頭山秀三先生 放送原稿『父を語る』

以下に、先の呉竹会十周年記念大会で配布された記念冊子に収録された、頭山興助会長の御尊父、秀三先生が頭山満翁について語られた貴重な放送原稿(『父を語る』)の全文を転載致します。

この原稿は、興助先生から拝借したもので、大きさはA4サイズの和紙に活字で印刷されておりますが、秀三先生ご本人のものと思われる手書きの修正が所々に加えられております。また、表紙には、日時が昭和十九年十二月十二日午後七時、場所が上海放送局と記載されておりますので、恐らくは満翁がお亡くなりになった直後に秀三先生が上海からラジオか何かで発信された声明のために作成されたものと推測されます。さらに、上述の記念冊子には収録いたしませんでしたが、先生から拝借した原稿には、中国語の翻訳と思われる漢文も収められておりましたので、誰が読んだのかは分かりませんが、おそらく中国国民に向けても声明が発せられたものと思われます。

本文の内容に関して特筆すべきは、頭山満翁が、大東亜戦争における我が国の勝利を確信されながらも、日支事変に始まる両国の抗争をアジア全体にとっての一大恨事として痛嘆し、その早期講和と平和秩序回復を念願しておられる点です。翁は英米に対する敵愾心ははっきりと披瀝しておられますが、同じ敵国であるシナ、つまり当時の国民党政府に対する敵意は少なくとも本文の限りでは一言も口にしておられません。それは日支の反目が、アジアの分断をたくらむ英米に漁夫の利を与えるだけであることを鋭く見通しておられたからでありましょう。こうしてみると、本文で窺い知れる翁の思いは、目下のような一触即発の日中関係にとっても、すこぶる示唆的であります。またそう思いますゆえ、記念大会の来場者のみならず、一人でも多くの方に、ありし日の頭山翁の思いを知って頂きたく思い、このたび、転載することを決しました。

なお、以下に転載致しますのは、上述した本文への修正を加味し、読者の用に供するため正仮名遣いを現代仮名遣いに改めるなどして小生が翻刻したものです。

以下転載

昭和十九年十二月十二日午後七時

於 上海放送局 放送原稿

『父を語る』

         頭山秀三

三男の秀三であります。

在住せられる日本人の方々に、第一に申し上げねばありませんことは、日本人としての光栄これにすぐることなき、有難き喜びを、皆様におわかちせねばなりません。終生無位無官の一介の野人に過ぎませぬ父の死にのぞみまして、畏れ多いことは、

 陛下から、頭山満死去に付き、とおおせられて、むさくるしい故き父の家にまで御勅使の御差遣を賜り、あまつさへ、御花、御幣帛及び御祭祀料までも賜ったのであります。

 生前の父が一たん、上御皇室のことにふれます限り、全く畏れかしこみ、世の中にこれ程臆病な男が他にあるであろうかと思はれる程畏れかしこみ有難がり奉った。父の姿を思い浮べる時に、父の魂が御皇恩の有難さに頭のてつぺんから足のつま先までしびれる程の感激に耐えない光栄を謝し奉る父を眼前に見る様でありました。

 父の一生をかけてしたこと等は、この廣大なる大御心の御仁慈を戴きましては、まことに畏れ多く、全く無価値な一つぶの砂にもあたらないことで御座居ました。

 この有難さは故き父の無上の喜と申し上げてよいか、何と申し上げてよいかわかりませぬが限りなき光栄でありました。

 次に申し上げねばなりませぬことは、南京、上海の国民政府諸官庁を始め中、南、北を問はず、各所に、官民の別なく、中国の方々の発起によりまして、一介の野人、父の霊を、殆ど凡べての地域にわたつて鄭重にお祭り戴きましたことは、日華しのぎをけづつて相戦う、さなかに於て、何と云う父のほこりでありましょう。実に有難い微笑を禁じ得ぬ、父の栄誉でございました。心から中国の皆様方に御礼を申し上げます。

 父は安政二年四月十二日筑前の一角に呱々の声をあげたのであります。

 もの心が付くと同時に、天子様の御国神国日本に生れさしていただいたことに、父は非情な幸福感とほこりとを心から感じたといふことを常に、私達子供に申して居りました。

 父はそれと同時に、子供の頃から英米をきらいました。殊に英国をきらつていました。殆ど悪口等云わぬ父でありましたけれども「あのずるいイギリス人」「あれ程狡猾な奴はない」「けだものの国イギリス」とか口をきはめてののしる父の言葉を何十、何万回となく私達子供は聞かされたことでありましょうか。

