渡辺惣樹『日米衝突の根源』(2011、草思社)を読む4  支那人排斥法

 ナポレオン戦争の終結によってイギリスの大陸封鎖は解除され、世界は自由貿易帝国主義の時代に突入した。1846年にイギリスで穀物法が廃止されると、アイルランドの地主は農地を輸出用の牛や羊の放牧地に転換したため、痩せた辺境地に追いやられた小作農は、栽培が容易なジャガイモに主食を依存するようになった。しかしジャガイモへの過度な依存は、植物病の蔓延によって収穫量が激減したことによって、深刻な飢餓をもたらした(ジャガイモ飢饉)。1845年に起きた最初の飢饉から51年までの間に、アイルランドでは百万人が餓死したとされる。

 この結果、アイルラン人は、イギリスへの恨みを飲み、飢えを凌ぐためにアメリカに渡っていった。その際、彼らが渡航に使用した船はその環境の劣悪さから「棺桶船」と呼ばれ、栄養失調や伝染病によって多くの者が命を落としたという。

 新教国であるアメリカのなかで、カソリックであり、多くは教育がないアイルランド人の地位は決して高くなかった。当然彼らの大半は単純労働者として鉄道港湾の作業員や一般白人家庭の召使いとして働いたが、元来短気で気性が荒い彼らはしばしばストを引き起こし、雇用者を困らせた。

 そんなとき、彗星のように現れたのが支那人移民であり、彼らは前述した「低賃金労働者供給条約(スワード・バーリンゲーム条約)」締結以降、続々とアメリカの西海岸に押し寄せ、アイルランド人の地位を脅かし始めた。そこで彼らアイルランド人は、支那人と異なり白人として米国の参政権があることを盾に、議会に働きかけて支那人の排斥運動に取り組み、その結果、1882年には「支那人排斥法」とよばれる人種差別法が可決された。1861年から70年までの10年間で6万あまりいた支那人移民は91年から1900年までの十年間では1万人余りに激減している。つまりアメリカは、自己の都合で呼び寄せた支那人を、自ら差別して排除したことになるのである。シナにとって屈辱的なこの差別待遇は、後年我が国も経験することになる。

 

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