チャンドラ・ボース忌法要に参列

DSC_0008スバス・チャンドラ・ボース(1897~1945)の命日である今日八月十八日、ボースの遺骨がある杉並の蓮光寺で営まれた法要に参加してきました。総勢百人弱の参列者がおり、なかにはインド人やボースと縁のある方々の姿も見られました。

チャンドラ・ボース

チャンドラ・ボース

チャンドラ・ボースは言わずと知れたインド独立の英雄であり、若くして対英独立闘争の指導者として頭角を現すも、英国官憲の迫害を逃れて第二次大戦中のドイツに亡命しました。そして我が国が大東亜戦争の開戦後にマレー作戦を開始して以降は、ドイツのUボートを乗り継いで我が国に亡命し、シンガポールにおいてF機関の藤原岩市大佐等の助力によって創設されたインド国民軍の最高司令官に就任し、さらにはインド自由仮政府を樹立して対英米宣戦を布告しました。ボースは昭和十八年に東京で開かれた大東亜会議にもインド自由仮政府の代表として出席し、歴史的な演説を残しています。その後、インパール作戦ではインド国民軍を率いて我が軍と共に戦いましたが物量に勝る英軍に敗れました。我が国の敗戦後、ボースは対英闘争を続けるため、一か八かソ連への亡命を決意します。しかし台湾から飛び立った飛行機が墜落して非業の死を遂げました。それが終戦からわずか三日後の昭和二十年八月十八日。享年四十八歳でした。

境内に立つボースの胸像と記念碑

境内に立つボースの胸像と記念碑

ボースの死後、その遺骨は我が国に持ち帰られ、この蓮光寺で葬儀が行われたことから現在にいたるまで同寺が遺骨を管理し、毎年追善供養が行われております。今日住職の話にもありましたが、ボースの遺骨を引き受けた先代の住職も、こここまで長くお預かりするとは夢にも思っていなかったそうです。また最近ではベルリンに住むボースのご息女が、日印両政府の間に立って遺骨返還の交渉をしているとのことでした。インド国民軍と藤原岩市大佐のF機関などについては、以前小生が書いた文章(「百術は一誠に如かず-藤原岩市とF機関」平成二十五年五月)があるので是非そちらをご参照ください。

ここでは特に、ボースが大東亜会議の帰路、汪兆銘の招待で立ち寄った南京において、蒋介石率いる重慶政府に向けて日中和平を呼びかけた放送の一部を引用します。この演説は東亜の趨勢を見据え、歴史的な大局に立った日中和平の必要を説いたもので、今日の日中関係にも通用する重要な意味を持つように思われます。この一文を読むだけでもボースがいかに優れた歴史認識を抱き、的確な情勢判断を下しうる卓越した指導者あったかが判ります。

ボースいわく「重慶の諸君は、孫文を近代中国の父と仰ぐが、我々インドにとっても、孫文はそれ以上の存在である。彼がインドの友であることは、彼が終始インド独立の確固たる支持者であったこと、頑強な英帝国主義の反対者であったこと、それに加えて忠実なアジア解放者であったことを見てもわかる。―いままでアジア諸民族の解放と結集の障害になっていたのは、一つは西欧帝国主義列強の存在、その二つは、アジア弱小諸国への援助の手を差し伸べるアジアの勢力の欠如にあった。後者の役割を演ずるのは、ひとり日本のみである。ところが、日本がその役割を果たすためには、西欧帝国主義と決裂しないかぎり不可能だった。その待望の時期はついに一九四一年十二月、日本が完全に英米に対し決裂の運命的宣言をし、生か死かの闘争に突入したときに訪れたのである。わたしは過去において、中国が日本にもった不満はよく知っているし、中国が日本と戦う決意をした経路も知っている。しかし五年前の日本はもはや存在しない。西欧との決裂以来、一大変革が日本全土を風靡した。この大変化は、自身の目で直接目撃したものでなくては信じられないかもしれないが、新しい意識が日本人の魂をつかんでいる。」

祖国の独立に一命を捧げた偉大な指導者の御霊に心から哀悼の誠を捧げた次第です。

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