【史料】有馬新七先生資料『再び平安城を過ぐるの記』(安政三年十一月二十四日、原漢文)

夫れ険を設け城郭を修むるは国を守る所以之(こ)れ具(とも)に王者の忽(ゆるがせ)にせざる所なり。故に古今帝王、皆険要の守、城郭の国有り。

神武天皇の大和橿原に城し、

祟神天皇の大和瑞城に城し、

天智天皇の近江滋賀に城すの類是れなり。

然して我が先生之(こ)れ有るを恃(たのみ)と存じ為す所以に非ざるなり。故に曰く、徳在りて険在らずと。蓋し君臣情義有り、上下名分正しく、賢を任じ能を使い、有功を賞し、有罪を討ち、祭祀を崇尊し以て民に敬を教え、武を尚び以て朝威を振うを守国の根元を為す所以なり。夫(そ)れ先王、徳光昭明、威霊宇宙を覆い名賢英雄、道臣・大彦、鎌足の如く、徳其の君に協い、王事に勤労し、以て赫赫の業を成し、不庭を攘(はら)い、国家を安んずる所以なり。平安城の地と為すなり、陰を負い、陽に面し、土沃水冽、山河襟帯、実に皇城の地と為し、是(こ)れ以て桓武天皇遷都以来、未だ嘗て移易有らず。然りと雖(いえど)も其の本を修めず、徒らに険要を恃むは、則ち亦以て国を守る能わざるなり。故に保元・治承より以て遷り、乱賊寇乱を為し、元弘・建武に至り則ち車駕しばしば叡山に幸(みゆき)し、皇業遂に吉野に於て偏安す、嗚呼国厥家の有る者にして其の念ぜざるべきか。弘化用辰の冬、武麻呂平安城に至り、鴨川の東桜木街に寓舎し、明年乙巳春、竊竊(ひそ)かに宸極の餘光を仰拝し、その翌年丙牛春正月天皇崩じ、(仁孝天皇と奉称す)涕泣悲哭、豈に言の勝(まさ)らんか。其の後帰郷し、今上天皇即位し、武麻呂草野遠僻に在りと雖(いえど)も竊かに朝廷を仰奉し、君父を忠敬し、名教を維持するの志、未だ嘗て一月も忘懐する能わざること、既に二十餘年。今年安政丙辰冬十一月、再び平安城を過ぎ、東山の秀景、鴨川の清流、其の他山色雲物固(もと)より昔月と異ならずと雖も、人情世体、日に移り月に換え、慨然鄙懐を動かし、宮城前に至り、姓名を述べ伏服敬拝、仰いで宮殿を望み、則ち其の制造昔日と殊に異る。(昔日、宮殿皆小板を以て之を葺(ふ)くも安政甲寅十一月、宮殿炎上是れを以て幕府の之(こ)れを修造し、瓦を以て之(こ)れを葺く。)大息憂歎、何を言うに堪んか。涙を垂れ伏し見に帰る。嗚呼祖宗忠孝以て皇基を建て、文武以て士民を振興し、威霊衆宇を照らし徳澤天下に周(あまね)く寳祚(ほうそ)無窮の神勅、凛凛乎として萬古に照徹す、皇統一種、錦錦天壤と易らず。不幸異端妖教之(こ)れ前に擾乱し、陋儒曲学之(こ)れ後に昏塞し、尋(つ)いで歌学柔惰婬弱の習並び起り、忠孝の道明らかならず。揆文尚武の俗振わず、廟謨遠略の慮(おもんばか)り無く、群卿百僚勢位に狃(な)れ、愉惰に安んじ奮然挺起以て天下義烈勇武の気を激昻する無く、是れ以て皇道日に陸遅し、風俗墜(つい)敗、保元治承以還、名分淆乱、而して乱賊武を接し、覇者並び起り、政権遂に武臣に移る能く名分大儀の巌、得て犯すべからず、亦得て易うべからずの実を弁明し、力を皇室に尽し、忠義偉然千古に卓越する者は、楠公正成一人のみ。然るより以還衆宇永く武人の者となり、永く厥(そ)の初(はじめ)に復(かえ)るなく、四維既に張らず、三鋼遂に横流し、非慨憂憤長大息に勝(た)えざるべけんや。然して竊かに嘗て聞く、今上天皇(諱(いみな)統仁)英邁聰(そう)敏、雄略を好み、皇室の哀墜を深憂し、慨然祖の旧業を振興するの志有り、此の実千載の一遇、人臣節を致すの時なり。且つ方今醜虜辺隙(へんげき)を窺窬し、尤も以て臣子の分を尽さざるべからざるなり。故に草野隦遠の士と雖も、苟くも能く至誠以て朝廷を奉仰し、名分を明し、人心を正し、天下の義気を鼓舞して、上朝廷の威霊を頼り、下人心固有の実然に因り、皇道奚(いづく)んぞ振起せざるべけんや。夫れ朝廷を警衛し、国土を鎮め乱を撥(おさ)め、正に反(かえ)すは、則ち武臣の節、我が忠敬の誠を尽す所以なり。丈夫皇業を振起し、旧昔に還す能わざれば則ち寧んぞ天孫の頑民となすのみならんや。然りと雖も惟だ斯の一念忠義の赤心、炳然丹の如く、死して已(や)まず、耿耿息滅すべからず、感激の余り、聊(いささ)か之(こ)れを記して以て其の志を述ぶというのみ。

冬十一月廿月平阿會牟武麻呂謹記

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