「三和」の精神に殉じた朝鮮独立の志士、金玉均の生涯について

金玉均

朝鮮独立の志士、金玉均

本日3月28日は、李氏朝鮮末期における朝鮮開化派・独立党の指導者である金玉均(1851~94)の命日である。金玉均は、忠清道の両班(貴族)出身で科挙に合格し、朴泳孝等と日本を訪れて福沢諭吉や興亜会の副島種臣等の影響を受けた。その結果、日本を模範にした朝鮮の維新改革を志し、旧態依然たる鎖国主義に凝り固まり、宗主国たる清国への隷従を続ける閔妃(国王高宗の后)等の守旧派・事大党を排除すべく、1884年12月、大院君(高宗の父)を後ろ盾としたクーデターを敢行したが、ソウルに駐屯する清国軍(司令官は袁世凱)の介入によって挫折し、日本に亡命した。後に「甲申事変」と呼ばれるこの事件の背景には、同年4月における清仏戦争の勃発や、朝鮮に対する清国の宗主権を排除しようとしていた日本政府が、金等独立党への支援を約束していたこと等があるが、事変に際してソウル駐屯の我が軍は、金への支援を徹底し得ず、当時の竹添公使は、金や朴等を伴って日本に逃げ帰った。

「金玉均氏遭難事件」(東京経済大学資料)

かくして日本に亡命した金玉均は、清国との外交関係悪化を恐れる我が国政府にとって迷惑な存在でしかなく、彼は身を隠すべくして札幌や小笠原などの辺地を転々としたが、その間、こうした苦難の亡命生活を献身的に支援したのが、犬養毅や、頭山満や来島恒喜等の玄洋社員であった。なかでも、後に大隈重信を襲撃する来島恒喜は、小笠原まで行って金と一緒に田畑を耕し、寝食を共にしたという。金は日本で雌伏して捲土重来を期し、時局打開の好機到来を待ったが、そうした機会は一向に現れず、空しく歳月を経ること十年に及んだ。そんななか、李鴻章の子である李経方から、金と鴻章の会談の誘いが来た。頭山等の同志は、それは金を暗殺するための罠に違いないと猛反対したが、金は周囲の反対をおして出発し、渡航先の上海で、閔妃の刺客である洪鐘宇によって射殺された。金の死後、その遺体は清国の軍艦で朝鮮に運ばれ、無惨に切り刻まれた上で、胴体は川に捨てられ、首や手足は晒し物にされた。しかし遺髪や衣服の一部は、日本人の手で日本に持ち帰られ、宮崎滔天等によって葬儀が営まれ、東京真浄寺に埋葬された。また頭山や犬養の手によって、東京青山霊園の外国人墓地に墓碑が建立され、今日に至っている。

晒し首にされた金玉均「大逆無道玉均」書かれている。

 

 

 

 

 

 

 

「三和」の思想

以上が、大凡の事績である。金は日韓清が独立した対等な立場で提携し、アジアに侵略の触手を伸ばす西欧列強の脅威に対抗する「三和」の思想を抱懐していたとされる。これは、樽井藤吉の『大東合邦論』の影響とする意見もあるが、福沢諭吉の門下で、ソウル発の新聞である『漢城旬報』の創始者で、金玉均とも親交のあった井上角五郎の回想によると、福沢の影響であるという。金玉均は福沢から聞いたこの「三和」の所信を「興亜策」として国王高宗に奏上し、さらには自らの号ともした。井上の回想によると、金が最後、周囲の反対をおして上海に渡ったのは、李鴻章にこの「三和」の信念を説くためであったという。「金玉均君が上海に行きますことに付ては、今日までも書いた物が色々残っておりますが、何故金玉均が上海に行くことを決心したのか誰にも金君は話さない。私共にも極く秘密にして話しませんでした。所が或る晩おそく私の所に参りまして「今日は死別れに参りました、井上さん、死別れといふのはそういふことか、事情は福沢先生に詳しく申し上げましたが、実は三和の主義を以て李鴻章を説かうと思う、私が支那に行って李鴻章に面会が出来れば―或は面会する前に殺されるかも知れない、或は其の前に死ぬるかも知れない、或は又面会中に殺されるかも知れない、勿論面会後には生きては居ないだらうと思って居りますが、兎に角日本、支那、朝鮮の三国が共同一致して西洋の勢を防ぐのが目下の急務で、東洋平和の原因は茲にあるのだといふことを李鴻章に向かって説こうと思ふ」と」(井上氏『金玉均君に就て』中央朝鮮協会)。彼は日本亡命中に「岩田周作」という名を用いていたが、暗殺された上海の宿帳には「岩田三和」の名が記されていたという。