 父は天子様に滅私奉公させていただくことに「何とも申し上げることの出来ぬ有難さ」「何とも申し上げることの出来ぬ有難さ」これは父が口癖の様に死ぬまで申した言葉であります、之を実行に移すべく、子供の頃からなさうと考へたことは、第一に日本を強い強い日本にすることでありました。

 そして、英米の東亜に対する野望を、東亜から駆逐して、虐げられつつある、東亜の国々を、英米の野望から、たすけ出そうと考えたのであります。

 その父のおさな心が後ちに中国を日本の心からの友として相助けあい、その絶大なる力を以て、先づ英米の野望を撃滅し、東洋の道徳を以て地球の凡てを治めて道をたのしむ楽しい以外になにものもない地球にしようと考へたのであります。

 そうした父でありましたから、今から考へると不思議な様に思われますけれども、日本の誰れもが贊意を表さなかつた日本の軍備の擴張を是が非でもなさねばならぬと云ふことを唱道した唯一の人が父でありました。その父と共盟して初議会開催からこれを実現すべく頑強に唯だ一人論じ来った人は香月恕経という人でありました。

 後ちに父と中国の父孫総理とが、たまたまあひ会してから、たちまち百年の知己たり得たことは、申し上げた様な父の理想と孫総理の理想とが、日本人と中国人の違いはありましても、東洋の人としての二人の理想が二つではなく全く一つであったからであります。

 父が時おり孫総理を思ひおこして、私達子供たちに話して聞せた言葉は「あれほど英国ぎらいな中国人はなかつた。英国をほろぼしたくてほろぼしたくてたまらん男であつた。そのためには早く日本の軍隊に強くなってもらい、中国は中国で中国の四分五裂の国情をすみやかに統一して、共に心からなる国交を結び、日本と中国とを絶対に強力なる態勢にして、印度を助けて英国より独立せしめ、東亜の三国一体の力を以て、英国を撃滅し、東亜の道徳を以て世界を治めよう、と云うのが孫総理の終生の念願であった」と申して居りました。

 父と孫総理とが互ひに相ゆるしたと云うことは、実に当然であったのであります。

 昭和十二年七月十二日、日華両国の識者等をして、愚これより愚なるはなしとする、日華相戦うの愚は、呼んで支那事変と云ふ名称の下に展開せられたのであります。

 その朝私をとくに部屋に呼んだ父は「馬鹿なことがはじまった、蒋介石氏は日本と中国とが相助けあわねばならぬと云う意義を尤も解し得る中国人の一人であることを俺が一番よく知っている。蒋介石氏が日本へ来られた時に俺は日本と中国とが、いかなる情勢にたちいたろうとも、いかなる耐えがたい問題が持ち上がろうとも、日華の交わりを失ってはならない、もしそれを失う事があればそれは日華両国の理想を失い、日華両国の真理を失うことである。ただそのことだけを俺は蒋介石氏と、かたく約して別れたのである、その蒋介石氏が総大将となって、日華相戦うことになったと云うことは、やむにやまれぬ事情の下に蒋介石氏の非常な決心と覚悟とを思うことが出来る。

 この戦は日本の力の総てを集中してすみやかにかたづけてしまわねばならぬのであるが、日本は中国の力を小さく見て局部々々の戦いに始まるであろうから、多くの尊い日華人の人命と、貴重な長い歳月と、莫大なる物量とを失いつくすまで戦うに違いない、馬鹿なことだが、こうなった以上は、お前等もいつこの戦いに御召があるかわからぬから、いつでも御答え出来る用意をしておけ。

 俺は、日華両国、共に力のあるだけを尽しあって、けだものの国をうちほろぼして、大御心をやすんじ奉ることを一生の仕事として来たが、今頃こういう馬鹿なことがはじまるとは馬鹿なことじゃねえ」そういってにっこり笑っていましたが、おそらく父の一生を通じてこれが一番淋しい笑いであったでありましょう。

