑目し、波乱に満ちた雲浜の生涯に想いを馳せると共に、彼が実践した崎門学の精神に深く想いを致したのでありました。

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