「日韓よ独立国たれ!」

甲申事変における朝鮮維新改革の失敗、そして金玉均の暗殺によって、朝鮮は独立の好機を逸し、それ以降、亡国の坂を転げ落ちて行った。朝鮮を滅ぼした最大の要因は、事大主義であり、「以夷制夷」(夷を以て夷を制する)を専らとする属国特有の因循姑息な外交である。特に朝鮮の場合、時局の逼迫をよそに、宗族や本貫を中心とした内紛抗争に明け暮れ、それぞれの党派が外勢を味方につけて内政に引き入れた結果、内憂外患交々至ると云った惨状を現出し、その時々によって、ある時はシナにより、或る時は日本により、またある時はロシアによると云ったように、一見すると大国を手玉にとって自己の延命を図るように見えながら、結局は大国の分有支配するところとなった。これに対して、我が国は忝くも世界無比の天皇陛下を戴き、明治維新によって一君万民の国体を顕現し得たことによって、国民が一丸となって外勢を斥け、国家の自主独立を全うし得た。しかるに、戦後は、その類稀なる国体を閉却し、国民は自主独立の気概を喪失し、内政ではアメリカに付くか、シナに付くかの内紛抗争に明け暮れている。その意味で、いまの我が国は、まるで李朝末期の朝鮮のようだ。

いまも昔も、朝鮮半島における我が国の戦略的な利益は、独立した朝鮮の存在である。というのも、地政学的に朝鮮半島は我が国にとって、柔らかい脇腹に突き付けられた刀であり、朝鮮が大陸の覇権国に支配されれば、その次の標的は間違いなく我が国になるからである。したがって、我が国は、朝鮮を独立国として維持し、そうした大陸覇権国との緩衝国ないしは防波堤にすることが、一貫した国防上の利益であり、それは明治政府においても然りであった。すなわち、我が国は朝鮮の独立を守るために金玉均等独立党を支援したのであり、時代遅れの中華思想によって朝鮮を属国扱いする清国と戦火を交えたのであった。また我が国は、朝鮮の独立を守るために、南下政策によって朝鮮に食指を伸ばすロシアと戦ったのであって、決して領土的な野心によって侵略したのではない。とはいえ、我が国が、朝鮮との対等な関係を模索しながらも、独立心なき朝鮮を相手に、武断併合の止むなきに至ったことは日韓両国の悲劇であった。しかしもっと悲劇なのは、それから百有余年後の日韓両国が共に、独立心なき事大主義の国家として、宗主国アメリカへの臣従を事とし、今度は新たな覇権国となったシナの侵略に脅かされていることである。泉下の金玉均が現在の日韓両国に発するメッセージは、「日韓よ、独立国たれ!」という血の叫びである。

参考)金玉均先生墓前祭報告(平成24年)

青山霊園における金玉均墓前祭の様子

さる平成24年3月31日、青山墓地において「先覚 金玉均先生墓前祭」が営まれました。本催事は、朝鮮開化派の指導者として甲申事変を起こしたことで知られる金玉均先生の命日に合わせ、先生の御霊を慰めそのご遺徳を顕彰することを目的に毎年営まれてきたものです。
金玉均先生は1851年、西欧列強、なかんずく大国ロシアによる東方侵略の脅威が忍び寄る朝鮮の忠清道で生を受けました。彼は、同国の伝統的な支配階層である両班の出身でありながら、清国への追従を続け、門閥政治に明け暮れる朝鮮の現状に危機感を抱くようになります。そこで当時、明治維新を成し遂げ、国家の近代化を推し進めていた日本を訪れ、福沢諭吉や大隈重信、渋沢栄一ら政財界の要人と交流を深めるなかで、朝鮮の近代化による自主独立を志向するようになりました。とくに元外務卿で興亜会の領袖であった副島種臣や、『大東合邦論』の著者である樽井藤吉らの興亜思想に強い影響を受けた先生は、西力東漸の勢いに対して日清韓の三国が団結することを意味する「三和主義」の思想を抱くようになりました。
そしてついに明治21年(1884年)、先生は開化派の指導者として朝鮮内政のクーデター計画を断行し実権を掌握しますが、守旧派である事大党の反動によって失脚し我が国への亡命を余儀なくされます(甲申事変)。このとき我が国政府は、事大党の後ろ盾となっていた清国の存在を恐れたために先生への支援を徹底しえなかっただけでなく、先生の亡命以降も清国の顔色を伺って北海道や小笠原などの僻地に彼を移送、軟禁するありさまでした。
これに反し、我が国の民間志士は、先生の亡命生活を献身的に援助し、なかでも玄洋社の頭山満翁を中心とする興亜陣営の一派は、先生が頭山翁の反対をおして渡航した先の上海で袁世凱が放った刺客の凶弾にたおれるまでの間、公私に渡る支援を貫き通しました。
本催事は、こうした歴史の縁に因み、頭山満翁の精神の継承者である頭山興助会長が祭主、そして大東塾の福永武氏が斎主を務めるなかでつつがなく営まれました。当日は強風が吹きすさび小雨が蕭々と降るあいにくの空模様でありましたが、50名ほどの参列者を得、閉式後近くの会議場に場所を移して催された勉強会でも、多くの参加者が多岐にわたるテーマで議論を交わしました。また先生の没後120年を迎える再来年に向けて、有志で準備を進めることなども話し合われました。
現在の我が国日本が、米国による覇権に追従し自主独立の気概を喪失している状況下にあって、朝鮮国家の独立とアジアの団結を目指した金玉均先生の事績は再評価に値します。その意味で本祭事がすこぶる有意義な催しとなりましたことを記してご報告と致します。

 

カテゴリー: アジア主義, チャイナ・朝鮮 パーマリンク