吉田松陰先生『講孟箚記』を読む(第一場から十場)

講孟箚記は吉田松陰の書、アメリカに密航しようとして捕まり、投獄された野山獄で居合わせた弟子たちに孟子を論じた講義録である。その序文で、道は身近にあるが行い難いのは、富貴に淫せられ貧賤に移されるが故であると説いている。富貴は順境で貧賤は逆境であるが、順境の人間は学問を怠り易いのに対して逆境の人間は励み易い。その点、獄中にある我々は逆境にあるから、学問するには最適であると、かように述べているのである。恐るべきポジティブ思考、高遠な志と言う他ない。

 第一場

君に事(つか)えて臣が忠を尽すのは、親に事えて子が孝を尽すのと一緒である。しかるに聖賢と言われる孔子や孟子が生国を捨てて君主を替えたのは、子が親を愚として替えるのと一緒である。これでは仮に天下が丸く治っても「詭遇して禽を獲る」、すなわち正道に依らずして当座の結果を求めるのと変わらない。功名を立てるのが重要なのではなく、国体の大義を立てればすぐに功名は立たずとも後世の模範となり自ずから国の気風が起こって忠孝の道が立つ。その点我が国は、漢土の様に禅譲放伐がなく、万世一系の天皇を戴いている。よってこの天皇を戴く国体を明らかにし全国を挙げて君臣父子が忠孝に死すると云う信念があれば、外国の侵入など恐るるに足らないと述べておられる。

ここで松陰先生が我が国の他国と異なる国体を意識するようになったのは、東北遊歴中水戸に立ち寄り、同藩の會澤正志斎や豊田天功と会見したのが契機とされている。

第二場

孟子は梁の恵王が国を利する方法について問うたところ、むしろ義理の当然を説いてその利心を挫いた。結果主義と言って目先の成果を求めても一過性のものだ。永久の成果を求むれば、まず仁義を正さねばならない。学問をするのも同じ。仕官の為にする学問は本当の学問ではない。道を明らかにし、義に安んずるが学問の目的である。

つぎに文王が人民と「偕(とも)に楽しむ」といったのは台地鳥獣(御苑の台地や鳥獣)をたのしまず、人民が楽しむのを楽しむということである。この「偕楽」に対して夏の桀王は、「独楽」に耽り人民を虐待したがために文王の子である武王に放伐されたのである。

第三場

孟子が「梃(つえ)を制して秦・楚の堅甲・利兵を撻()たしむべし」と言ったのは、梁の恵王が、自国の弱小を嘆き、斉・秦・楚の三国より逼られている苦境を述べたときに答えた言葉である。王が民に仁政を施し刑罰や租税を軽くし、田地を深く耕す時間を与えれば、反対に民に虐政を施し、苛斂誅求をほしいままにするり秦・楚が堅甲利兵で武装したとしても、相手とするに足らないという意味である。松陰先生は軍略の上からわざと敵に屈して侮らせ、深追いしたところを一伸して反撃する「屈伸の利」を説いている。これには大決断を要するため、「疑うことなかれ」と付け加えているのである。この「疑うことなかれ」について、松陰先生は「功利者流の知る所に非ず」と述べられている。

次に孟子は魏の蘘王が「天下悪(いづく)にか定まらん」と、大国に逼られた自国の命運をまるで余所事の世上話(世間話)のように尋ねたのを暗愚と難じた。松陰先生も「心身家国切実の事務を以て世上話となす者、取るに足る者あることなし」と切り捨てている。

第四場

松陰先生曰く。孟子が「恒産なくして恒心ある者は、ただ士のみ能くすることを為す」と言ったのは我が国の諺にある「武士は食わねど高楊枝」というのと同じ意味であり、武士たる者の心掛けである。

第五場

孟子が、今の音楽は古の音楽のように素晴らしいと言ったのは、音楽それ自体について言ったのではなく、王と民が楽しみを同じくしていることを言ったのである。学問もまた同じで、義理経済の学は正学であるが、それを学ぶ者の志が正しくなく、名利の為であれば、それは曲学を学にも劣る。先生曰く、「志を立つること真ならざれば、名は正学なれども実は曲学にも劣るべし」と。

第六場

松陰先生曰く、天下を以って任とするは、まず一心を正し、人倫の重きを思い、皇国の尊きを思い、夷狄の禍を思い、事に就き類に触れ、相共に切磋講究し、死に至るまで他念なく、片言隻語も是を離るることなくんば、縦令幽囚に死すと雖も、天下後世、必ず吾が志を継ぎ成す者あらん。是、聖人の志と学なり。其の他の栄辱窮達、毀誉得喪に至りては、命のみ、天のみ、吾が顧みる所に非ざるなり、と。

第七場

漢土で湯武放伐が起こったのは、易姓革命思想によるものであるが、我が国は「天日の嗣、永く天壌と無窮なる者にて、この大八洲は、天日の開き給へる所にして、日嗣の永く守り給へる」のであるから絶対に革命は起こらない。その上で、征夷大将軍は天朝の命ずる地位であって足利の如くに徳を失えば廃止されるので漢土の君主に似ているが、だからといって天朝の名なく将軍を廃すれば、無道を以って無道を伐つ不義の闘いになりかねないので注意すべきである。

第八場

斉楚両大国に挟まれた滕(とう)という国の文公が自国の処置をたずねたのに対して、孟子は「是の謀は吾が能く及ぶ所に非ざるなり」と突き放すように答えた。これは逃げたのではなくて、いくら智慧を出しても、詰まるところ文公に「死を効して民去らず」とする決死の覚悟がなければ仕方がないという意味である。松陰先生は、この孟子の故事を、幕府が米露使節の恫喝に狼狽し、諸侯に和戦の得失を問うた状況になぞらえている。

第九場

「管鮑の交わり」で知られる管仲は、斉の桓公を補佐して春秋に覇を唱えた。しかるに修身斉家の次に治国平天下と来る『大学』の王道に反し、桓公と管仲は共に修身斉家を疎かにしたため、「一たび目を瞑すれば、国事潰敗して復た収むべからず」という状況を来した。だから孔子の門人曾子の息子である曾西は、管仲を評してその「功烈は彼の如く其れ卑し」と言ったのである。

第十場

ここでは所謂「浩然の気」について述べている。孟子のいう浩然の気とは、人の行いが道義に適っている様のことである。この場の上欄朱書には、松陰先生が嘉永四年、22歳の時に佐久間象山に師事し、漢学と蘭学を毎日半日づつ修学することを教えられたことが記されている。象山は文政8年、信州松代に生まれ、藩主の真田幸貫に仕えたが、幸貫が幕府の老中になったのに伴って江戸に出、渡邊華山や梁川星巌等当代の名士と交流し、洋式の大砲鋳造など開明的な海防策を説いた。松陰先生が師事したのもその頃である。ペリー来航を受けて、象山は幕府に優秀な若者の海外派遣を進言し、その中には松陰先生も含まれていたというが、結局容れられなかったので、松陰先生は密航を企て、これに連累するかたちで象山も捕らえられた。その後釈放されたが、京都で朝廷の要人に開国論を鼓吹したため攘夷派に睨まれ暗殺された。享年五十四。松陰先生が述べた様に、漢学と蘭学の両立を説く象山は実学重視の人間だったようで、それは愛国百人一首に収められた次の一首からも伺える。

梓弓 まゆみつき弓 さはにあれど この筒弓にしく弓あらめや

筒弓とは大砲の事である。梓弓、ま弓、つき弓など戦で使う弓は沢山あるが大砲に匹敵する武器はないと言っている。

浦安の歴史教育を考える会

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