 しかし、不幸なる支那事変勃発から今日までに至る長い長い歳月の間には、あるいは成立するかと思われる様な全面和平の希望が二、三ありました。そうした時の父は「日本と中国との全面和平の出来るのはあたりまえさ、むずかしく考えることがいらんことさ、お互いの痛い所をさすりあい、お互いのかゆい所をかいてやる気持ちがお互いにおこりさえすればそれでいいのさ」そんな風にいいながら嬉しそうに、熱心にいつまでも話しつづける父でありました。

 けれでもそうした希望はどうした理由か知りませんでしたが、皆一時の問題として、ことごとく消えて行きました。

 然し父は日本のことごとくの人々が大東亜戦に勝ちぬかざるかぎり日華の全面的和平はあり得ないと、あきらめざるを得なくなった今日、日華全面的和平の必ず来たることを、非常な自信を以て、うたがうことなく、人間の生命としては長い歳月でありましょう九十年の一生を本年十月五日午前零時三十五分を以て終わったのであります。

 私が最後に父と話をしましたのは、十月三日の飛行機で渡支することにきめて父に別れを告げに行った九月末のことでありました。

 其の時の父は大変なご機嫌でありまして「中国にまた行くか元気で行ってこい、皆日華の全面和平を、とうていできんこととして、あきらめよるようだが、お前まで力落しをしちゃあかんぞ。中国が英米と協力して、日本と相戦う、これは真実ではない、うそだ。うそはいかなるこだわりがあろうとも長くつづくものではない。中国が滅びて日本はどうしようというのか、俺は孫総理の心と、かつて蒋介石氏と約したことを、現代中国においても真正なる中国の心と信じ、中国の理想であることをうたがわない。

 また重慶と南京とを別々にみて居る者が大多数であるが俺一人は決して別々に見てはいない。必ず重慶と南京とは一つだ。

 其の当初に於いて重慶の人々と南京に来た人々との間に何等話しあいのないといふことは、決してあり得ぬことだ。

 陛下が南京政府を御承認になったことは、臣等ことごとく大御心を心として、日本が日本の大理想を遂行する以外には日本がいかに全く無欲な国であるか、日本がいかに正義の国であるか、日本がいかに深い深い親切の国であるかを日華相戦う中にも、幸に南京政府を通じて出来る限りの誠を披歴して、中国のすみずみに至るまで日本の真実をしらしめよとの御おおせにほかならぬのである。お前も有難く日夜大御心をおしいただいて、絶対な自信をもって、日華全面和平の初志を完徹せねばいかん。その心がけを忘れることなく日々行ずる者が一人でもあれば、ましてこの日華のわかりきった真理が解決せぬことがあろうか」

 自信にみちみちた父のこうした話は、その晩いつまでもつづいたのでありました。

 翌る朝私は父のともをして、近くの神社に参拝しました。その道々父は「俺は子供の時から絶対の英米嫌いでねえ。いつか撃ちほろぼしてやろうと考えつづけて来たか、こんな生がい死がいのある時がまたとあろうか、実に愉快な時が来たものじゃ、この戦を苦しがったり恐れたりする者が日本人の中に一人でもあってはならぬ。誰がこの戦を楽に勝とうと思って始めた者があるか、いかに苦しかろうがなんであろうが、天子様の御命令にしたがって日本人の一人のこらずが戦って戦って戦いぬくのだ、勝ち負けは始めから日本の勝ちにきまっている。けだものの心を世界からことごとくおいはらって、世界を正しい人間の心ばかりの世界に御なされ様という天子様の有難い御仁慈の戦いではないか。始めから勝に決まっているのだ。

長州征伐の頃の長州人の心意気を歌ったはやり歌に、こんな歌があったよ「長州征伐あ女の夜這い行けばやらるるカンチロリン。面白いだろ」父の話は実にほがらかであった。

父は最後までこんな風に元気一杯で、すこしも弱った所などは誰にも見せず、あっという間に忽然として姿を消してしまいました。

最後にのぞみ、日支事変の勃発を日本人として最も愚なこととしてこれを憂え、かつ慮りながら日華両国の国交は必ず純一無二なる国交が、日華の真理として近く結実することを断言してやまなかったのは、父でありました。

大東亜戦争の開始を、日本人として最も喜び、実に勇躍しながら、戦争の帰趨をはっきりと世界、地球の真理から、大日本帝国に始めから勝算のきまっていることを、断言したのは父でありました。その父を静かに、私の心の奥に思いうかべながら私の話を終わります。

 転載終わり

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